ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



左:塚本商事小舟町営業所。中央区日本橋小舟町3。1987(昭和62)年頃
右:佐々木家。1989(平成1)年10月1日

昭和通りの東の裏通りで、小倉ビルの近所。ビルの前の庇の梁には「塚本商事株式会社小舟町営業所」の字がある。このビルの斜向かいに正面が昭和通りに面している「塚本商事第一ビル(現ツカモトビル)」がある。同じ会社なのだろうと思う。昭和30年頃の火保図では「塚本倉庫(コンクリート造、3階建)」、昭和7年のでも「倉庫(コンクリート造)」である。地味な外観だが倉庫として建てられたのなら頷ける。
現在は「リブラビル」というオフィスビルに建て替わった。

右写真の四つ角に面した家は、塚本商事から1軒おいた――その家はすでに取り壊されている――家。住居兼用の会社を置いた家だったのだろうが、戦前の火保図でも「佐々木」である。
現在は写真右のビル(㈱中川)とともに「クレイドル日本橋」というオフィスビルになっている。

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小倉ビルの裏。中央区日本橋小舟町6。1988(昭和63)年8月5日

昭和通りの本町2丁目交差点を東へ入るとすぐ小倉ビルがある。写真は小倉ビルの裏の路地である。撮影時に小倉ビルの旧ビルがまだ建っていたかどうか微妙な時期だ。左写真は横丁に出る角の住宅、右写真の家は倉庫だろう。横丁からの写真を撮っていないのはどういうわけだろう。
現在は「エクセレント三越前」というビルになって、路地は駐車スペース付の通路になっている。


手塚興業
日本橋小舟町6
1987(昭和62)年9月13日

小倉ビルの角を南に入ったところ。左のモルタル壁の家は住宅地図では「東亜阿部㈱」。
現在、写真左のSKTビル(栄光商事)と右の早川ビル(早川商事)は変わらないが、その間は「日本橋山大ビル」が建つ。

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東源正久日本橋店。中央区日本橋本町1-6。1987(昭和62)年5月24日

写真右の道路は昭和通りの歩道で、右奥のビルは日本橋大和ビル。このビルは1961年に竣工したものだが、2005年に全館改装して別のビルのように生まれ変わった。東源正久(あずまみなもとのまさひさ)の建物左のゴム印の看板の店は東京コーブンドー。
東源正久は本店が築地場外にあってマグロを解体する包丁で有名らしい。そのHPによると、「源正久」は大阪の刀鍛冶で、そこの次男が明治9年に「東源正久」を名乗って日本橋魚河岸に店を構えたという。昭和6年に魚河岸の築地移転に伴って築地店を開設し、そこを本店とする。「日本橋店」は撮影時には引退した二代目が切り回していたようだ。
『神田倶楽部ログ>高級料理包丁店「東源正久」の移転(2007.03.02)』には「(2007年)3月末日をもって近所に移転」とある。日本橋小舟町の、裏が堀留公園になるマンションに移ったようだ。
『日本古写真倶楽部(2006.02.27)』に昭和20年代の昭和通りを撮った写真があって、東源正久を含む家並みが記録されている。(2010年7月27日改訂)


竹内金属箔粉工業
日本橋本町1-8。1989(平成1)年10月1日

昭和通りの裏通りである。通りの向かい側は日本橋小舟町で、富士銀行小舟町記念館(現小舟町記念会館)のそばだ。この道路は大震災後、西堀留川を埋立てた跡になるようだ。
写真右が清水ビルでその隣に常磐稲荷神社という神社がある。大震災前は日本橋魚河岸の長浜町にあったはずだから、昭和通りを通したり、西堀留川を埋立てたりした際に少し動かされたのだろう。
写真の洋風の建物は正面をかなり変えられているが現在も残っている。よくよく見ないと分からない。右の清水ビルはそのままで残っているのでそれが目印だ。

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民家。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

写真の道路は鶯谷アパートの前を通って言問通りに出る手前である。ここに写っている古そうな木造民家は、壁を改装した家もあるが今も残っている。写真右の加藤パン店はマンションの1階で商売をしているが、写真の看板を今も使っている。店頭のゲーム機はなんだろう?
この言問通りから昭和通りへ斜めに通っている道路は、明治の参謀本部測量図に出ている古い道である。ということは江戸時代からあったのだろう。明治の地図では坂本村の字小野と字入谷の畑の間を通っている。そして今の言問通りのところで南に曲がって坂本小学校の正門の前の道へ続いている。



路地。下谷2-5。1989(平成1)年3月19日

1枚目の写真中央の家の間の路地。後ろは言問通りの向こうに坂本小学校が見える。写真の路地は突き当たりに長屋が見えているがそこで左右に路地が通じている。左へ行けば金杉通りへ出るから、気兼ねなく入っていける。今でもこの路地の両側に古い民家や長屋が見られる。

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出桁造りの民家。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

鶯谷アパートの前の丁字路を北へいくと金美館通りの小野照崎神社の前に出る。写真の民家はその横丁に入ってすぐ目に飛び込んでくる。出桁造りの伝統的な商家の造りで間口が大きい。2階の連子窓は今ではめったに見られなくなった。建物両脇の雨どいがなかなかの仕事のものだ。1階の左側は住居に改装している。その右、1階中央に張り出しているのは戸袋らしい。
この近所には寺が多い。この家の向かいは正洞院、裏手は英信寺である。



近影。2008(平成20)年5月7日

写真左のマンションは1990年頃に建ったが、その前は秩父荘というアパートだったらしい。それを撮影しておけばよかった。写真右手の幅一間ばかりの家は1990年頃まで「大成火災代理店 入吉」の看板が出ていた。

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正光社。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

鶯谷アパートの向かいで、金美館通りへ抜ける横丁の角にある。屋根は和風の瓦屋根だが一応洋館のようだ。正光社はネット検索すると、冷暖房設備・配管などをする会社らしい。
現在は外壁や窓などが改装されて新築みたいに見えるが外観は変わっていない。建物の角から右へ基礎の部分を石積みにしているのが変わっている。補強のためだろうか。あるいは石張りか?




