ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 






第二井上ビル。中央区日本橋茅場町2-17。1987(昭和62)年5月31日

永代通りの霊岸橋のほぼ袂にある。1階を石積み風にした1927(昭和2)年に竣工したクラシックなビルで、今もあまり改修の手が入らずに使われているそうだ。昭和8年の火保図では「塚本ビル」となっている。昭和30年頃の火保図では「セーラー万年筆株式会社」。 セーラー万年筆の沿革によると、昭和27年5月から昭和53年4月までこのビルに本社を置いている。カートリッジ式万年筆は昭和33年の発売というが、そんな昔の話だったかと意外だ。
窓の間の壁面に小さな飾りのようなものがある。実用的な金具のようにも見える。電飾の飾りつけには役に立ちそうだ。
ビル正面から出ている横丁は永代通りの裏道になるが茅場町1丁目と2丁目の境である。関東大震災後に永代通りや新大橋通りが新設されて周辺の道路もだいぶ変わったが、この道路は南茅場町と亀島町1丁目との境になっていた道路。第二井上ビルの建つ場所は町には入らず亀島河岸になる。



ビルの後ろは亀島川。左奥の橋は新亀島橋。霊岸橋から撮影。1987(昭和62)年5月31日



近影。2006(平成18)年9月30日

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渋沢開発。中央区日本橋茅場町1-13
上:1986(昭和61)年6月22日
左:1987(昭和62)年5月31日

新大橋通りの、永代橋通りと交差する茅場町1丁目交差点のすぐそば。写真左へ行くとすぐ日本橋川に架かる茅場橋。1986年の住宅地図では写真の2階建ての建物に「埼玉ゴルフクラブ、渋沢開発㈱、渋沢航空」の記載。写真右から後ろにかけてのビルは澁澤倉庫が建てたビルで、同地図では「メイツレーン日本橋、千代田書店、ショッピングプロブナード、ボーリング場」である。澁澤倉庫の本社があった。現在の澁澤シティプレイスという高層ビルが竣工したのは1991(平成3)年である。
昭和30年頃の火保図では渋沢倉庫の「車庫」、昭和8~11年の火保図では「山一商店車庫」で別の建物である。昭和15年頃に車庫として建てられたものと推定できる。1階は4箇所の車庫だった開口部を塞いで窓を設けたものだった。運送用のトラックが入っていたのかもしれない。

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東京華僑会館。中央区銀座8-2。1987(昭和62)年5月24日

新田ビルと同じブロックの南の角。写真右へ行くと外堀通り、逆に行くと外堀川の上に造られた首都高をくぐるが、堀川があったときには新幸橋で渡していた。写真のビルは撮影後、じきに建て直されている。写真でも看板などがないからテナントは出た後らしい。
昭和10年頃の火保図に「都ビル(コンクリート5階建)」となっているビルだと思う。昭和30年頃の火保図では「東京華僑会館」になっている。築地の華僑ビルを連想してしまうが無関係だろう。
右の写真で右奥に入っている路地はクランク状に2回曲がって新田ビルの横を通っている。奥の白い壁の建物は「珠光ビル」で、店は変わったが今も建っている。

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新田ビル。中央区銀座8-2。左:1987(昭和62)年5月24日、右:1986(昭和61)年2月2日

新田ビルは2007(平成19)年に完成したニッタビルの旧ビルで、『総覧』では「新田ビル(旧新田帯革製造所東京出張所)、建築年=S5,4、構造=RC、設計=木子七郎、施工=直営」。
ビルのオーナーはニッタ株式会社という工業用ベルトの製造から始まり、今ではものの製造過程での移動にかかわる装置などを製造している会社。本社は大阪で銀座のビルは東京支店。設計者の木子七郎(きごしちろう)の婦人はニッタの創業者の新田家の出という関係だ。
『感佩(かんぱい)新田ビル』という公式サイトのようなホームページがある。そこではスペイン式のデザインとしているが、ロマネスク様式に近いように思える。北側の角にあった塔屋は1985(昭和60)年に撤去された。このサイトで見ることができる塔屋のある正面の写真や向かいのビルから見下ろした屋上の写真などが貴重だ。解体されるまで屋上に増築がなかったのが珍しい。
新田ビルの横の路地はどういうわけかクランク状に曲がっていて、ビルの平面も後ろの方でその影響を受けている。この路地は関東大震災後の整備で新設されたもの。



