日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第12回 山本浩二
―万年Bクラスのローカル球団だった広島東洋カープは、優勝を争えるチームにしようと根本睦夫氏を監督に招聘し、才能あふれる若手選手を次々に獲得。そして昭和43年秋のドラフト会議では、田淵幸一氏、富田勝氏と並んで「法大の三羽烏」とうたわれた山本浩二氏を1位指名し、その獲得に成功した。
僕は大学2年のときにピッチャーからバッターに転向したんですが、野手に変わるための練習というのは、もう半端なものじゃなかったんですね。監督自らノックバットを振るんですが、もうぶっ倒れるまでやらされる。当時は、監督病気にならないかなと、病気になって練習休んでくれないかなと、本気でそんなことを願っていた毎日でしたね。
だからカープに入団が決まったときは「ああ、これでちょっとは楽ができる」って正直思いましたね。それに花のプロ野球に入ったわけですから、やっぱり遊び心っていうのも出てきますよ。高い契約金はもらい、給料も世間一般に比べたら非常に高い。大学時代のきつい4年間を取り返してやれって、そう思っていたんです。
ところが、当時のカープは、監督が根本睦夫さん、ヘッドコーチが関根潤三さん、守備コーチが広岡達朗さんと、球界でも厳しいことで定評のあった人たちが、そろって首脳陣を構成していたんですね。で、4年先、5年先のリーグ優勝を目指して、衣笠や三村、水谷、そして私といった若手連中を徹底的に鍛えようと、もう手ぐすね引いて待ち構えていたんですよ。
―カープの練習は大学時代に増して厳しかった。だが、その厳しい練習に耐えられたのも、チーム内に衣笠祥雄氏という最大のライバルがいたからだと山本氏は語っている。
入団してから3年間は本当に野球漬けの毎日でしたね。プロ野球は地方遠征が多いんですが、試合が終わっても、まず外に遊びに出るってことがなかったですね。試合が終わったらすぐホテルに帰って食事をして、その後みんなで集まってスイングするとか。また移動日も、現地に着いたらすぐ練習です。とにかく自由時間がないんです。それが非常に苦しく、辛かったですね。
ただ、それが耐えられたというのは、やっぱり同世代のライバルがいたからなんですよ。プロ野球というのは結果が数字になって出てくる世界ですから、チームメイトだけには負けたくないって気持ちになる。とくに僕と衣笠は同じ年だし、いっしょにクリーンナップを張っていましたから、どうしても意識し合ってね、あいつにだけは負けたくないって、お互いそう思うようになっていったんですね。だからユニホームを着ているときは話もしますが、脱いだら一切口をきかないし、衣笠がバッターボックスに立ったら心の中で「三振しろよ」とか「打たんでもいいぞ」とか、正直そう思っていたんですよ。
ところが、そういう仲だったのに、カープが初優勝した50年のシーズン、優勝が決まった瞬間に、僕と衣笠はお互いに駆け寄って、涙流しながら抱き合っていたんです。それからなんですよ、衣笠との関係が変わったのは。
もう一度優勝したい、あの感激をみんなでもう一度味わいたい。そう思えるようになった途端、バッターボックスに立つ衣笠に向かって、もう心の底から「打ってくれ、ポテンヒットでも何でもいいから走者を本塁に帰してくれ」って、そういえる間柄になった。シーズンが終わると1年の結果が数字で出てきてお互いの勝ち負けがハッキリする。「ことしはお前に負けたけど、来年は負けんぞ」と、はっきりと口でいえるライバル同士になった。これは強いですよ。
お互い歳をとってきても毎年のキャンプで張り合って練習する。練習量は毎年多くなっていくんです。すると後輩連中も帰るわけにいかないから、自然と練習量が増えていく。
どの球団にもチームリーダーと目される選手が1人はいるんですが、年齢や成績、あるいは後輩を叱りつけるといったことだけでチームリーダーになった人なんて誰もいないんです。その人が一生懸命練習をやっている姿を見て、選手全員が引っ張られるように練習するようになる。そういうチーム環境のなかから自然発生的に生まれてくるんです。
だからカープの場合は、僕と衣笠の2人がチームリーダーだったんです。2人が互いに張り合って練習したから、それに引きずられるように後輩連中が練習をし、自然と戦力が厚くなってカープの黄金時代につながっていったんです。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2000年12月号より抜粋