ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大成社印刷。中央区築地7-12。1987(昭和62)年5月24日

築地市場の旧海幸橋から聖路加病院への道路から、築地6丁目と7丁目の境を東南に入ったところで、裏通りとの交差点の角に面している。
『下町残照』(村岡秀男著、朝日新聞社、1988年)によると、雨宮精米店として昭和2年に建てられた。店主が設計し、店主の兄弟の大工が建てたということらしい。3階建てというのは当時の町内では一頭抜けた高さで、見晴らしがよかったという。3階のテラスへの出入り口の庇の下には鶴のレリーフが、1階の欄間の柱には「京橋区小田原町一丁目七番地三」の住居表示がついているらしい。


1985(昭和60)年頃

3階のテラスの手すりが凝っている。逆アーチのアール・ヌーヴォーのデザインで、交差点の向かいのワカマツヤ洋品店にもある。古くなったせいか、優美とは感じられず、エイリアンが潜んでいるようにも見える。

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寿し利。中央区築地7-12。1988(昭和63)年10月9日

築地市場の旧海幸橋から聖路加病院への道路から、築地6丁目と7丁目の境を東南に入ったところ。啓晴水産の右は大成社印刷で、この向かい(写真右手)にワカマツヤがある。
現在は各家ごとに建て替わっている。


前野畳店
築地7-12
1987(昭和62)年5月24日

1枚目の写真の家並みの並び。写真の2軒の家は現存している。右の家が前野畳店で、戦前からの古い店らしい。この家の屋根に段がついている。採光用の天窓らしいが、あまり他には見かけない珍しい造りだ。

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第一生命保険相互館。千代田区有楽町1-13。1986(昭和61)年8月17日

渡辺仁と松本与作の共同設計、清水組の施工で1933年着工、1939(昭和13)年10月に竣工した。「新古典主義の流れを汲むシンプルな外観」、あるいは「古典系様式建築の到達点」などと言われている。ナチスが好んだ様式とも言われる。ただ、設計者が「新古典様式でいこう」と意識してデザインしたかとなると、怪しい気がする。
単純に眺めて、美しいと思う。威圧的な感じも確かにあるのだが、垂直線と水平線だけの単純な要素で見飽きないデザインに出来上がっている。


左:1986(昭和61)年5月18日、右:1992(平成4)年3月8日

1945(昭和20)年8月30日にマニラから厚木飛行場に到着したマッカーサーはひとまず横浜のホテル・ニューグランドへ滞在する。3泊したそうだ。このホテルも渡辺仁の設計である。GHQが横浜税関に置かれたからだろう。いきなり東京に進出するのをためらったからだ。横浜埠頭の戦艦ミズーリでの降伏文書の調印が9月2日。マッカーサーが第一生命館に入ったのは9月8日。アメリカ大使館に寄った後、帝国ホテルで昼食をとってからだった。中を見て回って横浜に戻った。正式に総司令部が東京に移ったのは9月17日。天皇がマッカーサーを訪問して一緒に写真に納まったのが9月27日、それが新聞に掲載されたのが29日だった。
マッカーサーの朝鮮戦争についての言説が米政府と対立して最高司令官を解任され、GHQを出たのが1951(昭和26)年4月12日で、羽田への沿道は見送る人で埋まったという。彼を実見する最後のチャンス、ということだったのだと思う。替わって最高司令官にはリッジウェイが就任する。ビルの接収が解かれるのは1952(昭和27)年7月7日である。



1985(昭和60)年11月22日

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農林中央金庫。千代田区有楽町1-13。1985(昭和60)年11月22日

設計:渡辺仁、施工:清水組による昭和8年竣工のビル。典型的な古典様式による銀行建築だ。
現在は1995(平成7)年に竣工したDNタワーの丸の内仲通り沿いにファサードが復元された。中央部分に旧ビルの南側にあった正面部分、その両側に旧ビルの東側の部分を復元しているのだが、わりとうまい具合に融合している。両端に旧第一生命ビルの復元部分が衝立のように張り出しているのがちょっと……。



農林中央金庫・東面。1986(昭和61)年1月12日

農林中金をぼくはその名前から農業協同組合の大元締めの銀行のように考えていたが、そう間違ってもいなかったらしい。ウィキペディアによると、1923(大正12)年に設立された金融機関で、理事長は代々農水省事務次官が天下っている。国内最大規模の機関投資家だという。現在は整理途上であるかのような印象だ。

正面入口と横面北側。左:1985(昭和60)年11月22日。右:1985(昭和60)年11月22日

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東京動物園協会倉庫。台東区池之端4-1。左:1986(昭和61)年頃、右:1989(平成1)年3月12日

