日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第4回 堀内恒夫
―昭和41年、高卒ルーキーとしてプロ野球界にデビューした堀内恒夫氏は、新人として13連勝、連続44イニング無失点のプロ野球新記録をつくるなど、シーズンを通して大活躍をつづけ、一躍ジャイアンツの若きエースとして脚光を浴びる存在となった。
僕はね、コントロールのよいピッチャーじゃなかったんですよ。キャッチャーのサインどおりにボールは投げますよ。ただ、要求されたコースにボールが行くかどうかは、自分でもわからないんです。
自分の力が100あるとすると、その100の力で投げる、投げたいというのが若いピッチャーなんですね。力を抜くとボールが遅くなるという感覚があるんです。だから100の力で目一杯投げてしまう。するとボールはどこへ行ってしまうかわからない。やはり過ぎたるは及ばざるが如しという言葉どおりで、8分目ぐらいの力で投げるのが一番いいんです。
でも、新人のころはそんなことはわからないし、考える余裕もない。とにかくキャッチャーのミット目がけて力一杯投げとけっていう感覚だから、コントロールがいいわけがないんですよ。
それでいて球は速いし、伸びがすごいでしょ。バッターは怖いのが先に立って、なかなか踏み込めないんです。そこへ落差の大きいカーブが入ってくるから、みんな面白いように空振りしてくれたんですよ。
― ルーキーシーズンを16勝2敗の好成績で乗り切り、巨人V2にも貢献した堀内氏は、翌42年1月、多摩川グラウンドでの自主トレ中に、椎間板ヘルニアという選手生命にかかわる大アクシデントに見舞われる。
野球選手のオフというのは結構忙しいんです。特に優勝とか大活躍をした年のオフというのは、サイン会とかテレビへの出演とか、いろいろ引っ張りだされて大変なんですね。で、僕もオフのあいだはそういうことにかまけて、トレーニングも休養もしなかった。
野球ができる身体にするには大体2週間ぐらいのトレーニングが必要なんですが、逆に2、3日練習を休むと、元の身体に戻っちゃうんですね。だから、オフのあいだでも軽いトレーニングをつづけていればよかったんですが、自分だったら平気だと、まあタカをくくっていたんですね。
それで1月後半から多摩川グラウンドで自主トレがはじまって、みんなと一緒に練習をやりはじめた。そしてウォームアップで大きくジャンプしながら走る運動をやっていたら、突然、ドンッという衝撃が腰にきたんですね。トレーナーに見てもらったら軽いギックリ腰だといわれたんですが、痛みはどんどん大きくなる。どうもおかしい。それで吉田増蔵という有名な接骨医の先生のところへ行ったら、「椎間板ヘルニア、しかも椎間板の一部に亀裂骨折が入っている。もう野球をやってはいかん」といわれたんです。
僕の場合、背骨に2センチほどのズレが出てしまったそうなんですが、一時的に修復しても、野球をやればまた椎間板が飛び出してくるというんですね。で、何とか直す方法はないですかって聞いたら、背骨のズレはそのままにして周りを筋肉で固めちゃうしか方法はないと。
その筋肉をコルセットのようにするというのが大変だったですね。毎日、腹筋と背筋を400回から500回づつ。僕は人前でそういうことをやるのが嫌いなんで、寮の仲間が寝静まった深夜とかね、そういう時間にやるんです。そういう過激なトレーニングを行うと、身体を壊すんですよ。腹部が痛くなる。食べたものを吐く、下痢をする、そして物を食べられなくなるんですよ。でも、そうしたトレーニングをつづけていくうちに段々、筋肉が固まっていったんですね。
ただトレーニングをやめると、筋肉が元に戻ってしまう。だから、それ以降は現役を辞めるまで、毎日毎日、トレーニングですよ。シーズン中もオフも、お酒を飲んでも遅く帰ってきても、とにかく毎日それをやっていましたね。
でも、それだけやっても腰の痛みはとれないし、梅雨時になると身体が満足に動かなくなる。それで練習嫌いだとか、集中力がないとかって、よくマスコミから叩かれましたけど、僕はいいわけするのが嫌いなんですよ。だから黙ったままで、それから16シーズン頑張ったわけです。
だいたいプロ野球というのは、すべて結果なんですね。結果以外の過程とか、そういうのは関係ない世界なんです。そういう厳しい世界だからこそ、そこで闘いつづけることに喜びがあるし、僕自身、弱音を吐かずに頑張れたと思いますね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2000年4月号より抜粋