指導員・会員の総括

小林由紀 「オウムの事件と病理の総括」

■(7)出家~95年の教団の活動において

●1989年

 1988年の大晦日、福岡支部から大型バスに乗って富士に向かい、私は出家しました。バスの中には、出家する人と、年末年始のセミナーに参加する人とがいました。この時の私は、英雄になって戦争に出陣するような気分でした。

 というのは、出家したら厳しい修行が待っていて、それこそ眠る時間もないと聞いていたからです。それでも、私は人間を超えるため、神になって地球を救済するために命を賭けるのだと覚悟を決めていました。

 富士の道場はセミナー参加の信徒でいっぱいで、出家の私は3階部分で立位礼拝という修行をひたすら行うことになりました。一日のうち16時間の間、身体を動かし続け、眠る時間もあまりない修行なのですが、その時はもう、崖から飛び降りたような気持ちでやっていました。「どうせいつか死ぬのだし、今死ぬような苦しみを味わう方が、あとで楽になる。」と言い聞かせて続けました。

 その修行は2週間で終わりになり、私はAMI(音楽班・アストラル・ミュージック・インスティテュート)に配属になりました。音楽班は私を入れて4人で、わりと厳しくない部署でしたが、死んだつもりで出家した私は、ほとんど私語はしゃべらず、また、ほとんど寝ないようにして、ひたすら言われたことを淡々と行うようにしていました。

 居眠りすることもあったのですが、それを人に見つかるのを恐れ、ピシッと目を覚まして働き続けました。肉体は仮の世であると思い、身体はどうなっても良いと思っていました。苦しいのですが、それも解脱のためだし、後戻りすることもできないので、ひたすら「絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜」であるという解脱を目指すしかない、と自分を鼓舞していました。

 富士の道場の近くには店もなく、教団から与えられるオウム食という食事しか食べることができなかったり、5時間以上寝てはいけないなどの決まりがあり、相当な環境の変化でしたが、「解脱したら煩悩がなくなって苦しくなくなるんだ。」と言い聞かせて、ひたすら功徳と修行しかない、と燃えていました。

 1日に6時間は立位礼拝という修行を行い、あまり寝ないので常に潜在意識に入った状態で、目の焦点も合わなくなっていました。その頃は、そういった雰囲気のシッシャがたくさんいました。

 89年のはじめの頃は、シッシャ狩りということで、毎日のように新人が富士に到着し、どんどんと出家者の人数が増えていきました。その頃は、ロータスヴィレッジ構想というのがあり、私は、このようにオウムに集まる人が増えて、そのロータスヴィレッジが早くできればいいなあと夢見ていました。

 音楽班の部屋は、富士の道場の隣に建てられた、サティアンビルという建物の2階にありました。このサティアンビルの4階に麻原が住んでいて、時々音楽班の部屋に、マントラなどの録音をしに来たりしていました。麻原の子供たちもよく部屋に遊びに来ていて、音楽の授業をしていた頃もありました。

 音楽のワークは、一週間に一曲、オウムが東京でやっていたお弁当屋さんのBGMを作ることでした。その後、麻原が作曲した「未来へ」という曲を編曲し、それはシッシャに配られました。よく厨房で「未来へ」がかかっていて、「進め弟子たちよ、悪魔をつぶせ」などという歌詞が頭に残りました。

 その頃は毎日サティアンビルの3階で夜礼と説法があり、基本的な仏教の話に混じって、すでにヴァジラヤーナ的な話も始まっていました。

 釈迦牟尼が前世で、同じ船に乗った悪徳宝石商が他の乗組員を殺そうと計画しているのを知り、その宝石商を殺してポアしたという話があった時、その頃の大師に「自分だったらどうするか」という問答があったのですが、一番弟子の石井久子さんが「ポアしてあげる」と言ったのが印象的で、「そうか、それがみんなのためだし、悪徳商人もそれで悪業を積まないから救済されるんだな」と思いました。

 3月のはじめ、「滅亡の日」という本の袋詰をほとんど丸一日行うというワークがありました。ずっと立ちっぱなしで、そのうち15分だけ横になって休む時間が与えられました。故村井秀夫氏が指揮を取って「さあ、頑張るぞ!」と声を掛けていたことを覚えています。

 オウムでは「極限で頑張ると成就が早い」と言われていたし、この「滅亡の日」という本は、ちょっと見てみるとかなりすごい預言が書いてあるようだし、何か特別な意味を持つような気がして、極限状態の中で、肉体の感覚も麻痺したようになり、なにか特別な空間にいるような感覚になっていました。「成就をしたら、神秘的な力が身について、魔法のように人を救済できるんだ、早く解脱したい。」と、その一心で、潜在意識に深く入って神秘的な世界に没入しようとしていました。

 その頃ちょっと驚いたことがありました。ある男性シッシャが、1日に十時間以上も寝ていたことがあり、その罰として独房に入れられ、出て来た時には手にミミズ状に膨れ上がったあざができていたのです。

 1日5時間以上寝た超過分の時間を、手足を縛られて蓮華座で、トイレにも行けず垂れ流し状態でずっと真っ暗な独房に入れられたというのです。そこで私は、「決まりを破ったら大変なことになるな」と、怖くなりました。でも、「決まりさえ守れば良いのだと、私はきちんと決まりを守って頑張ろう」、と思いました。

 春になった頃のある日、麻原の体調がすぐれないということで、サティアンビルに住んでいる出家者はできるだけビルから外へ出されました。音楽班は、富士の道場の前方にパーテーションを立てて、その中に楽器を並べてワークをし、寝泊りしていました。この頃すでにサティアンビルでヴァジラヤーナ活動が行われていたと聞いたのは、2000年以降のことでした。

 その頃富士の道場では30~40人くらいが寝ていたと思いますが、夜の1時や2時には誰も寝に来ず、3時くらいになってやっとポツポツと毛布を持ってやって来ました。そのうち朝6時に起きて掃除をするようにという通達があり、3時間程度の睡眠で、みんなまじめに6時に起きて掃除をしていました。風呂に入ると徳が減ると言われていて、シャワーは週に2回、風呂にお湯を張るのも、週に2回になっていました。

 麻原のシッシャに対する対応ですが、夏の初め頃、例えばこんなことがありました。第1サティアンの玄関の警備というのを交代で行なっていたのですが、玄関の踊り場に「サニー」という名前のネコがいました。サニーちゃんは半畳くらいの檻に入れられ、みんなのマスコットでした。

 麻原はよく、三女を伴って運動のため富士の道場の裏を歩きに行ったりしていたのですが、ある時麻原が玄関から帰って来た時に、サニーが「ニャーニャー」とやけに鳴いたのです。麻原は、「おおー、サニー、元気かー!」と声をかけ、「頑張れよー!」と言い、私は「ネコに対しても愛があるんだなあー」と単純に思いました。

 でも次の瞬間「ん?今警備をしているのは誰だ?」と麻原が言ったので、「小林です」と私が答えると、「おおー小林さんかー、元気かー、頑張れよー!」と言ったので、「ネコも人間もみんな同じ弟子として見てるのかなあー」と思いつつも、声をかけられただけで嬉しく、たったそれだけのことなのに、「グルっていうのは神だからすべての生きものに愛を持っているんだなあー」と、どうしようもなく思ってしまっていました。

