日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第20回 江藤慎一
―ノンプロの名門・日鉄二瀬で、強肩・強打のキャッチャーとして頭角を現した江藤氏は、昭和34年に中日ドラゴンズに入団する。
そりゃ日鉄二瀬といったら、九州の社会人野球のなかでは常に1位、2位を争うほど強いチームだったですね。監督は元プロ野球選手で、後に中日ドラゴンズと東京(ロッテ)オリオンズの監督を歴任した濃人渉さん。先輩のなかには広島カープの監督をやった古葉竹識さん、南海ホークスで活躍した寺田陽介さん、東映フライヤーズの吉田勝豊さんなんかがいて、本当に多士済々というチームだった。
僕が在籍した3年間は、激戦区の九州を楽々と勝ち上がって毎年、都市対抗の優勝候補筆頭でしたからね。ただ、それだけ練習は厳しかった。とにかく濃人の親父さんの考え方っていうのが「こんなところで満足するな。早くプロ野球に上がって親や兄弟を楽にしてやれ」っていうもんですから、見込みのある選手はもう徹底的にしごかれたし、また皆もそれだけの練習をしたんですよ。
幸い僕は強肩・強打のキャッチャーということで、3年間ずっとレギュラーを張ってたんですが、そのうちいろいろなチームから声がかかってきて、なかでも一番条件のよかったのが中日ドラゴンズだったんですよ。
―プロのキャンプにはじめて参加した江藤氏は、そこでプロの技術レベルの高さを身をもって体験することになる。
34年の春のキャンプに参加したとき、感じたことが2つあったんです。1つ目は、何だ、プロの練習ってこんなに軽いのかという驚きですね。もう日鉄二瀬に比べたら練習量が全然足らんわけです。こんなプログラムでやってたんじゃ、自分はダメになる。そう思ったから夜は日鉄二瀬と同じようにバットを振って振りまくる。もう一心不乱に振るわけです。それから朝は食事前に必ず走る。食事を摂ってからチームの正規の練習プログラムに参加する、そういう生活に即座に切り換えたんです。
それからもう1つは、プロのピッチャーが投げる球はノンプロと全然違うということですね。僕はキャッチャーで中日に入ったから、ブルペンキャッチャーやるでしょ。受ける球が全然違うんですよ。まず球が速い。切れが全然違う。それに配球のうまさが加わってくる。僕だってノンプロでは名うての強打者だったんですが、ああ、これじゃ芯に当たらないって、球を受けただけですぐにわかったんです。
それまで僕はバットを立てて構えていた。だけど、それじゃプロの球のスピードについていけない。じゃあ、どうするかっていろいろ考えて、バッティングフォームをがらっと一変させたんです。
―入団初年度から1塁手の定位置を確保した江藤氏は、安打を打ちまくって不動の4番打者になり、さらに入団6年目、7年目には2年連続で首位打者のタイトルを獲得するなど、セ・リーグを代表するバッターの1人に育っていく。
僕はオープン戦の成績はよくないんですよ。それは今シーズンをどうやって打っていくかって工夫する期間、試し打ちをする期間だからなんですね。成績なんて関係ない。しかし、公式戦がはじまったらもう1試合1試合、1打席1打席が命がけですよ。今日は調子が悪いなって日もあるんですが、そういう日は打席にかぶさっていって、意図的にデッドボールをもらって塁に出ていっちゃう。すると4打席0安打が3打席0安打で終わるわけですよ。その積み重ねが打率になって残るわけですが、そういう心構え、気持ち、気迫、それがプロのプロたる由縁なんです。
ただ、僕はそういうことを他の選手には強制しないし、注意もしませんでしたね。たとえ同じユニフォームを着ていたって僕には関係ないことなんですね。勝ち負けの責任は監督にあって、選手にはその年棒に見合った働きをしなければならないという責任がある。だから僕は自分の年棒に見合う働きをしようと相手を研究するし、打率や打点を上げようと日々精一杯の努力をする。そんなことを他人から言われてやるような選手はどんどんプロの世界から落ちていきますよ。
極論するとね、プロの世界というのは、人のことはどうでもいいんです。チームワークということも関係ない。それは社会人野球や高校野球といった世界の話であって、プロの世界というのは、いかに自分を大切にしていくか、自分の価値を高めていけるかどうかであって、それが徹底できない選手というのは、やっぱり落ちていってしまうんですね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2001年8月号より抜粋