1986(昭和61)年2月2日

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明王院前の長屋。台東区谷中5-4。1987(昭和62)年4月10日

三崎坂(さんさきざか)をほぼ上りきったかと思われる辺りに明王院(みょうおういん)という寺がある。その前面に写真の長屋が並んでいる。写真右のマンションは1階が石六という石屋で、そのビルと長屋の間が明王院の山門。四軒長屋が2棟つながって建っているが、明王院の家作なのかもしれない。たばこの看板の店が「おおこ(大古)商店」。



1枚目の写真から2年後。ガードレールが新しくなった。1989(平成1)年3月12日



近影。2007(平成19)年10月18日

左側の長屋の左端の1軒がなくなっている。1枚目の写真の撮影時から空家だったのかもしれない。右側の長屋と同じく屋根が新建材で葺きなおされた。瓦のままで屋根を修理するほうが費用がかかるのだろうが、瓦屋根は暫時消滅にむかっているように思える。

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花定。台東区谷中5-2。1989(平成1)年3月12日

三崎坂(さんさきざか)を上がったところに観智院という寺がある。境内に台東初音幼稚園がある寺で、写真右に見えているお堂が観智院の不動堂・大師堂で明治末の建造。写真中央の出桁造りの家が花定という花屋。隣の、やはり出桁造りの家は萩堅という和菓子屋。墓参りには花は必ず持っていくものだ。法事ならお茶請けに和菓子を持ってくる人が必ずいる。たいていは残って各人がひとつふたつポケットに入れて持ち帰ることが多いようだ。萩堅の隣は国富古美術店。
現在は観智院の塀の前に初音六地蔵が置かれた。塀も造り直されている。写真に写っている建物はそのままで変わっていない。



左:和菓子処萩堅。1989(平成1)年3月12日
右:田口人形製作所。2000(平成12)年5月3日

田口人形製作所(田口人形店)は観智院の門の右側にあった。看板には「面六(めんろく)」という屋号と「振袖人形、藤人形、山車人形、江戸消防纏」の字が入っている。右の飾窓の中の人形の頭部は菊人形の頭(かしら)らしい。左の飾窓には纏(まとい)と神輿の置物。菊人形の人形師である四代目当主の田口義雄氏は平成3年に台東区無形文化財に指定された。田口氏が80歳頃のときだ。平成15年にお亡くなりになった。

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旧山本肉店。台東区谷中5-1。1990(平成2)年2月18日

初音の道が三崎坂の通りに出る手前の街並み。かつては商店か職人の職場だったと思われる古い家が並んでいる。下の写真が現状で、ほとんど変わっていない。写真右の家は下の写真では壁などが改装されて「間間間(さんけんま)」というコミュニティスペースになっている。「ルーツ尺八」とは尺八によるセッションだそうだ。「さんけんま」とは3間(けん)幅の間(ま)ということだが「間間間」の字を当てるのはかなり苦しい。大正8年築の家だという。小倉屋の江戸期といい、関東大震災に耐えた家が普通に残っているような道なのだろうか。
次の家が昭和40年代の地図に「山本肉店」となっている家で、外観は肉屋には見えないから住宅に改装したのかもしれない。



近影。2007(平成19)年10月18日

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すぺーす小倉屋。台東区谷中7-6。2007(平成19)年12月1日

初音の道にある「すぺーす小倉屋」は質屋だった建物をそのまま使ったギャラリーである。1993(平成5)年に建物の持ち主が古い建物を使いながら維持する目的で開業したらしい。オーナーのご母堂が絵を描く人で、その作品を人に見せたいということもあったようだ。
店舗だった家屋は1847年、江戸末期の建築。3階建ての蔵は1916(大正5)年の建築で、黒漆喰の壁だったものを25年前に損傷防止のためトタンで覆ったという。2002年に国の有形文化財に登録された。
質屋の小倉屋は1940(昭和15)年頃まで続く。戦後は他の質屋に貸し出して1970(昭和45)年頃まで使われていた。店名は鍵屋といった。
小倉屋の北隣は功徳林寺(くとくりんじorくどくりんじ)という寺。境内に笠森稲荷(かさもりいなり)の旧跡である祠(ほこら)があるそうだ。江戸期明和の頃(1760年代)「笠森お仙」のいた茶屋が評判になった。その「おせんの茶屋」つまり鍵屋があったとされる場所だ。