 今思えば非常におかしなことですが、自分を大切にしてもらいたいという欲求にとらわれていたせいか、そういった、ちょっとした気遣いや、声を掛けられる、ということだけで、私の中での麻原の神格化は深まって行ったのでした。

●選挙活動

 7月、麻原が選挙に出るという話がありました。私は単純に、「それは素晴らしい!麻原が政治に加わったら地球は平和になるだろう!これで地球の未来は明るくなる!」と、嬉しくなり、なんの疑いも不安もなく、大賛成しました。

 この選挙の話し合いの時、マイトレーヤ正大師こと上祐氏が、はじめ反対していたことはよく覚えていますが、「慎重なのはわかるけど、なぜグルを信じられないんだろう、グルは神だから何でもできるのに。やればできるに決まっているのに。」と、単純に不思議に思っていました。その当時の私は、それほどまでに妄想的になっていたのでした。

 その頃こんなことがありました。東京から富士に向かう麻原の車に、音楽班のメンバーが同乗することになったのです。車の中で麻原に「小林さんは誰か好きな人はいるのか」と聞かれ、少し気になっていた人がいたので「○○さんとか...」と答えると、「そうかあ?おかしいなあ、普通担当の大師が好きになるはずなんだけどなあ、フッフッフッ。○○は魔境だぞ、魔境が好きになるということはおまえも魔境ということだ。」と言われ、「そうなのかな全然タイプじゃないのにな、担当の大師が好きになるものなのかな。魔境はいやだな。」と思いました。

 しかしそれから1年くらい経った頃から、だんだんとその大師が気になるようになり、愛着して数年間苦しむことになりました。このことに対して私は「グルはあの時すでに見抜いていたんだ、私が愛着するとわかって大師の近くに置いて、私の煩悩を抜き取ろうとしてくれたんだ。すごいなあ、やっぱり私をわかってくれて、導いてくれているんだなあ。」と、単純に喜んでいました。

 しかし、今落ち着いて考えてみると、麻原にあのようなことを言われたこともあって、それが気になってしまい、現実のものとなっていったのではないか、とも思います。しかし、当時の私は、こんなことも麻原の神格化に結びつけていったのです。

 また、時々麻原から、「どうだ最近性欲は」などと電話がかかって来て、そのたびに、私は、「普通は人には言えないようなことまで感知してわかってくれるのだ」、と思って、麻原に絶対の信頼を置くようになっていったのです。

 しかしこれは、それほどたいしたことではなく、一定の洞察力を持っていればできることでしょう。また、このように、いきなり深い部分に切り込む話し方をすると、その人を信頼してしまうという心理学的なテクニックもあるそうで、麻原は、自分をカリスマに見せる術に非常に長けていた、ということもいえるのではないか、と思います。

 話を戻しますが、その後89年7月から音楽班は選挙の宣伝のために東京でコンサートを行うことになり、杉並区のマンションに引っ越しました。その時の選挙区であった中野、杉並、渋谷のホールで麻原が啓示を受けたといわれる曲を演奏するコンサートを合計40回くらい行いました。

 これには時々麻原も参加して話をすることもあり、導きなどに使っていたようですが、大体はお客さんは少なく、選挙活動を行っているシッシャが観客席で居眠りしているのが目に付いたことを覚えています。

 この間に音楽班では、選挙の宣伝のための歌「彰晃マーチ」を作り、麻原の住んでいるマンションで歌を録音しました。そして、ほかにも応援歌と、パフォーマンス用の歌を作り、街頭の宣伝カーでシッシャが歌ったり踊ったりしたのです。コンサートをやっている頃は楽しい毎日でした。

 ただ、私はさらにボーッと潜在意識に突っ込んだ状態が続き、音楽を作る集中力だけはあったのですが、状況判断力がなく電話で話すこともできないような状態になっていて、ほとんどしゃべらず黙っていました。

 コンサートでもボーッとしていたので実際に弾くことはできず、弾きまねをしていたのですが、音楽に合わせて身体を動かすこともなく、見ていたシッシャから、「ロボットみたいだね」と言われたことがありました。その状態で、楽器を運んだりケーブルを巻いたり、言われたことをひたすらこなすことだけをやっていました。今思えば自分のエゴを滅するためだと思って、なるべく感情を抑えたりものを考えないようにし、文字通りロボットになろうとしていたような気がします。

 すでにこの頃は坂本弁護士事件が起こっていたわけですが、教団が「サンデー毎日の狂気」などの本を作って宗教弾圧であることを訴えていたので、私は「世の中の人は煩悩が強くなっているから真理が広がるのを嫌がって、弾圧をして来るのだなあ、かわいそうだなあ、早く成就して救わなければ!」と、教団を疑うことを知らずに、妄想的な使命感を増幅していったのでした。


●ラージャヨーガの成就

 11月と12月に、成就者を出すということでたくさんのシッシャが富士に呼ばれ、一日中立位礼拝をするという修行が始まりました。私は12月組で、3~4日連続で、寝ることも休むこともなく立位礼拝を行いました。その場は異様な熱気で、時々麻原が、前にある祭壇の上で太鼓を鳴らしなから「修行よ進め」と歌っていました。

 ラージャヨーガの成就規定は、赤、青、白の3つの色が見えることだったのですが、私はずっと青と白だけでなかなか赤が見えなかったのです。赤はラジャス(動的)なエネルギーということで、私はボーッとしているので見えないのだと思い、さらに激しく行うことにしました。投地をして頭を床につける時に、頭をぶつけるようにしたり、スピードを上げたりして、最後の方で赤だけになり、「赤が見えました」と言うと、「はい成就!」ということになりました。

 「成就」ということにはなりましたが、確かにラージャヨーガの特徴である「意志の強さ」は身についたようでしたが、精神的には、さらになにか特殊な、変な状態になりました。

 変に落ち着きがあり、感情がなくて心は安定しているのですが、現実に対する適応能力がなく、世の中が過去に見え、渋谷などに買い物に行っても、ビルはセピア色の廃墟のように感じ、道行く人々は、病気か、もしくはすでに死んでいるように見え、「自分は未来からこの景色を見ているんだ」という感覚でした。こういうのを離人症というのかもしれません。

 世の中と自分が完全に切り離されて、一人の世界に没入している感じで、そこで「私は人間でなくなったのかな、情は薄くなったようだし多分少しは神に近くなったのだろう。」と思いましたが、「なにか変な感覚だな、やはりラージャヨーガでは弱い、クンダリニーヨーガを成就しなければ救済の力は発揮できない!」と、また頑張ろうと思うのでした。

 そして何を頑張るのかというと、グルの意思を行うことで成就は与えられるから、ひたすら身を捨てて麻原から言われたことを行い、奉仕しようというものでした。


●1990年、選挙惨敗からヴァジラヤーナ路線へ

 翌年1月頃コンサートは終了し、その後通称「バッタ」と言われた、駅前でガネーシャという象のぬいぐるみの帽子を被ってひたすら「麻原彰晃です!よろしくお願いします!」と言いながらお辞儀をし続ける、というワークになりました。私の担当は中野駅で、朝の6時から夜の12時までの18時間、休憩なしで続けました。この間は食事も取らず、トイレに行っても休まずすぐに戻って来るという気合の入れようでした。