上:1989(平成1)年3月19日
左:1991(平成3)年9月23日

上の写真は1枚目の家の隣で、やはり正光社だが、日本家屋の前面を商売用に改造したものだろうか。現在は建替えられた。
写真右の昭和通りのほうにハヤミズ家具センターのビルが見える。撮影後数年して倒産したらしい。横長連続窓の昭和通り裏手に建つビルは今もまだ建っているが使われていないようだ。
左写真は洋館のほうの玄関。玄関横の縦長の窓がしゃれたアクセントになっている。

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鶯谷アパート。台東区下谷2-3。1991(平成3)年6月30日

台東区下谷は昭和通りと金杉通りに挟まれた区域で、南の1丁目から3丁目まで南北に長く、北の先端は地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に接する。この地区で近代建築というと1丁目の坂本小学校が有名だが、写真のアパートは下谷1丁目と2丁目を分ける言問通りのすぐ裏にある。2000年頃外壁を改装したようだが外観は変化がなく、今も健在である。
『生粋の下町 東京根岸』(文:北正史、絵:沢田重隆、草思社、1987年)に「昭和7年に建てられた東京で最初の三階建て木造アパート」とある。



写真左のコンクリート塀は正洞院(しょうどういん)という寺。1991(平成3)年9月23日

鶯谷アパートの玄関。現在はペンキが塗られてしまった。床のタイルも残っているかどうか。1991(平成3)年6月30日


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セントラル通商。中央区日本橋本町1-10(現1-7)。1989(平成1)年10月1日

昭和通りから横丁を東へ入ったところで、写真左へいくと小舟町を通って堀留公園へ突き当たる。
写真の家は、出している看板に「セントラル通商」「山田税理士事務所」「新生産業株式会社」が読める。左に喫茶店がある。



モリタ理容室。1987(昭和62)年5月24日

1枚目の写真と同じ家を床屋のほうから撮っている。モリタ理容室は戦前からあるらしい。
写真右のビルは昭和通りに面した岡本ビル。建替え前のビルは『日本近代建築総覧』に「岡本K.K.、日本橋本町1-12、S12、RC4、設計・施工=大倉土木」として掲載されている。



都留貨物自動車日本橋営業所。日本橋本町1-10(現1-7)。1987(昭和62)年5月24日

写真右のビルは四つ角に面していて左に曲がると隣がモリタ理容室。
現在、セントラル通商の家は「ホテルヴィラフォンテーヌ日本橋新館」、モリタ美容店と隣のビルは「東新ビル」に変わった。都留貨物の家は取り壊されてコインパークにしている。

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三井生命日本橋別館。中央区日本橋本町1-4(現1-9)。1988(昭和63)年4月24日

昭和通りの江戸橋のすぐ北にあった。写真左は日本橋大和ビル、右がユニバース開発日本橋ビル(安田火災海上)で、そのビルが江戸橋北交差点の角になる。現在の三井生命日本橋ビル(1990年竣工)の旧ビルだ。
昭和30年頃の火保図では「中央生命別館」。三井生命保険は戦後、GHQの財閥解体政策によって1947(昭和22)年11月に中央生命保険に改称したが1952(昭和27)年6月に三井生命保険に戻している。
昭和7年の火保図では「野崎病院」で、三井生命のビルと同じような平面で階数は同じ4階建てだから、そのビルだったのだろう。


左:日本橋大和ビルと三井生命日本橋別館の間の路地。1987(昭和62)年5月24日
右:江戸橋際の交番。昭和60年2・3月頃にはなくなっていた。日本橋本町1-2(現1-10)。1984(昭和59)年6月

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第一勧業銀行浅草支店。台東区蔵前3-21。1987(昭和62)年10月4日

春日通り(写真右)と江戸通り(写真左)の厩橋交差点の角にある。現在のみずほ銀行浅草支店で、別に蔵前支店が蔵前4丁目にある。
銀行建築は古典主義様式の系統が多いが、こちらはロマネスク風といえるだろうか。『日本近代建築総覧』では「建築年:S5、構造:RC3、設計・施工:清水組、S30,44改築」。



江戸通り側の側面。1992(平成4)年5月2日


みずほ銀行浅草支店
2008年(平成19)年3月2日

これが建物の現状。表面をパネルで覆って古いファサードを隠している。みずほ銀行になった時に改装されたのだろうか。大江戸線の蔵前駅の出入り口をこのビルに造ったから、そのときに外壁の改装もしたのかもしれない。建替えに備えて、保存運動が起こらないようにカムフラージュしたのかと疑っている。

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