日経ビジネス2月13日号に掲載のテレビ・ウォーズ「山口百恵、比類なきテレビスター」に連動したインタビューです。誌面とウェブを合わせてご覧ください。

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――45年前、ホリプロを創業した当時のテレビとのかかわりは、どのようなものでしたか。

 (タレントの売り込みに)使っていましたが、まだ映画の方がステータスが上でしたね。

 当時は映画全盛時代。泥絵の具で描いた大看板を掲げた映画館が街にたくさんありました。映画館はだいたい目抜き通りにあるから、看板にタレントが描かれれば、ものすごい宣伝になるわけです。

――それに対してテレビは。

 テレビへの露出でスターが誕生するという状況は、もう少し後だね。「週刊平凡」「週刊明星」といった芸能誌が登場して、雑誌とテレビの合わせ技でスターを作るという時期がまずありました。

 ホリプロの最初の売れっ子、舟木一夫も当たった理由はテレビじゃない。当時の流行歌手というのは自分の持ち歌を歌うだけで、歌番組にしか出られなかったから。

――今のようにバラエティー番組で顔を売るということはなかった。

 それをやると格が落ちるというような価値基準があった。メディアの中でのテレビのポジションは、それほど高くなかったからね。

 舟木一夫をスターダムに押し上げるために、僕は一生懸命、大映に売り込んで、「高校三年生」を映画にしたんです。歌のタイトルをそのまま映画にすることで、相乗効果を上げる戦略でした。

――堀さんが映画を重視する一方、渡辺プロダクションはかなりテレビ寄りだったように思うのですが。

 ナベプロは早い時期からバラエティー風の番組を意識していたんじゃないかな。(創業者の渡辺)晋さんはテレビ時代の到来を先読みしていたと思う。だから、ナベプロはテレビ界で強くなっていったわけです。

▼「スター誕生!」の“誕生秘話”

――そうした構図の中で、「スター誕生!」という番組が生まれました。

 当時は歌のランキング番組が流行っていて、テレビ局の編成上の目玉の1つになっていた。番組に出ることによって、レコードの売り上げが伸びる時代になり始めていたわけです。

 そんな時にテレビ朝日がナベプロと組んで新しいランキング番組を作った。そして、それを(日本テレビ放送網の)「紅白歌のベストテン」の裏に持ってきたものだから、大戦争が起こったわけですよ。

 紅白歌のベストテンには、沢田研二なんかが常連で出ていたんだけど、ナベプロがもう出さないと言い出した。その時の日テレの制作局次長が井原(高忠)さんで、冗談じゃない、と。そこで、日テレが自分で歌手を作って、人気者に育てようという方針を打ち出したわけです。

――ホリプロはそれに乗った。

 当時の芸能界で、ナベプロはあまりに巨大な存在でした。だけど、僕は「一寸の虫にも五分の魂だ。うちはナベプロの作るテレ朝の番組にタレントを出さない」と宣言したんです。それで井原さんと意気投合して、大連合が生まれたんだよね。

――堀さん自身、スタ誕からあれほどスターが生まれると思っていましたか。

 それは思ってなかった。ただ長期戦をやれば伸びていくだろうとは考えていたよ。事実、ナベプロとの実力差は歴然としていたけれど、プロダクション業界でも我々に同調してくれる人たちが出てきた。ナベプロがどんどん大きくなると、他のプロダクションは下請けになる以外なくなるんじゃないかということでね。

――そして、スタ誕の1発目で森昌子を獲得しました。

 森昌子は無競争で獲得できました。僕は選考会場に社員を10人ぐらい連れていったんですが、それが日テレに「うい奴」と受け取られたわけだね。

 別に、スタ誕にごまをするために大人数にしたんじゃない。あれはOJTの一環だったんだよ。それまでは僕が仕入れて、僕が育てたタレントを機械的に現場に流していた。でも、それでは限界があるから、複数の社員に同じ能力を身につけてもらおうと思ったわけです。

 しかし、そういう僕の意図とは関係なく、プロデューサーのブン(池田文雄)さんは、「ホリプロはこんな大勢で来てくれたのか」と喜んだ。実績がない番組だったから、うちの社員を入れても、スカウトが全体で40人ぐらいしか来ていなかったからね。

▼「ホリプロ3人娘」のプランで百恵を採った

――森昌子には最初から「いける」という確信があったのですか。

 普通の12歳より体が小さかったこともあって、僕は「ブンさん、これは2~3年寝かさなきゃ無理だよ」と言ったのね。そうしたらブンさんが「それじゃあ、番組が終わっちゃうじゃないか」と言い出した。

 それで、どうしたものかと考えていた時に、「高校三年生」をはじめとする舟木一夫の学園3部作を思い出した。学園3部作は高校が舞台だったけど、今度は中学で、しかも女のタレントでやったらどうだろう。森をそれに使えないか、とね。

 その話を審査員の阿久(悠)さんにしたわけよ。そうしたら「それでいこう」ということになった。それで阿久さんが「先生」「同級生」「中学三年生」を作ったわけです。

――その後、森昌子は「中3トリオ」の1人としても人気を集めました。

 桜田淳子が偶然、森昌子と同じ年だった。それから山口百恵がこれまた同い年だったわけよ。実は、百恵はスタ誕で優勝はしていないんですけどね。偶然のなせる技でスタ誕発の「中3トリオ」になったわけ。それがスタ誕が大ブレークするきっかけにもなった。