 というのは、この頃の私は、もう死んだつもりなのだから、限界で奉仕を続け、教祖が選挙で当選するようそれだけを祈って、身体が疲れ果てようがどうなっても何ともない、というような意識状態になっていたのです。

 「お前らキチガイか!」と罵倒されたりもしましたが、その時は、地球を救いたい一心で、麻原を政治に送り込むためにはどんな恥ずかしいこともやるんだ、という気持ちでした。今思うと、あまりにも社会に対して不信感を持ちすぎ、自分たちだけが真実を知っている、という異常な高慢と妄想的高揚感に陥っていたと思います。

 夜の12時にバッタが終わると、食事を取り、さらにポスター貼りに出かけて、寝るのは3時ごろでした。しかも、男女混合でタタミ1畳に2人くらいの満員状態で雑魚寝していました。それでも、つらいと思うのは煩悩であり帰依がないということになるので、「私はつらくない、こんなに極限でもグルの意思を実践しているなんて帰依があるんだ、私は普通の人間ではないのだ。前世からステージが高かったはずだから、早く解脱して救済の力を身につけるぞ!」と言い聞かせ、常に自分に気合を入れて頑張るようにしていました。

 その頃の日記を見ると、「死ぬ直前までやる」と書いてありました。このように、地球に対する危機感と、妄想的優越感から、無理に高揚感を高めて働き続けるのですが、これでは交感神経と副交感神経のバランスを崩してしまうのではないかなと、今考えると思うのです。

 というのは、今現在、神経のバランスがなかなか整わなくて苦労しているので、その原因にもなったのではないかと思われるからです。プライドによって限度を超えて働き続けると、燃え尽きて抜け殻になってしまうのだと思います。

 その後「宅訪」といって、選挙区の各家庭を回ったり街頭で署名を集めるワークになりました。これも、休まずに一生懸命行って、かなり多くの人数を集めましたが、もともと口下手の私は、ひたすら勢いでぶつかり、その熱心さで署名をもらうという感じでした。

 選挙は、ご存知のとおり惨敗することになるのですが、そこでまた開票で不正があったという話があり、私は「そうだそうだ、やっぱり社会は真理を弾圧してるんだ!」と、被害妄想を膨らませてしまいました。

 その頃の説法で「これからどういう作戦で救済をやって行くか」という話になったことがあり、あるシッシャが「AEI(歌や踊りでパフォーマンスを行う班)のイメージアップ作戦」という意見を出したことがあったのですが、麻原は、「○○くん、わたしはそういうことは考えていない。。」と、ドスの効いたような声で言ったのをよく覚えています。

 それから、「マハーヤーナではもはや地球は救済できない、ヴァジラヤーナで行く」ということになっていったのです。

 私は、「そうか、世の中はどんどんけがれていっている、早くしないと間に合わない、愛する人たちを救うんだ、みんなが悪魔に取り込まれてしまう、早くクンダリニーヨーガの成就をしてもっと救済しなければ!」と、妄想的救済欲求は膨らんで行くのでした。今考えるとまったく単純なアニメ的思考しかしていなかったなと思います。

 90年3月、音楽班はAEIとして、メンバーが増え、全国の道場で行われる麻原の説法会「ポアの集い」の宣伝として、街頭で宣伝カーの上で歌ったり踊ったりすることになります。たくさんの人に麻原の話を聞いてもらい、救われてほしいと思っていたので、私も一生懸命司会をしたりしました。
 
 その頃はまだ、感情もなくロボットのようではありましたが、しゃべる訓練をしなければ救済はできないと思い、苦手なことこそ喜んでやるのが奉仕だ、と気合を入れてやっていました。

 その頃「ヴァジラヤーナのザンゲ」という修行があったのですが、私は音楽班として、その間、一日の半分は新しい曲を編曲するワークが入りました。12時間は富士の2階道場で修行、12時間は1階の部屋で音楽でした。AEIのメンバーでワイワイと楽しく編曲したことを覚えています。その時できた曲が、「マハーヤーナ」「ヴァジラヤーナ」「タントラヤーナ」「黎明」など、麻原が作曲した曲でした。

 実は、「タントラヤーナ」の曲の歌詞には、もう一番歌詞があったことをあとで知らされました。でも、その歌詞はあまりにも反社会的であったために、カットされたということでした。それはこういうものでした。

 「法律つぶして進もうよ、法律超えて行こうよ、そして真理の到達点に、早く早く着こうよ」

 これを歌っていたら、オウムの中ではみんな、いとも簡単に洗脳されて法律を破ろうとしたり、さらに大変なことになっていたのではないかと思います。本当にカットされて良かったと思います。

 また、その頃シッシャの間でこんなショッキングな話が出たことがあります。「もし、グルから親を殺せと言われたらどうする?」そういう話が、麻原と大師の間でなされていたという噂があったのです。

 私はその時かなり衝撃を受け、「自分にはとてもそんなことできない」と思いましたが、あとでいろいろ考え、「でもグルはその魂にとって何が一番幸福なのかが全部わかっているわけだから、もしも親が今死んで転生することが幸福なのだとグルが言うのなら、転生させることが親孝行なんだろうな。」「やっぱり一番苦しまない方法で、しかも自分がやったことがわからないようにするのがいいんだろうな。」などと考えて、オウム真理教の世界を盲信する中で、自分を無理やり納得させていました。

 今これを思い出すのはとても苦痛ですが、その時はそのように考えたりしていたのです。本当に、この頃は麻原のことを、「人の状態を完全に見抜き、その人にとって一番幸福な道を知っている、全面的に信頼できて生命さえ預けられる神のような存在である」と思い込んでしまっていた、ということです。

 ここまで完全絶対に信じてしまうというのはどういうことかと考えてみたのですが、どうも、①神秘的な体験を過大評価したこと、②それと同時に、今までなかなか人に理解してもらえなかった、自分の霊的な部分を初めてわかってくれた(認めてくれた)と思いこんだこと、③しかも、今まで自分が劣っていると思っていた部分を、修行が進んでいるゆえのプロセスとして逆に肯定されて、ある意味褒められたこと、というようなことが続くうちに、なにかの思考回路が短絡的に答えを出し、「私が実は優れた人物である、ということを見抜いてくれた」と考えて、麻原の神通力が完璧だと思い込んでしまったのではないか、と思うのです。

 これは虚栄心を満たす以外の何者でもなく、なんとも単純で愚かなことだと思いますが、うまく一定の「神秘体験」などと結びついていたりして、その当時の私は、バランスの取れた思考ができず、一度、麻原、オウムを正しいと思ったら、それを疑うことを知りませんでした。

 このように、今まで自分に対して心の深い部分に入って来る人がおらず、誰も理解してくれない(認めてくれない)と思っていたところに、理解者(認めてくれる人)が現れると、人は、いとも簡単にその人を信頼してしまう(過大評価してしまう)、ということは、誰にでもあることなのでしょうか。

 特にコンプレックスの強い人に見られる傾向なのかもしれません。というのは、これらの極端な心の働きの中には、強い自己愛があり、自己愛を満たしてくれる人を愛する、信じる、ということがあると考えられるからです。


