ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




聖路加国際病院。中央区明石町10。1988(昭和63)年10月9日

一般には「築地のセーロカ病院」という。正確に「明石町のセイルカ病院」という人に会ったことがない。それはとにかく、上の写真は建物の南の面が西側の新館の後ろに隠れてしまったが、あまり写されることがなかった画角ではないかと思う。築地川が埋め立て工事中である。できれば工事が始まる前に撮影できていれば、という気もするが、これはこれで記録にもなっている。高層ビルは塔の右に建築中のが1棟見えるだけだ。しかし、そういうことを狙って撮った1枚ということでもなく、今写真を見て言っているだけである。
写真左のトラックから伸びている水色の線は暁橋。その後ろの低層(4階建て)の病院の棟が1961(昭和36)年に完成した「新外来棟」の増築部分。写真右手後方に、長い低層のビルに見えるのは病院の東の左翼で、玄関に「聖路加看護大学」とある棟。写真中央の遠くで建設中のビルは佃島の高層マンションではないかと思う。



1986(昭和60)年11月

『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和7年、構造SRC6階建、地下1階、設計=A・レイモンド、バーガミニー、施工=清水組。『聖路加国際病院』の沿革では1933(昭和8)年の完成で「聖路加メディカルセンター」を称したとしている。アントニン・レーモンドの設計で工事が始まるが、途中で病院の創立者で院長のトイスラーの横槍が入り、設計者をバーガミニーに替えて完成したという話は有名だ。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)には「レイモンドの設計と言われるが、実際には、バーガミニー、バトラー、カーンなどの米国人設計家の設計による。」とある。また、『建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年、480円)では、設計者は「バトラー&コーン建築事務所」で、「レーモンドの設計、フォイエルシュタインのデザインによる国際建築様式(モダニズム)で工事が始められたが……」とある。ぼくの知らない名前が何人も出てくるが、追求しないことにする。



左:1989(平成1)年10月14日。右:2004(平成16)年11月1日

右写真は現在の聖路加国際大学で、旧病院棟の中心に南に突き出た部分と塔屋のある本館の中心部分、その後ろのチャペル(聖ルカ礼拝堂)が保存された。現在は「旧館」と称している。左右の棟は建て替えられて1997年に完成したもの。
車寄せと玄関は、元は(戦後の占領軍接収時代に造られたものと思う)もっと南に離れていて、入ると左右の新館と加看護大学の棟へ向かえる位置にあり、本館とは廊下でつながっていたようだ。旧館前面のベイウインドーのような窓は造り直されているような感じで、その左右の壁にあった小さな窓がなくなっている。

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裏通りの民家。左:神奈川県三浦市三崎5-7、右:三崎5-1
2007(平成19)年11月17日

左写真は三崎館本館の裏の通りにあった民家。この裏通りは商店街というほど商店は多くはないが、民家としもた屋の間に店も散在している。写真の家は丸山クリーニング店の向かいで、現在は壊されて駐車場になっていて、後ろの崖が見えている。

三崎公園のロータリー西の魚音という魚屋の横を入るとそこが三崎館本館の裏通りである。すぐ正面に港楽亭というラーメン店がある。右写真の「ふかひれ」の看板の家がそれで、ふかひれラーメンは1500円。隣は下見板のなにかの店だったと思われる家。その隣は元商家だった家だろう。街灯に「西銀座通り商店会」の標示板があるが、現在は取り外してしまった。


大石歯科医院。三崎4-4
2007(平成19)年11月17日

県道26号に魚栄という古い建物の魚屋や入船堂という和菓子屋があるが、その裏の路地。大石歯科は玄関の周りにスクラッチタイルを貼っていて、玄関上の庇の銅板を施したところやアールにした部分、旧字の表札などに昭和初期の雰囲気を感じる。

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三崎館本店。神奈川県三浦市三崎5-2。2007(平成19)年11月17日