――桜田淳子は他のプロダクションに持っていかれましたね。

 もともと「ホリプロ3人娘」を作ろうと思っていたんですよ。森昌子を当てたので、この商品を基に数を増やしたいと思ってね。デビュー前の石川さゆりを抱えていたから、あと1人の候補として桜田淳子に手を挙げたんだけど…

――結果的には失敗した。

 テレビ局が、あまりホリプロばかりに偏ってはいけないと“行政指導”したらしいんだな。それで、何が何でももう1人ということで百恵を採り、「ホリプロ3人娘」を発表しました。ただ、この「ホリプロ3人娘」は「中3トリオ」の人気に押されて自然消滅しちゃった。

――山口百恵を最初に見た時の印象は。

 歌が下手だった。優勝もしていないし、ほとんど競争なしでしたよ。「ホリプロ3人娘」を作りたいと思っていなければ、彼女は採らなかったし、桜田淳子が採れていれば、なおさらだろうね。

――そんな山口百恵が、なぜあれだけ世の中の支持を集めることになったのでしょうか。

 早く辞めたからでしょう。それに潔く引退して、その後は絶対に表に出てこないから、ますます強い印象が残った。時間が経つと、初恋の思い出がきれいになっていくのと同じだよ。あれでずっとやっていたら、果たして今までマーケットバリューが存在していたかどうか。

――山口百恵の人気に関して、テレビが果たした役割をどう考えていますか。

 スタ誕という番組が、彼女に芸能界入りのきっかけを与えたことは事実です。だけど、彼女がアーティストとして活躍した期間の中で、テレビの果たした役割というのはワン・オブ・ゼムですよ。

 テレビに対する我々の基本戦略は、ファンに絶えず飢餓感を与えるというものなんです。ニーズがあっても、100%は売らないんですよ。それがタレントの寿命を延ばすことにつながるんです。

 テレビというのは早くブレークさせる力も持っているけど、早くダメにする面もある。だから、うまくバランスを取らないと長続きしない。彼女の場合はテレビに出る一方で、文芸シリーズの映画があった。その撮影期間中は、物理的にもテレビには出演できない。テレビではベストテン的な歌番組と、「赤いシリーズ」というドラマの2つのカテゴリーを作り、それぞれで飢餓感を醸成しました。

――タレントのコントロールに相当知恵を使っていたわけですね。

 最初からそういう考え方です。テレビ時代を長生きするための生活の知恵ですよ。

――彼女はその戦略がぴたりと当たった典型的成功例という気がします。

 百恵の少し後に出てきたピンク・レディーのマネジメントは、ほとんどテレビオンリーなんですよ。テレビにニーズがあれば、100%出たわけです。しかし、僕はそれには批判的だった。百恵が日本レコード大賞を取れなかったのは、そういう作戦の副作用だったと思います。でも大賞を取って長生きができるなら狙うけど、そうじゃないからね。

――ほかのアイドルに比べて、山口百恵が突出していた部分はどこでしょうか。

 ハードルを少し高めに設定しても、いつもバーを落とさないで見事にクリアする。そして、そのバーを上げていくピッチが速かったと思うね。それは天性のものもあるだろうけど、努力もあったんだろうね。彼女は完璧主義だったから。

▼僕は常に「ファンは嘘を見抜く」と言ってきた

――スタ誕が隆盛を極めた時期のテレビは、結局、どういう存在だったのでしょうか。

 芸能界に対して、テレビがどんどん影響力を強めていった時代だったんだろうね。

 当時に比べると、今はテレビのパワーがやや落ちてきているかなと思う。テレビ受像機は、「テレビ番組を見るもの」から「テレビ番組も見られるもの」になっちゃったわけです。パソコンもゲームもあるから、リアルタイムでテレビを見る時間はどんどん減っているでしょう。今後はもっと侵食されていきますよ、いろんなものに。

――そうすると、芸能プロダクションのビジネスも変わるのでしょうか。

 例えば、先見性のある人は、既にブログを使ってタレントを売り出しています。しかし、そういうことは我々みたいなマネジメントスタッフが作為的にはやりにくい。本当に本人の生の言葉が載っからないと、効果がないですから。

――マネジャーがブログを書いたりすると、やっぱり分かるんですか。

 嘘っぽいなとばれると思う。

 テレビの影響力が強かった時代から、僕は常に「ファンは嘘を見抜く」と言ってきた。だから、森昌子も山口百恵も、ちゃんと学校に行かせて、楽屋で制服をステージ衣装に着替えさせた。それはテレビには映っていないけれども、ちゃんと嗅ぎ分けられちゃうと僕は思うのよ。視聴者というのはものすごく怖い。

――ネットやブログが出てきて、芸能人と一般の人との距離は昔以上に近づいてきました。

 テレビの果たした役割も、その距離をうんと縮めたということだよね。これからは、さらに「作り物」が受けない時代になるんじゃないのかな。そうすると、我々料理人としては腕を振るえる余地が少なくなる。今以上に難しくなると思うね。

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破天荒なメディア戦略が、テレビと映画の世界を一変させた。次回(本誌2月20日号)は、メディアの革命児角川春樹に迫る。ウェブ連動インタビューには角川春樹氏女優・薬師丸ひろ子さんが登場します。

(聞き手:日経ビジネス編集部、写真:中野 和志)


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日経ビジネス1月9日号から3月27日号の連載「TV WARS テレビ・ウォーズ」に連動したキーパーソンインタビュー。