●石垣島セミナー

 この頃は、大師と呼ばれるクンダリニーヨーガの成就者が、上九というところへ行って、泥にまみれて変な匂いをさせて帰って来ることが何度かあったので、何をしているのだろうと思っていました。そのうちに、「オースチン彗星が来るので石垣島に避難する」という話がありました。

 私は、「いよいよ天変地異か、やはり人間の悪業が満ちてきたのだろうか」と、悲しくなり、知り合いに電話をかけて誘えという指示が出たので、親にも電話をかけました。必死で訴えたことを覚えていますが、なかなかわかってもらえず、もう救えないのか、と、胸が痛みました。

 今思うと、家族は「私が頭がおかしくなってしまった」と思ったことでしょう。あの危機感は何だったんだろう、と考えると、すべて麻原の言うことを信じて、強迫神経症のようになっていたのではないかと思います。今考えると、なにかの条件がうまく結びついて、教団全体に、病気の集団が形成されていたのだなと思います。

 石垣島では、選挙カーで「ヴァジラヤーナ」などの歌のカラオケを流し、私は以前より少し意識がハッキリして来ていたのもあって、悲壮感と使命感とともに、サバイバル的な要素を少し楽しんでもいました。

 大師方が忙しく走り回り、指示を飛ばして、何かが差し迫っているという危機感にあふれ、みんな「これから世界はどうなるのだろう」という不安の中、「オウムにいれば大丈夫」という漠然とした安心感と仲間意識を深めていました。今振り返ると石垣島の一般の人から見たら変な集団だっただろうなと思います。

 しばらく石垣島で過ごすか、一生富士には帰らないのかと思っていたわりには、数日で石垣島セミナーは終わり富士に帰ることになりました。聞いた話では、「グルがコーザルのデータをいじってオースチン彗星の軌道を変えたらしい」ということでした。

 コーザルのデータというと、宇宙のすべての事象をつかさどっているデータと言われていました。私は、「そうか、グルは神だから、宇宙のすべてを瞑想によって自由自在にコントロールできるんだ、天変地異だって起こせるし、止めることもできるんだ、それは人間の悪業次第なのだな。」と思って納得したのです。

 それを考えると、なぜ選挙の時投票箱を不正にいじられたとしても、コーザルのデータを変えて操作できなかったのかということになるのですが、とにかくその頃は、グルが絶対の判断で動いていると思っていたので、「きっと当選が目的ではなくて、人間が悪業を積むかどうかテストしたのだろう」といった妄想的な思考によって、そういった合理的な疑問を全て抑圧していたのです。

 その後、富士の道場の近くの清流精舎というところが新しく出家した人の修行場になっていましたが、ビニールに覆われ、シェルターという感じのドアが取り付けられていました。まだオースチン彗星の影響が残っているからだと聞き、何の疑いも持っていませんでした。

 この石垣島セミナーの真実(教団の生物兵器の噴霧実験のため石垣島に避難したこと)を2000年以降に知った時、なんという馬鹿げたことをやろうとしていたんだろうと思いました。

 もし90年の時点でその真実を知ったとしたら、自分は一体どう思っただろうと考えると、やはり理解に苦しんだかもしれません。でも、もしも麻原に説得されたら、「そうか、世界はもう、そこまでけがれているんだ、神の罰が下っても致し方ないことなんだな。」と思ったかもしれません。

 ある時、私は麻原にこう言ったことがあります。「私、尊師が怖いんです。夜摩天(閻魔大王)みたいな気がして...」すると、麻原は、「そうだな、私は夜摩天的要素があるからな。」と答えました。

 それを聞いて私は「やはりそうか、悪業は積まないようにしよう、悪業がなければ裁きを受けることもないだろうから、尊師の言うとおりにしよう。」と、帰依を深める気持ちをさらに強めようと思いました。

 もともと私は「自分は悪人である、悪業がたくさんある。」と思っていたので、死後、閻魔大王に裁かれて地獄に落とされるのは怖かったのですが、閻魔大王の裁きの時に弁護士として現れるのがグルだという話もあって、「とにかく尊師は私の生死さえもコントロールし、一番いいようにしてくれる、でも、悪業を積んだらそのカルマを落とすこともするかもしれない。それは怖いけど、それが最高の愛なのだから結局は一番苦しまずにすむんだ。とにかく尊師の言うとおりにするのが一番いいんだ。」と、思い込もうとしていました。

 こういった妄想的なまでの「恐怖」というのも、オウムによりのめり込んで行って、それから抜けることができなくなる一因になっていたと思います。


●クンダリニーヨーガの成就

 7月の1日、クンダリニーヨーガの成就者を出すということで、いよいよ私も修行に入ることになりました。ほとんど横になったり眠る時間はない修行で、1日に12時間連続で激しい行法を行い、あとは瞑想などで座りっぱなしの修行でした。蓮華座という座法で座り、私は足が痛くてたまらなかったのですが、痛みは地獄のカルマと言われていたので、ひたすら耐えてカルマを落とそうと座り続けました。周りのみんなも、かなり気合を入れていました。

 毎日体験を報告し、11日間で成就と言われたのですが、「あれ、今から修行だと思っていたのに。」と、もの足りない感じでした。身体が衰弱しているような感じで、頭はスッキリしていたのですが心はあまり変わっていないように思えました。成就したら性格が変わると思っていたのに、ヤル気や勢いはついたものの、根本的性格は変わっていないように思えました。

 でも、人と話すと、なにか自分の方が心が広がっているようで、人の心がわかるような気がしました。また、パワーは強くなったのですが、周りの影響をものすごく受けるようになりました。

 それで、「クンダリニーヨーガっていうのはこういうものなんだ、かえって生きにくくなったけれど、救済者っていうのはそういうものなんだろう、まだまだ先は長いんだ。」と思いつつ、一般の人に対しては「私は地球上でまだ何十人しかいないクンダリニーヨーガの成就者だ。私は神に近づいたのだから、哀れな衆生を救ってあげなければ。」という傲慢な意識を増長させて行くことになりました。

 考えてみると、この頃は、社会を否定するところから単純な思考になり、ひたすら「気合」だけでやっていたように思います。今書いていても、「気合を入れていた」としか書けない部分がたくさんあるのです。頭で考える部分はグルに任せ、自分はその指示を気合を入れて行なうのみ、というのが帰依の形であり、その頃の修行だったのだなと、あらためて考えさせられました。

 その後、クンダリニーヨーガを成就した人は次はマハームドラーを目指し、これからはマハームドラー以上の人だけを「成就者」とみなすという話もあって、私もサティアンビルに移って修行したりしたのですが、なかなかマハームドラーまで行けそうな人がいないので、その話はナシになり、マハームドラーの修行も打ち切りになったと記憶しています。

 その後、私は阿蘇の「シャンバラ精舎」に移り、半月ほど修行しました。その間に、映画を作るという話があり、誰を出演させるかということでオーディションがありました。私もその場でライトを当てたりしていたのですが、わりと容姿の良い女性十数人に、いろいろな演技をさせて主役を選んでいました。映画の題名は、仮に「麻原彰晃物語」だったと思います。私は、どんな映画ができるのかなと楽しみに思っていました。

