日経ビジネス2月27日号に掲載のテレビ・ウォーズ「鹿内春雄、テレビのバブル紳士」に連動したインタビューです。誌面とウェブを合わせてご覧ください。

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――横澤さんといえば、1980年代の漫才ブームの火つけ役というイメージが強いですね。当時、「お笑いは当たる」という確信はあったのですか。

横澤 はっきりした狙いがあったわけではなく、やむを得ずだったんです、本当に。人手不足なので何でもやりなさいと言われてね。

――確かに、70年代のフジテレビジョンは視聴率低迷に苦しんでいました。

横澤 そうです。だからまず、なぜ調子が悪くなったかを調べました。

▼賢い人が管理すると現場はしらける

――原因は判明しましたか。

横澤 (オーナーの鹿内)信隆さんの恐怖政治で、若い制作スタッフの多くがパージされていたんです。それで制作意欲が極端に落ちて、ふぬけ状態になった。頭の良さそうな人を編成に集めたんだけれど、彼らが考えたのは視聴率の実績で制作費を決めるなんていうバカバカしいルール。現場はしらけ切っていました。

――横澤さんご自身も一時期、現場を離れていましたね。

横澤 出版や事業部にも行かされました。現場に戻るまで7年くらいかかった。私もパージされたわけですね。

――1980年6月に鹿内春雄さんが副社長で入ってきて、それがフジテレビが変わるきっかけになったと言われますが。

横澤 春雄さんが出てきて、(テレビ新広島に飛ばされていた)村上(七郎)さんを呼び戻して、2人でタッグを組んだ。

 彼らが取り組んだ大きなテーマの1つは、長寿番組をいかにして打ち切るかでした。旭化成がスポンサーだった「スター千一夜」や三菱電機がスポンサーだった「銭形平次」ですね。そういうロングランで、一定の成果を上げていた番組は、癒着ではないけれど、なかなかやめられないんです。それをいかに切り替えるか、トップの力がそこで発揮されたと思います。

▼長寿番組打ち切りが、改革の土俵を作った

――毎晩7時45分から15分間放送していたスター千一夜を打ち切ったことで、編成の自由度が増したそうですね。

横澤 とても大きいことだったと思います。まず土俵を作らないと、物事は進まない。そういう意味ではきちんと戦える土俵、環境ができました。

 もう1つ、組織を変えたことも、現場の再生には大きかったですね。制作スタッフは4つの子会社に分かれていたんですが、それをまず1つにまとめ、局の中に戻したんです。スタッフたちは、それを意気に感じて頑張り始めました。とにかく思い切りフレッシュになったという感じでしたよ。

――春雄さんに対しては、初めから期待する人が多かったのでしょうか。

横澤 いやいや、そんなことはない。やっぱり(鹿内という)名前が嫌じゃない。名前自体が嫌だよ。

――しかし、実際に仕事をしてみて、その嫌悪感は消えていった。

横澤 私が「オレたちひょうきん族」という番組をやった時、上の方から「ひょうきん」なんて言葉は古いんじゃないかと言われたんですよね。それでも「いや、これでやらせてくださいよ」と抵抗していたら、春雄さんに呼ばれた。彼は私に「おまえ、この番組をしくじったら9階から飛び降りろ」と言いましたよ(笑)。

 何で9階なのかは分からないけど、やっぱり、えらい心配していたんですよ。果たしてヒットするかどうか、何の保証もないわけですから。うちの局は、それまで当たる番組なんかなかったわけだからね。

▼「とにかく若い子に選ばせろ」と鹿内春雄

――その時、春雄さんはおいくつだったんでしょうか。

横澤 年は僕の方がだいぶ上ですよ。あの人は昭和20(1945)年生まれですから、僕より8つ下。まだまだ若かった。

――しかし、経営者然とした振る舞いは堂に入っていたわけですね。

横澤 どんとしていましたよ。

 一番象徴的だったのは、あの目ん玉マーク(フジサンケイグループのシンボルマーク)を作った時です。

 20人くらいの選定委員会で、いくつかの候補から選んでいったんですが、そうしたらあのマークがどういうわけだか必ず残る。でも、賛成者は少なかったんです。そんな時に春雄さんが、じゃあ若いやつを呼ぼうよ、と。とにかく20代の若い子に選ばせろ、とね。そうしたら、若い人は圧倒的に目ん玉を選んだんです。

 選定委員はそれなりの地位の方ばかりでしたけれど、今回は若い人の意見を聞いてこれにしましょう、と春雄さんは思い切って決めたんですね。そういう考え方はやっぱりすごいなと思いましたね。