上野動物園の北西に清水坂がある。坂は下のほうでカーブして動物園の裏門に至るのだが、その曲がり角にレンガの建物がある。昔の変電所で、動物園の倉庫らしい。そうすると産業遺産だ。撮影時の住宅地図では東京動物園協会倉庫である。「ZOONET」に財団法人東京動物園協会の情報がある。昭和22年に設立され、現在は東京都の外郭団体(監理団体)で、「都立動物園4園の事業運営を「指定管理者」として飼育業務を含め全面的に担っている」そうだ。
上の写真は坂下の正面。右の写真では、門の扉が木から鉄板のものに変わり、建物の前面に箱型のものが増築されている。

左:1986(昭和61)年頃、右:1989(平成1)年3月12日

北側の裏面と西側の側面。右写真の空地には家が建ったので、現在では西の側面は見られない。

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左:六龍鉱泉隣の民家。台東区池之端3-4。1990(平成2)年2月18日
右:六龍鉱泉。池之端3-4。2007(平成19)年10月18日

六龍鉱泉という銭湯が水月ホテルの通りから入る路地の奥にある。建物自体はそう古いようには見えないが、昭和38年に撮られた航空写真に写っている建物と変わっていないように見える。
『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)に以下の記述がある。
新潟出身の野上さんという人が、夢のお告げを信じて井戸を掘るつもりで地下を掘って掘って掘り下げたら温泉が湧き出したとか。正確には温泉でなく鉱泉。手掘りでじつに1600尺(約485メートル)も掘ったというから驚く。昭和6年に開湯し、現在、息子さんがあとを継いでいる。地下から組み上げた20度くらいの鉱泉で、熱めの湯をうめて適温にしているそうだ。

ここの湯の温度は45度以上だという。我が家では熱めにしても42度だから、入れる自信がない。
写真の古い民家と長屋は建て替わっている。



六龍鉱泉裏の長屋。池之端3-4。1990(平成2)年2月18日

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坂川栄扇家。台東区池之端4-2。1986(昭和62)年頃

忍旅館の少し北に清水坂への分かれ道があるが、写真の家はその角にあった。日本家屋のほうは住宅地図には坂川栄扇とある。その名前でネット検索してみると、邦楽の奏者のようだ。そこから、門の左の看板は「箏(そう)三弦○○山田流坂川栄扇」と推定した。



フクダSP。池之端4-3。1989(平成1)年3月12日

清水坂の上り口からその方へは曲がらずに少し北へ行った辺り。二軒長屋らしい。右の柳原たばこ屋に「靴店」の字の看板があるがそれが本業なのだろうか。「大人の遠足>上野桜木、池之端界隈」にこの長屋の写真を発見した。外に履物が並べられていて「靴修理」の看板が出ている。

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忍旅館(現・上田邸)。台東区池之端3-3。左:1989(平成1)年3月12日、右:1989(平成1)年頃

水月ホテルの並び、すぐ北側にある。東京都選定歴史的建造物の指定を受けたから当分なくなることはなさそうだ。上の写真はまだ旅館として営業していたときで、「忍旅館」の看板があるのが他のネットの写真との差である。正面の壁に「下谷區上野花園町拾三番地」の表札が懸かっている。



民家。1989(平成1)年3月12日

忍旅館の隣の民家。こちらも旅館だったような構えだ。「建築計画のお知らせ」が懸かっている。

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民家。台東区池之端3-1。1989(平成1)年3月12日

上野動物園の西側に台地の縁に沿うように南北に道路が通っている。その道路に面して水月ホテル鴎外荘がある。写真の家は水月ホテルの並び、すぐ南にあった。立派な玄関を構える大きい母屋の左右前面に洋館と蔵がくっついている。現在ではマンションに建て替わっている。
この家の裏手に茶道の江戸千家家元・川上宗雪の家があり、そこの一円庵という茶室が東京都有形文化財だそうだ。


1990(平成2)年2月18日

民家と水月ホテルの間に不忍通りへ抜ける道路があり、左写真はその道路から建物の横を撮った写真。

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日庄ビル。中央区日本橋人形町1-1。1987(昭和62)年2月22日

当ブログ前回のサン印刷の向かい。株式会社日庄は1967(昭和42)年5月創立の広告制作と印刷の会社。写真のビルは沿革に「1977年12月、三笠ビルを取得」とある旧三笠ビルである。現在の建て替わった日庄ビルは1991年6月に竣工している。また、すぐ近所にビルを2棟と墨田区亀沢に工場を持つまでに発展している。
創立者は石井庄八で、1952(昭和27)年のヘルシンキでのオリンピックにレスリングで金メダルを獲得した人である。ぼくは当時小学3年生だったわけだが、たぶん映画館でニュース映画を見ていると思う。ヘルシンキ・オリンピックではチェコスロヴァキアのザトペックが陸上長距離で3つの金メダルを取っている。ザトペックの名前は人間機関車というあだ名とともに頭に残っている。



おやど千田。1987(昭和62)年6月

1枚目の写真手前の駐車場と日庄ビルの間に竹垣がある。日庄ビルの後ろ、東華小学校(現・日本橋小)との間に千田という旅館があり、そこへの通路である。

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