 そのうちに、しばらく閉めていた全国の道場を、また開けるということで、私は金沢支部に行きました。厳しい修行をしていたので、身体的にはひょろひょろで以前より弱くなったような気がしましたが、心は軽くなっていたので、なんとか気力でやっていました。支部ではなにか自分が浮いているような感じで、身体が思うように動かなかったり食べても消化できない状態でした。

 この頃の日記から少し引用します。「世の中は堕落し切っている。ほんとうにひどい。どうしようもない。情報源が低いからみんな低くなる。どうにかしなければならない。そしてそれができるのは私たちしかいない。」なんと傲慢なのだろうと思いますが、この頃は傲慢という言葉の意味もよくわかっていませんでした。

 金沢支部に行って10日目の深夜、修行の指導をしていて途中で眠くなりうとうととしていた時のことです。麻原から電話があり、「どうだ、頑張っているか」と聞かれました。私が「はい、自分なりに精一杯やっています」と言うと、「寝てばっかりいて何が精一杯だ!もっと必死でやれ!」というようなことを言われました。

 それを聞いた私は、麻原が神通力で私の状態を見抜いたのだと思い込んで、「寝ていたのを見られていたんだ!変化身で見に来たに違いない!怖いなあ、しっかりやらなきゃ。」と、びっくりして、「よし!もう死ぬ気でやろう!」と思いました。

 ところが、翌日いきなり「富士に戻って来い」という指示が来ました。このときも、私は、「尊師は、私の心が変わったことがわかったんだ。そして、やっぱり私のことを心配してくれて、富士に呼んだんだ!」と勝手に解釈して、勝手に喜んでいました。

 こうして結局、体調が悪いまま10日間で富士に戻ることになったのですが、富士に着いてみると、映画の主題歌作りのワークが待っていました。しかし、映画の話はいつの間にか消え、曲には「賛歌」という題名がつけられました。

 この頃麻原が音楽班の部屋に来て「お前は師としての自覚がないな」と言われました。それで、指導者としてあまり自信がなかった私は「よし、自覚を持って、みんなを指導して行こう。」と、「そうだ、地球のためにみんなを引っ張らなきゃ、無理にでも自分を鼓舞して頑張らなきゃ!」と思いました。

 この後、「師というのは信徒さんにとっては神だから、威厳を持たなければ」とか、、「成就者として見られる限りは、神のようにあって、強い態度でいなければ」と、考えるようになりました。だんだん体調も良くなり、視野が広がって周りが良く見えるようになって心も安定して来たのもあり、態度が大きくなって行きました。

 確かにクンダリニーヨーガ的な修行をすると、エネルギーが強くなって気が大きくなるとは思います。でも、精神的成長があったかというと、そうではなく、霊的には不思議な体験をするのですが、それによって、どんどん自分が偉くなったように思ってしまうという、虚栄心は増大して行ったような気がします。

 その後AEIは、サマナの中から楽器経験者を集めて10月頃には東京や熊本で宗教弾圧反対のパレードを行ったり、野外ステージで歌ったり、ということをしていました。これは100人近くの大人数だったのですが、私はやたらと頭が働くようになっていて、練習の合宿などでもバンバンと指示を飛ばしてみんなを率いるようになっていました。

 サマナが「ハイ、ハイ」と言うことを聞くので、自分が偉くてサマナはボーッと何も考えていないように見えました。いろんなことに気が付いてしまうために、サマナを見張っているような感覚もあり、「みんなしっかりと修行させなきゃ」と、厳しく管理していました。

 11月からは、AEIはいったん解散し、私は子供の出家者のために、阿蘇で子供班の音楽の授業をしたりしました。阿蘇は広大な土地で、大きなプレハブが立ち並び、たくさんの出家者がいて、その頃の私は、「オウムも大きくなったものだなあ、救われる人が増えて良かったなあ。」と、単純に思っていました。


●1991年「尊師と集う会」「死と転生」「インド巡礼ツアー」

 91年1月からは、毎月一回、「尊師と集う会」という、成就者の集まりが行なわれていました。その中での会話では、誰が早くマハームドラーを成就するか、とか、帰依とは何かという深い話とか、普段の説法では出て来ないような内容がたくさんあり、その頃の成就者の意識付けをして行くものでした。

 その中での、ある師と麻原との問答で思い出したものがあります。それは、「悪魔とは何か」という麻原の質問に、ある師が答えた時のことです。その師は「煩悩です」と答えました。すると、麻原は「違う!現実だ!」と、怖い顔をして答えました。

 私は「現実が悪魔である、とはどういうことだろう...」と考え、「やはり現実というのは、死んだら消えてしまうものであるし、否定しなければならないんだ、オウムの真理だけが真実なんだ、ということかな...」と理解していました。その後も、現実に対する否定は私のなかで大きくなって行きました。

 1月末には私も富士に移動し、3月から「死と転生」という大きな音楽イベントを行うということで、音楽を専門に習ったメンバーを集めて準備を始めることになりました。これは、踊りや大道具、小道具も含めたかなり大掛かりなイベントだったので大変でしたが、「これを見た人が少しでも救われるように頑張ろう。」と思い、極限で行なっていました。そして、周りのサマナにも、そのように指導していました。

 このような大きな音楽イベントは、その後「創世記」を含め、この時期12月までに10回以上行なわれました。「大説法祭」というイベントもあり、そのために演奏班という部署もでき、音楽活動は忙しくなって行きました。

 その頃、潜水艦やヘリコプターなどを作って、機関紙に発表していましたが、すぐに壊れたり、あまり性能は良くなさそうでした。私は、「そういえば一体UFOはいつできるんだろうなあ」と、まだまだ期待して待っていて、麻原がUFOの中から説法している、という夢まで見て、楽しみにしていました。

 オウムには、私が思っていたほどの超能力者はいないのかもしれないなと思いつつ、いや、実は隠された研究機関があるのだ、などと、どこまでも超幻想を信じようとしていました。

 また、その頃こんなことがありました。富士宮の町を車で走っている時、乗っていた一人が「ああ、この町もオウムのものになるんだなあ。」と言い、私は、「たしかに、これからオウムが真理の国を作るのだからそうなるんだな。」と思えて、「そうですねえ。」と答えたのです。

 その時の心の中を思い返してみると、悲壮感の中に、確かに野望のような意識がありました。

 8月頃には、宇宙戦艦ヤマトのような服を着て、原宿で歌ったり踊ったりのパフォーマンスをしてオウム出版の本の宣伝をしたり、今考えると能天気なこともしていました。浅草のサンバカーニバルに出て踊ったりしたこともありました。

 9月頃、富士の第1サティアンビル2階の、もとの音楽班の部屋に移ったのですが、何か部屋がやけに黒っぽく薄汚れた感じになっていたのが印象に残っています。あとで聞いた話では、その前に第一サティアンでは塩素系毒ガスの研究が行なわれていたということでした。道理で、第1サティアン全体が黒っぽくすすけたようになっていました。

 この頃はまだ、第1サティアン1階の倉庫ではなにかバーナーで燃やす音がしたり、時々変な匂いがしていて、1階から「すいませーん、変な匂いしたでしょうー」とか言いながら、そういえば、広報技術と言われた当時の科学班の人が2階を見に来たりしていたことを覚えています。