三崎港を目の前にする割烹旅館。増改築されているが、関東大震災後(昭和7年頃らしい)に建てられた近代和風の建物が元になっている。3棟の建物が並んでいて、右の板壁の三階建ての棟が一番古そうに見えるが、どうもこれが一番新しくて、昭和30年頃の建築らしい。『三崎館本店>歴史』で「関東大震災後の建前の時の様子」の写真を見ると、3棟とも同じ時期に建てられているが、右側の棟は2階建てである。それを後に建て替えたか、大幅に増築したようだ。裏から見ると一層古めかしくて、戦後の建築とも思えないので、表側に増築したものかもしれない。

下の写真では右に星野商店の古い建物が写っている。すでに廃業したようにも見える。現在は建て替えられて「立花別館」というマグロ料理の店になった。


1994(平成6)年5月2日


西松商店。三崎5-6
2007(平成19)年11月17日

三崎館本店の前を少し東へ行って、路地を入ったところ。玄関上の看板は半分隠れていて「廻船問屋㈱西松商店」である。『三崎レトロ建築探訪』によると、「廻船問屋とは三崎では主に鮪取引を指す」ということだ。写真右の看板建築風の家が店舗で、玄関先に神社が祭ってあるのは住居かもしれない。

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星六金物店。神奈川県三浦市三崎4-10。2007(平成19)年11月17日

県道26号横須賀三崎線に向いている金物店。店舗と蔵の倉庫が並んでいて、その両方を店舗にしている。看板建築の店は正面がかなり改装されているようだが、両端の円柱のように見える部分、奥まった窓など、ボリュームが感じられる。元はかなり人目を引くデザインの看板建築だったのではないかという気がする。
蔵は石造りの正面である。二階の窓の上に丸太を積んだような装飾がある。右から書きの「星六」の文字を置いた上部がペディメントのようにも見えて、全体が洋風の感じもする。



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天常。神奈川県三浦市三崎4-9
上:1994(平成6)年5月2日
左:2011(平成23)年11月29日

三崎公園東側の三崎銀座入り口から北へいくと海南神社参道の入り口の四つ角になる。その角にある食堂。入母屋屋根の日本家屋である。上の写真では参道沿いの日本そば屋として商売を始めた、というような雰囲気がある。街灯には「西銀座通り商店会」の標示板がある。街灯は今もそのままだが標示板は外された。参道の奥には女王蜂、スナックmoonといった店がある。
ストリートビューで見ると現在は、天常は「昭和レトロ酒場 ミナト食堂」に替わった(2013年2月という)。2012年7月には天常に「閉店」の張り紙があった、と報告しているブログがあった。壁にホーロー看板を張り付けてレトロな居酒屋の雰囲気を演出している。参道には今はスナック「イタコ」というわりと新しい店が1軒あるだけのようだ。

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sol。神奈川県三浦市三崎3-2
左:1994(平成6)年5月2日
右:2011(平成23)年11月29日

三崎公園のロータリーから見えている葉山商店の前を北に行くと狭い商店街は5、6軒先で十字路に出る。その先は海南神社の参道だ。写真の蔵造りの家は葉山商店のすぐ並び。蔵そのものにみえる。両側には木村洋品店と岩澤家具店があるが、それらの、あるいはそれ以前にあった店の倉庫だったのだろうか。蔵の前に張り出した部屋は蔵に出し入れする際の作業場にしていたのかと思う。
現在は「うつわとくらしsol」という器、日用道具、骨董などを扱う店になった。建物は「船具や漁具を保管していた蔵」だったという(チルチンびと広場)。



岩澤家具店。三崎3-2。2007(平成19)年11月17日

Solの前を北にいくと十字路に出る。角は辻井理容という古い日本家屋の床屋。そこを東へ曲がったところ。ガラス戸の商家が2棟ならんでいるが、両方とも岩澤家具店らしい。後ろで、solの隣の岩澤家具店とつながっているようで、大きな敷地に何棟かの家を建て並べているようだ。家具を製作している(していた?)のではないかと思う。

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イワノ薬局。神奈川県三浦市三崎3-6。1994(平成6)年5月2日

三崎公園から南の方向を撮ったもの。写真右の通りの右側は三崎港で道路のすぐ端に漁船が引き上げられている。景観は今も大きくは変わっていない。すしの咲乃家は3階建てのビルに替わった。イワノ薬局は表面を改装して石積みに見せた看板建築の外観ではなくなったが建替えられてはいない。写真左のガソリンスタンドは、咲乃家の駐車場になった。