▼演芸番組から、バラエティー番組へ

――「THE MANZAI」をはじめとして、番組でも若者をターゲットにした戦略が当たりました。

横澤 それまでの演芸番組からバラエティー番組に変わったんです。これが大きかった。同じ漫才でも見せ方によってこんなに変わるんだ、と若い人にアピールすることができた。

――客層の変化は実感していましたか。

横澤 すぐ分かりましたよ。どちらかというと、若いジェネレーションが「笑う」ということを忘れていたわけでしょう。その層に受け入れられたことが一番大きかった。

――漫才ブームが春雄さんのその後の経営にも影響を与えた。

横澤 それは自信になったと思います。80年10月に「笑ってる場合ですよ!」という昼の番組を始めたんですね。その枠は「不毛地帯」と言われていたんですが、見事に成功を収めました。

 その勢いでひょうきん族が生まれてきて、それも当たった。「なるほど! ザ・ワールド」もその頃です。ヒット番組が次々に出てくると、会社の中の空気も明るくなります。

――名前が挙がった番組は、「フジテレビ的番組」の原点という感じがします。

横澤 例えば、なるほど! ザ・ワールドは、益田由美という女子アナがひいひい言いながら世界中を回るわけです。そういうのを許したというのがすごい。アナウンサーにそんなことをさせるのは、普通はダメですよ。

▼現場の顔色を「ちゃんと見る」経営者

――バラエティー番組が成長していって、春雄さんが「楽しくなければテレビじゃない」という路線を決めた。

横澤 そうですね。当時、春雄さんには、よく呼びつけられましたよ。要するに、僕の顔色を見たいわけです。本当にこいつ、自信を持ってやっているのか、とかね。現場のプロデューサーを呼んでじかに話を聞く経営者なんて、それまではいませんでした。

――春雄さんは社内の空気をまとめるのがうまかったと聞きます。

横澤 1983年4月に「ブッシュマン」という映画を放映することになりましてね。番組を盛り上げるためのプロジェクトチームができたんです。そこで、映画の主人公であるニカウさんを探し出して、日本に連れてくることになった。高い銭を払って強引に日本に連れてきて、2カ月ぐらい連れ回したんですよ。番組にゲスト出演させたり、局全体で協力することになったんだけど、「そんなのできるか」みたいなスタッフが半分くらいはいました。

 しかし、結果はすごいことになったんですね。40.4%という視聴率を取ってね。つまり、世の中の見方はそうなんだということがみんな分かったわけですよ。そこで変わりましたよ、フジテレビは。

――結局、春雄さんの果たした役割は何だったのでしょうか。

横澤 思い切ってやろうという決断ですね。普通なら、「面白いね」で終わる話が、「面白いね、じゃあ、やろう」に発展する。その意識がすごい。面白いことをどこまでまじめにやれるかが、春雄さんのテーマだったような気がします。

――そのテーマで社内を1つにまとめていった。

横澤 社内だけではないんです。(ミュージカルの)「CATS」見学ツアーというのをやってね。ニューヨークに2泊4日でCATSを見に行く。それも飛行機1機をチャーターして、それにタレントとかをいっぱい乗せていくんだよ。

――費用は全部フジテレビが持つんですか。

横澤 もちろん。

▼会社のサポーターを、周囲に育成する

――狙いは何だったんでしょう。

横澤 春雄さんの組織論というのは、会社の周りにフジテレビのサポーターをいっぱい作るというものなんです。CATSのツアーも、そのサポーター作りの一環ですよね。膨大な金がかかったと思いますよ。でも、それをやり抜くところがすごい。

――タレント、文化人といった外の人たちがフジテレビのファンになってくれると、現場はやりやすくなるわけですね。

横澤 ツアーなんかでは、一緒に行動しますから、仲も良くもなりますしね。

 CATSの時は、行きの飛行機で積んでいたアルコール類が全部なくなっちゃった(笑)。それで、「免税店で買った酒があったら供出しろ」なんてお触れが出たんです。ワインからウイスキーから、全部飲んじゃったんだ。もう壮絶なものだよ。

 普通の大人の感覚ならバカバカしいんですよ。しかし、それを平気の平左でやっていたんたね。それがフジテレビのエネルギーになったと思います。

――当時のフジテレビの勢いがよく分かるエピソードですね。

横澤 あの時代が一番良かったですよね。そういう良き時代はとっくに終わっていますよ。二度と来ないんじゃないですかね。

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イケメン少年たちがテレビ番組を席巻する…。次回(本誌3月6日号)は、男性アイドル創造者ジャニー喜多川に迫る。ウェブ連動インタビューには渡辺美佐・渡辺プロダクション会長が登場します。

(聞き手:日経ビジネス編集部、写真:岡村 章子)


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