左:すぺーす小倉屋。2000(平成12)年5月3日。右:民家と赤塚べっ甲店。1989(平成1)年3月12日

2000年に撮った写真ではすぺーす小倉屋の塀は板塀だ。小倉屋の隣は看板建築の商家だった家で、その隣に赤塚べっ甲店。看板には「東京都伝統工芸指定江戸鼈甲」。耳かきが千円くらいだというから手頃かもしれない。

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吉川錻力店。台東区谷中5-11。2007(平成19)年12月1日

日暮里駅の北を通る御殿坂の頂上辺りから南へ、朝倉彫塑館の前を通る道へ入ってすぐのところである。この道は南への一方交通の狭い道だが三崎坂や言問通りのほうへ抜ける車がけっこう通る。いつのまにか「初音の道」という名称が付いたようなのでぼくも使うことにする。写真のように古い木造の日本家屋が4棟並んで残っていて、いつもカメラを向けるおじさんを見かける場所だ。
撮影時では変わっているかもしれないが1986年住宅地図では、写真手前から、田中精機、吉川錻力(ブリキ)店、大沢銅壷店(銅菊)、内藤製作所。吉川錻力店の横の路地は入ったことはないが七面坂へ抜けられるらしい。
吉川錻力店の家は右半分が改装されて1990年頃には「税理士・行政書士・吉川健二事務所」にしていたが今は移転したようである。普通はブリキ屋といっていたらしい。ブリキなどで屋根や壁を貼ったり雨どいを取り付けるような仕事かと思うが、なにか生活用具なども作っていたのかもしれない。



銅菊。1989(平成1)年3月12日

銅壷(どうこ)とは長火鉢の中に置く湯沸かし器で、郷土博物館などでお目にかかる。銅壷屋とは銅板を加工してやかんなどの生活用具を作る商売というか職人だ。四角いフライパンみたな卵焼き器なんかは銅板のものを見かける。平成初年頃にはまだ仕事をしていたと思うが今はやっていないらしい。飾り窓の展示もやめてしまっている。『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)に「玄関と格子窓の間には飾窓がある。周囲の枠には千社札がたくさん貼られている。中には、こまごまといろいろなものが飾られ、銅製のヤカンや鍋、まとい、銅板製の象の模型が並ぶなかに、「手仕事の有難さ 銅菊の鍋の味 永六輔」と書かれた色紙が貼ってある。」と記されている。この文章に添える写真を撮っておかなかったのが残念だ。

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長屋。台東区根岸3-11。2008(平成20)年5月7日

尾竹橋通りの裏道、根岸小学校の北にある長屋。今は三軒長屋であるが元はおそらく八軒長屋ではなかったかと思える。この長屋の裏(東側)には中庭を介してやはり八軒長屋があった。平成元年の航空写真( 『国土情報ウェブマッピングシステム>カラー空中写真』)では写真の西棟はすでに現在のような状態になっているようだが、裏の東棟は昭和22年の航空写真( 『goo地図>昭和初期航空写真を見る』)と同じ屋根の形である。取り壊されるまで、建築時からあまり変わらないまま残っていたらしい。ぼくは東棟がまだあった時期にこの辺りを歩いているがまったく覚えていない。
『東京の町を読む』(陣内秀信・板倉文雄・他、相模書房、昭和56年)に、震災後の「dタイプ」とされている長屋で、それ以前の長屋が共同井戸など路地までも生活の場と考えていたのを、水道を引き込むことで台所が私的空間に取り込まれ、1階の平面構成が変わってきたのだとしている。建物本体から各戸ごとに玄関が飛び出ている。この部分は土間で、その右はもともとは植栽などのスペースだったらしい。写真ではコンクリートブロックで囲んで部屋を増築している。


2006(平成18)年4月9日

右の地図は『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)から流用した『東京下谷根岸近傍図(部分)』(明治34年)。長屋の前の道は『根岸近傍図』に「かねこやしき」と記されている道である(上の地図で左下)。道路の名称のようではないから中根岸40番地の辺りの地名だったのかも知れない。『ディープに迫る!日暮里と根岸の里』の解説では、「かねこやしき(金子屋敷):文久元年の諸家人名録に見える 抱屋敷と思われるが由来不明」。
長屋があるのは金子屋敷右下の「40」のブロックで、円光寺(藤寺)の墓地との間に路地が鍵形に入っている。上の角が欠けたようになっているが、この路地の形は東棟の長屋の形にも影響して、長屋の北側の2軒は幅が狭い。

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