さくらや、葉山商店。三崎3-2
1994(平成6)年5月2日

さくらやは三崎公園の広場に向いている。正面が平坦なので看板建築のようにも見える。総3階建てのようだが、三崎の町では木造3階建ての家はあまり見かけない。
さくらやの隣は出桁造りの商家。「漁具船具/株式会社葉山商店」の看板をあげている。商売はやめたような感じだが、シャッターを下ろしているだけかもしれない。金網を張った鉄枠に文字を張り付けた看板は、山田屋酒店店の看板と同じだ。二階の窓からの眺めを邪魔しないためのものだろうか。

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元米屋の店舗。神奈川県三浦市三崎2-6。1994(平成6)年5月2日

三崎銀座商店街の海側の裏通りにある元米屋だったという家。10枚のガラス戸が並ぶ間口の広い大きい店だ。外観は石の蔵造りの家のように見える。道路側に店の土間の部分と思われるところと屋根の庇が出ているので、構造は出桁造りなのかもしれない。店先に米俵を積んでいてもいいくらいの感じで、一般の小売はもちろん、漁船などにも納入していたのだろう。店の裏は平屋の住居らしい棟がくっついていて、さらに2棟の蔵が建っている。かなり大量の米がストックできたようだ。

ストリートビューで商店街のメインストリートを見ると、以前「三崎銀座/サンロード」の標示板のあった街路灯が取り換えられている。新しい外灯には通りの名称の標示はない。三崎銀座の名称は使わないことになったのだろうか?


2007(平成19)年11月17日

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上:民家。文京区根津2-2
1988(昭和63)年8月5日
左:メエゾンヴェルヴェ
1989(平成1)年3月12日

上写真左の道路は不忍通りと、不忍池と上野公園の間の道路とをジグザグにつないでいる道。明治初期の地図に出ている昔からある道だ。民家の裏は藍染川の跡の細い路地で、根図2丁目と台東区池之端3丁目の区境になる。
この辺りは1戸建ての民家とアパート(下宿屋)が混在している。写真の民家の手前の駐車場には同じような民家があったようだ。民家の後ろの洋風のアパートは、住宅地図では「メエゾンヴェルヴェ」という。切り妻屋根の木造アパートの外観を改修したものだろうか。写真では3階のプレハブ小屋のような増築部分がある。現在は民家、アパートとも建て替えられている。

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右上:国嶋ブリキ店。文京区根津2-14
1989(平成1)年2月26日
左上:長屋。根津2-14。 2007(平成19)年10月18日
左下:いなり寿司三花。根津2-13。 2007(平成19)年12月1日

「ブリキヤ國嶋」の看板の家は、茨城県職員東京宿泊所(現・クラシックガーデン文京根津)から言問通りの方へいったすぐ並びにあった。現在では家は取り壊されて駐車場になっている。その左右の家は現存している。1階の軒を看板建築風に銅板だかブリキで覆って赤く塗り、黄色い店名の文字を張り付けているのが目立つ。広告としてやっているのだろうが、それで客が増えるという業種でもないと思うが。2階のベランダの手すりも少し変わっている。手造りだろうか。
都市徘徊blog>ブリキヤ國嶋』の写真は建物の2階部分を正面からとらえている。看板の書体がよく分かり、ベランダの手すりはつぶれている部分がある。ブリキを丸めて造ったものかもしれない。
東京ダウンタウンストリート1980's>谷中、根津、池ノ端1982~その二』は1982年2月撮影の写真で、1階のガラス戸がまだ木の枠の引き戸である。

右上写真の路地は国嶋の区境の道とはん亭の通りとの間に、並行している道。この路地やさらに裏手には今でも古い長屋や民家が何棟か見られる。道が狭いのでいい写真を取るのは難しい。
左下写真ははん亭の斜め向かいにある屋敷の裏にある3階建ての家。モルタル塗の木造アパートにも見えるが2階は住居のようにはみえない。1階の店舗は三花(みはな)といういなり寿司の店。日除けテントに「関東風」とある。普通の稲荷寿司は関西風なのだろう。

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