 でも、ここにまた音楽班が居住することになったということは、研究はしていたものの、毒性がなかったのでしょう。私は能天気なことに、「何の研究だろうなあー、次はなにができるのかなあー。」としか思っていなかったのです。

 11月にはインドツアーが行なわれました。思い起こせば、その時たくさんの信徒さんといっしょにインド巡礼を行ないながら、私は、「オウムは、世界で唯一正しい宗教だ、これから世界の宗教になるんだ」と信じてひとかけらの疑いも持っていませんでした。

 この時は母も信徒で、いっしょに行ったのですが、石垣の時にはさすがに変だと思ったかもしれませんが、インドツアー自体は健全に見えたのか、来てくれたので、救済されて嬉しいなあと単純に思っていました。

 私は普段は富士にいましたが、こういったツアーの時は、信徒さんと接する機会があり、信徒さんの中には、「あ、あの、「死と転生」(教団の音楽イベント)に出ていた人でしょう?」とか、私と会えて嬉しいと言う人が多くいました。

 そんな時には「そうか、私は有名なんだな」と、ちょっと気分が良くなったりして、そういう所でも、「私は一般の凡夫とは違う、偉大な神の弟子として活躍しているんだ。多くの人に支持されているんだ。」と、自分の地位を確立させ、自信と確信を深めて行くのでした。

 この頃の私は、心も明るく、毎日が楽しく生き生きとしていましたが、それは今となっては虚像です。集団幻想の中で生きていた夢のようなものでした。閉ざされたひとつの国の価値観の中での幻影です。

 その頃は自分が幸福になったと思っていたし、修行に確信と自信があったので、「みんながオウムに入って真理を実践して幸福になったらいいなあ、世界が平和になったらいいなあ。」と単純に思っていましたが、自分が楽しかった裏では、ヴァジラヤーナ活動があったわけだし、その世界は大きなからくりの中での作られた虚構であったのです。

 その中では、私はノイローゼになることはありませんでした。自分の価値観が肯定される世界だったからです。私の地位は確立され、周りの人はみな慕ってくれていました。私にとっては満たされた世界だったのです。

 しかしそれは、どこかで誰かが苦しむという構図の中での、極端にバランスを欠いた、不安定な安定だったのだと今では思います。


●1992年「ロシアツアー」「スリランカツアー」「キーレーン」

 92年3月頃「死と転生」のロシアツアー、5月にはスリランカツアーがあり、その後歌の編曲や「26曲集」という、オウムの歌の楽譜本の制作をしました。その頃私は無言の行をしていたのですが、それにはいきさつがありました。

 その頃にはすでに、例の担当の大師(以下U師)に愛着していて、そのせいで腹が立つことが増え、ある日ちょっとムシャクシャしていた時に、その師と2人で新しい曲を聞いてもらうために麻原の部屋に行った時のことです。

 私が部屋に入るなり「なんだその心の働きは!」と麻原に怒られてしまい、「おまえは無言の行だ!」と言われたのです。

 このとき、私は「また見抜かれてしまった!でもグルは本当に私のことわかってくれてるんだなあ。」と思いこんで、U師よりも麻原の方を好きになろうと努力しました。

 冷静に考えてみれば、麻原が目が見えないのに私が怒っているのがなぜわかったんだろうと考えてみると、時々電話で話したりして日々の大体の状態を話していたので、特にその日は怒っていたにしても、私がU師に対して普段から良くない感情を持っているのはそもそも知っていたわけです。

 しかし、いつものことながら、私は麻原に見抜かれたと思い込み、そして、おかしなことですが、このことから麻原に対して、「グルだけは私の味方なのよ」という思い込み方をしていきました。この頃には、「グルは閻魔大王であり悪業を積むと罰を与えるんだ」というような恐怖は出なくなっていたと思います。

 7月、ブータンに国賓として招かれた時、音楽班もいっしょに行き、私はブータン国王と会談したり、有名な寺であるタクツァンテンプルで瞑想する麻原を見たりして、ますます神としての認識を確たるものにして行きました。

 地球上で、どこにも比類なきグルである麻原と、その弟子の集団であるオウム真理教の地位は、私にとっては不動のものであり、地球のトップどころか、神の集団として人間を救う側として、一般の人や他宗教とは全く別ものであって、一線を画した存在であると思っていました。

 つまり、地球人を下に見ていました。私はここまでおかしな状態にはまっていたのですが、そこまでになった人がどれくらいいたか、おそらく、成就者とか、ステージが高いと言われた人に、当然その傾向が強い人が多かっただろうと思います。

 92年の後半になると、ロシアのオーケストラ「キーレーン」のコンサートのための作曲が始まり、音楽のワークはより専門化して来ました。このオーケストラは、麻原の作った音楽を専属で演奏するために100人以上のメンバーがいて、当時のロシアでは高い給料を払っていました。オーディションには多くの人が詰めかけ、演奏技術の高いメンバーが集まりました。

 「交響曲キリスト1楽章」という曲ができた時(これは私が編曲したのではなく別のメンバーの編曲です)麻原に呼ばれて聞かせてもらい、感想を聞かれました。私が「ドラマチックですね。」と言うと、麻原は、「そりゃあキリストだからね。キリストはドラマチックなんだよ。」と嬉しそうに言いました。

 「ドラマチックっていうことは、これからいろいろあるんだろうなあ。」と、想像しましたが、何か悲壮感が漂うものなんだろうと感じました。こういった私の妄想の傾向は、事件後の展開さえも、しばらくはドラマチックな演出のように感じさせることになりました。


●1993年、「救えオウムヤマトのように」

 この頃「救えオウムヤマトのように」という歌を編曲する指示が来ました。「リズムが同じでメロディーが違うという試みだ。ヤマトの曲と同じ編曲の仕方でやってくれ。」と言われ、宇宙戦艦ヤマトの曲を何回も聴きながらまねをして作りました。

 出来上がって第2サティアンに持って行くと、麻原はとても嬉しそうに、その時第2サティアンにいた師の人を集め、感想を聞いていました。「どうだこれは」「なんかヤマトに似ているような...」「そうだろう、フッフッフッ。」という具合でした。

 麻原はいろいろなアニメを研究していた時があり、「このアニメはオウムに似ている」と言っていたアニメがありました。それは「イデオン」というものでした。それは、何かと戦う話でしたが、最後には仲間がみな死んで、違う世界に生まれ変わるというものでした。

 また、麻原は「私はジョミー・マーキス・シンに似てるんだよ。」と言っていたことがあり、それは「地球(テラ)へ」というアニメの、超能力を持った少年で、のちに地球のために大きな活躍をする主人公でした。

 そういったことを話したり、時々子供っぽいことを言ったりする麻原を目にすると、私は、「尊師って、わりとお茶目なんだな」と思っていましたが、神格化が崩れることはありませんでした。わざと、私たちに合わせてくれていると思っていたのです。

 「地球(テラ)へ」というアニメでは、どこか身体に欠陥のある人間が、その代わりになんらかの超能力を持っていて、そういった人たちが集まって、地球の間違いを正して悪を滅ぼすというような話だったと思いますが、麻原は生まれつき目が悪かったし自分にそういったイメージを重ねていたのかもしれないと思います。

