日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第8回 村田兆治
―広島県の福山電波工業高校(後の近大付属福山高校)に超高校級の剛速球ピッチャーがいた。惜しくも甲子園出場は逃したものの、プロのスカウトはその素質を見逃さなかった。
昭和42年秋の第3回目のドラフト会議だったですね。東京オリオンズ(44年シーズンからロッテオリオンズ)が僕のことを1位指名したんですよ。まあ、びっくりしたマスコミの方も大勢いたと思いますよ。福山電波ってどんな高校だと、村田兆治ってどんなピッチャーなんだと。
新設校だったし、甲子園にも出ていない、当時としてはまったく無名の高校だったですからね。でも、広島県下では結構、有名な高校だったんですよ。強くなるには練習試合をやるしかないという監督さんの方針で、中国地方はもちろん、四国、近畿まで遠征に行って、強豪といわれるところとは軒並み練習試合をやりましたからね。
で、その練習試合の過程で僕のことが誰かの目にとまったんでしょうね。3年生のときに突然、オリオンズのスカウトの方が訪ねてこられて、ドラフトで僕を指名したいと。それを聞いたときは本当に天にも昇る心持ちというんですか、体が震えるほど嬉しかったですね。ああこれでプロの世界に行けるんだと。もう、中学で野球をはじめたころから、プロの世界に行くことが僕の夢だったですからね。
― 重いマサカリを振り下ろすような独特のフォームから投げ下ろす速球は文句なく威力があった。しかし、問題はコントロールだった。
速球には自信がありましたよ。高校時代からいかに速いボールを投げるかって、それだけを考えてつくり上げてきたフォームですからね。たぶんチームで一番速いボールを投げていたんじゃないですか。ただ、プロの世界ではいかに速いボールを投げられても、それだけじゃ、やっぱり一軍には上げてくれないんですよ。
じゃあ一軍に上がるためにはどうするか。やっぱりコントロールをつけるしかないんです。しかし、コントロールを追求すると、今度はボールにスピードが乗らなくなる。僕としてはどうしてもスピードは殺したくなかった。それが自分の持ち味ですからね。だから足腰を鍛えながら、少しずつ投球フォームを変えていったんです。そうやって4年間かけてつくり上げたのが、あのマサカリ投法といわれる独特の投球フォームだったんですね。
あのフォームでボールを投げるには、足腰の筋肉、それから腹筋と背筋を鍛え上げなくちゃならない。だから毎朝、ランニングですよ。で、家に帰ってから腹筋を500回。これをシーズン中はもちろん、オフに入っても毎日毎日、ルーティンのようにやるわけです。休みたいとか、そう思ったことは現役時代には一度もなかったですね。休んだらピッチャーとしての生命は終わると思っていましたから、まあ仕事の一環、準備作業だと、そう思ってやっていたわけです。
― 剛速球とフォークボールを武器とした村田氏は、入団から8年目、昭和50年のシーズンからオリオンズのエースとして大車輪の活躍をはじめる。
エースというのは、「これはという試合に先発して完投する」、そういう役割をもっているんですね。もちろん監督、ナインからは信頼される存在であり、その信頼や期待を裏切らないように努力するというか、努力せざるをえない立場なんです。
で、先発でマウンドに上がったときに、何を心がけるかというと、まず、最初のバッターを三振にとる。一番バッターをズバッと三振に切っておいて、相手チームに、今日の村田には勝てないかもしれないと思わせる。そして要所要所をしめて9回まで行ったら、今度は最後のバッターをですね、これまたストレートでズバッと三振に仕留めて試合を終わらせるんですね。
もう相手に完膚なきまでのダメージを与えておく。そうしておくと次に当たったときに、相手チームは最初から完全に萎縮しているんですよ。今日も村田か、勝てそうもないなと、そう思わせたら、もうこっちの勝ちなんですね。
逆に、こっちが飲んでかかられると、相手はやっぱりプロのバッターですからね、どんなにいいボールを投げても最後の最後には追い詰められて打たれてしまう。だから、そうさせないためにも最初と最後のバッターは全力をあげて三振に仕留めにいったんです。
そうやって40歳まで22年間、途中故障で2年半のブランクはありましたけど、とにかく投げつづけることができたということは幸せだと思いますよ。入団したときは、そんなことは想像もできなかったですしね。最初はとにかく1軍に上がりたいと、そして1軍に上がったら、今度は最低5勝は上げるピッチャーになりたいと、そういう具合に1つずつ目標を設定して頑張ってきたんですけど、まあ、あそこまで行けるとは本当に思っていなかったですね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2000年8月号より抜粋