「ただいま停車中のバンコク行きの列車はまもなく発車します」。駅員のか細い声を聞き流していた私は、次のセリフに凍りついた。「なお、次のバンコク行きは何時に来るかわかりません」。ウソ、待って。乗る、乗りますとも。
車掌に手をふってアユタヤ駅へ降り立ったのは、ほんの5分前のこと。アユタヤまで足を延ばすのは実に20年ぶりだ。バンコクへは夕方までに戻ればいいし、せっかくだからワット・マハタート(菩提樹の根に埋め込まれた仏像の頭部で有名なアユタヤのアイコン)くらい訪れたい。
ゲストハウスに1週間ほど滞在し、あちこち見て回るという同行のドイツ女性とトゥクトゥクをシェアしてもいい。そんな私たちの胸算用は一瞬で吹っ飛んだ。次の列車が、いつ来るか、わ、か、ら、な、い。
彼女にろくに別れも告げず、滞在わずか5分でバンコク行きに飛び乗った。ひと心地ついて周囲を見渡す。やけに静かだ。誰もが無言でスマホの画面を見つめているその姿は、東京でもすっかりなじんだ光景だ。往路はにぎやかな車掌とおしゃべり好きなおじさんのおかげで、この静寂に気づかなかったのかもしれない。
線路脇でカメラマンのモデルになっていた若い男性が、こちらに気づいて手をふる。どうしてこんなところでと言いたくなる、背景に似合わない王子様のようなコスチューム。あとで知ったことだが、タイでは卒業を記念して、プロのカメラマンに本格的な撮影をオーダーするのがトレンドだそうだ。