 それは、私も同じで、自分も身体が弱かったりノイローゼだったりしましたが、霊的には敏感で、普通の生活がしにくい代わりに、超能力を磨いて地球を救うような大きな活躍をしたいと思っていたからです。なまじ小さい頃頭が良いと言われて、自分を特別視してしまったのかもしれません。

 よく、オウムに入る人はみな頭が良いのだと一般的に言われていたようですが、全くそういうことはないと思います。でも「自分は本当は頭が良いのだ」と思っていた人は、わりといたのかもしれません。私は小さい頃神童だったとか言われて、「20歳過ぎればただの人」どころか、ノイローゼで頭も働かない罪人のようになり、人生終わったと思い、オウムに夢を賭けたのだと思います。

 でも、今思うと、大きな活躍なんかしなくてもよかったなと、そう思います。普通に、できることをして、周りの人に奉仕をして尽くしていれば良かったんじゃないかなと思うのです。

 多分、心が未熟で若かったために、平凡な生活では満足できず、「戦争をなくすこと」という大きな夢を持ち、そのために地道な努力をすることがとてつもなく遠く難しく感じられ、超能力で一気に世界を変えられたらいいなと思っていたところへオウムが現われ、これしかないと、その世界の中にはまり込んで行ったのです。

 そういうことを考えている時、「あすなろのうた」という歌が頭の中に流れました。小学校の時先生が、「あすなろという木はね、明日はヒノキになろうと思っていつも努力している木なんだよ。でもね、いい意味だけじゃないとも言われてるけどね。」と言っていたのを思い出し、それについては意味がわかっていなかったので、井上靖の「あすなろ物語」をあらためて読んでみました。

 主人公は、いつか何ものか大きな活躍をしたいと思いながら、結局平凡な新聞記者になるのですが、登場する友人たちも、いろんな夢を持ち、ある者は戦死してヒノキになったと言われたりしながら、それぞれの人生を生きて行くのです。でも、どんな平凡な人も、多感な時代を過ごし、夢が破れたりしながら大人になって行くのだと思います。

 私もまた、夢を持ち、家を捨てて出家して、解脱して地球のために悪と戦う勇者になりたかったからこそ、厳しい修行に耐えて来たと思っていたのだけれども、それは夢でしかなかったのだろうと思います。

 夢を見るのは勝手ですが、人に迷惑をかけること、それも、巧妙な善の名のもとに人を苦しめることだけは、自分の良心に対する裏切りとなって、その報いとして自らの精神を分裂させ痛めつけるのではないかと思います。今となっては、若気の至りだったというか、子供だったというか、おろかだなと思います。

 あすなろの木は、ヒノキよりも劣っているとされていますが、実は決してそうではなく、成長は遅いけれども立派な建築材料になるそうです。あすなろは、無理してヒノキになろうなどと考えずに、生まれたまま、ありのままにあすなろとしての天命を全うすればよいのではないかなと、そういうことを、先生は言いたかったのかなと、今思いました。私は、自分が人間であって、もともと神にはなれないことをやっと知ったのか、と思います。

 93年4月頃から、富士総本部道場の隣に新しく建った、第4サティアンと呼ばれる、メディア専用のビルに住むようになりました。ここにはかなり専門的なスタジオがあり、撮影や録音、編集などができるようになっていました。

 5月、キーレーンの日本公演ツアーがあり、日本各地の5ヶ所でコンサートが行なわれました。11月頃にはロシアのオリンピックスタジアムでコンサートを行なったり、ボリショイ劇場で「死と転生」を行なったりして、ロシアの信徒が3万人にもなったという話も聞き、私はまたまた「オウムは世界の宗教だ」という確信を深めていくのと同時に、「自分は大きなことをやっているんだ」と思うようになっていました。今考えると、優越感に拍車をかけていたと思います。

 あとで聞いた話ですが、ロシアのキーレーンコンサートは、かなり、ヴァジラヤーナ活動のカムフラージュだった部分があったようです。つまり、音楽班は表向きの部分を担当し、華やかなコンサートを演出していて、その裏でロシアでいろいろ動いていた人がいたということです。

 まったく私は能天気だったなと、何も知らず、他の人が何をしているのか、どういった状況下で人が苦しんでいるのかということに対する想像力がまったくなかったなと思います。「救済だ!」と思っているのですが、それが全く軽薄で見当違いだったと思います。
 キーレーンの曲は、麻原が作曲したメロディーを数人で編曲していました。音楽班のメンバーは次々と第6サティアンに呼ばれ、麻原のそばでワークをするようになったのですが、私だけが富士に残されていました。これはやはりグルに対する愛着が足りないのかなと思い、麻原のことだけを考えるように努力しました。

 麻原が音楽班の女性メンバーに見せる態度は、いつも柔らかく、優しい感じでした。女性のサマナに対してはそうだったのだと思いますが、その優しさに惹かれ、「グルだけは私をわかってくれる」と愛着していた女性サマナは多かったと思います。

 私ははじめはあまり愛着という感じではなく、とにかく信頼してついて行くという感じだったのですが、説法でも「女性はグルだけに愛着することで修行が進む」という話があって「そうか、解脱のためには愛着しなければ」と努力したことが大きく、あとは何度か優しい言葉をかけられるうちに、「やはり自分のことをよくわかってくれる、それも、神秘的な力で自分よりもよくわかってくれている」、と思いこんでいき、愛着していった、というのがあったと思います。U師のことも、この頃はだんだんと気にならないようになっていました。

 第4サティアンの建物の周りには、いつしかぐるりと加湿器が置かれ、白い水蒸気が出ていて、まるでお香を焚いているように見えました。中の液体は毒ガスを中和させる薬品だと言われていて、交代で補充することになっていました。

 メディア班では、気功やヨーガのアーサナなどのビデオに、サブリミナルといってわずかに麻原のマントラを混ぜたり、「尊師大好き」といったような文字を、見えないように刷り込んだりしていました。

 また、「戦いか破滅か」というビデオが作られ、私はそれを見てほんとうに危機感を感じました。アメリカは悪い国で、300人委員会とか、フリーメーソンが人間を家畜化するという話もあり、ほんとうに怖いなと思っていたのです。


●1994年、「麻原がいなければ生きていけない」という構造

 94年になり、パーフェクトサーベーションイニシエーションの帽子が配られました。これは「完全他力のイニシエーション」といわれ、寝ていても、この帽子を被っていれば解脱するといわれていました。この頃から、「自分を空っぽにして麻原のデータを入れることが、解脱する早道なのだ」ということを大々的に宣伝するようになり、サマナの認識もそうなっていました。

 薬物によるイニシエーションというのも春頃から始まりました。私自身も6月にキリストのイニシエーションを受けて超常的な体験をして、その体験が麻原によるものだと思っていたので、また神秘的な世界に没入し、現実を否定することになりました。

 7月には、「進軍」という、相当に危機感を持った歌詞がついた歌を編曲することになり、例えば「毒ガス噴霧に耐えかねて真理の法刀抜き放つ」「いざ戦いの勝利の旗をたなびかせながらいま進軍だ」という歌詞に、「これはただごとではないな...」と感じ、編曲も、悲壮感が漂い危機感の迫るような、仰々しく士気を煽るようなものに仕上げました。
 そして、まったくアニメの戦いの曲のようなものが出来上がり、自分では気に入っていました。この曲ができた時、麻原から電話があり、「私は感激しましたよ」と言われ、たいそう嬉しかったことを覚えています。

 しかし、あとで聞いた話ですが、この曲は、ヴァジラヤーナ活動をしていたサマナを鼓舞するためのものだったようで、これを聞いてヤル気を出していたのだということで、そんな所で自分の誇大妄想がヴァジラヤーナ活動に加担していたのだと思うと、言いようのない責任を感じました。

 私はもともと、人の迷惑というものを考えずに生きて来たのではないかなと、最近はつくづく思います。なにか「これが正しい」と思ったら、そのために周りの人にどのような影響があるのかを、正しく分析することはできなかったし、そうしようとも思わなかったのです。

 「もしかして自分が間違っているのではないか」という可能性を考えることがない思考パターンだったのです。これが、スムーズな人間関係を作れない原因だったと思うし、自然に感情表現ができない原因でもあったのではないかと思います。

 さて、その頃はとにかく「グルの意志の実践」「グルの救済活動が成功するように」ということを言われていたので、特に歌詞がついている歌の場合、その世界に没入して麻原の考えている世界を音楽にあらわすことが帰依でありグルとの合一であると思っていました。

 音楽は合一の修行であるとも言われていたので、ひたすら、麻原の心に合わせていくことを考えていたのです。そうすると、やはりその頃は戦いの説法が多かったので、戦いのことを考えることが多くなっていました。

 自分でも、もともとアニメ的宇宙戦争や、世界規模の戦いなどの夢をよく見ていたので、「いよいよ私の見た夢が現実となる時が来たのだ...。」と思い、「できればそうなってほしくない」という思いとともに、「地球の機構は、いったん壊れた方がいいんだ、人間はいろんな欲望を捨てて原始人的生活からやり直したらいいんだ。」という、地球をリセットする願望も持っていました。

 たしか麻原が第4サティアンに歌の録音に来た時、「みんながパーフェクトをつけているからカルマ交換が激しい。自分もパーフェクトを被っていなければ気が狂いそうになるんだよ。」と言っていて、「そうなんだ、申しわけないなあ、でも、自分たちもこれを被ることでしか救済されないし、グルもそれを望んでいるのだ。私たちは、へその緒でグルの命を吸い取って生きているようなものだ、ほんとうに有り難いことだなあ。」と思っていました。そのように、この頃はそれぞれの意識の中で、「麻原がいなければ自分は生きていけないのだ」という構造が確定されていったと思います。

 9月、私は富士の第4サティアンから第6サティアンに移動し、3畳の部屋をもらいました。毒ガス対策のために、部屋には小型の空気清浄機「コスモクリーナー」が設置されました。だんだんと、ヴァジラヤーナ的な説法が増え、フリーメーソンの陰謀というような具体的な話が出てきて、ヘリコプターが飛んでいると、「あ、毒ガスを撒いている」と言ったり、「黄色い煙が出ていた、そのあと気分が悪くなった」という人がたくさんいて、私もだんだんと「本当にいよいよ社会が真理を潰そうとしているのだな。」という被害妄想を確定させていました。

 また、第6サティアンの2階フロアが、1日にして点滴をつけた信徒さんでいっぱいになった時には驚きました。これは薬物によるイニシエーションだったようですが、こんなにたくさんの信徒さんがこういったイニシエーションを受けに来るということ自体、「ああもう時間がないんだなあ、きっとハルマゲドンが近いから、あらゆる手段を使って救済しているのだなあ。」と思っていました。

 このように、オウム内の雰囲気は「ハルマゲドンまで時間がない」ということで、個人が厳しい修行をするのではなく、とにかくグルに頼るということになり、だんだんと人を弱くさせ、依存心を強める実践になって行きました。

 その頃にはその価値観が普通だと思っていたし、周りのみんながそうでした...アメリカに攻撃されていることを知らずに生活している一般の人は、だまされていて可哀想だと思い、「みんなに本当のことを伝えなきゃ。みんながオウムに入らなきゃ。」と思っていました。ノアの方舟に乗せる、そういう感じでした。

 「みんなが尊師のもとに集まれば尊師が救ってくれる。だから、みんなを尊師に縁をつけさせなくちゃ!」と、本気で思っていたし、それはだんだん切羽詰った感じになっていきました。麻原の説法もだんだん不思議な雰囲気のものが多くなり、いっそう危機感が強く感じられました。

 私はその頃完全に「オウムは全宇宙で唯一正しい神の意思に沿った、完全な真理の団体だ」と信じ込んでいて、言ってみれば、帰依があるという状態でした。それに、第6サティアンという、麻原のお膝元にいるということで、サマナの中でも麻原に近い存在であって、この地位は変わることはないというプライドを持っていました。

 しかし、今客観的に見ると、自分はどこにでもある妄信の宗教の精神構造と同じ状態だったのでした。結局は、「私は地球を救済するために、天から降りて来たに違いない!!全ての人が救済されてほしい、私は命がけで救済するぞっ!」と思う背景に「なんてカッコイイ救済者の私なんだ。」というような、コンプレックスから裏返った強烈な自己陶酔がありました。

 しかしその時にはオウム全体の価値観の方向性が誇大妄想という共同幻想だったので、そういった煩悩に気づくこともなかったのです。出家して共同生活をしているので、それがごく当たり前の日常になっていました。集団というものは一つの価値観を持ったら恐ろしいものだなと思います。

 キーレーンの曲の編曲は94年後半も続いていて、編曲のメンバーは第6サティアンに一人一部屋が与えられていました。ある程度編曲できると、麻原の部屋に行って、チェックを受けるということで、6時間ごとに部屋に行っていたこともありました。この頃の麻原は、部屋にいる時はいつも、折りたたみ式のビーチベッドに横になった状態で話をしていました。

 音楽班のメンバーは、麻原に近いところにいて、麻原が身体が弱っているように見えることもあり、「グルを守らなければ」という意識を強くしていったように思います。ヴァジラヤーナ活動については何も知らず、「フリーメーソンが真理を潰そうとしてグルも狙われている」、と思っていたのです。

 その頃、同じ師である友だちが私の部屋に「ねえ聞いた?この第6サティアンが、世界のコントロールセンターになるんだって~!」と言いに来たことがありました。私は「へええ、すごいじゃん!」と素直に喜びました。「そうかあ、今やラジオ放送もしているし、いよいよオウムも世界に広がっていくんだなあ~、、、」と、世界がオウム一色になる未来を、近い未来の現実として夢見ていました。

 約3畳の部屋には窓はなく、第6サティアンは宇宙船の中にでもいるような雰囲気でした。麻原やその家族が毒ガスの影響で体調が悪くなったという話もあり、サマナに対しても体調のアンケートなどがあり、私も、抗生物質を飲んだりヨーグルト療法というのをしたり、また、温熱修行を毎日行なっていました。

 思えばほとんど外に出ることはなく、時計を見ても午前か午後かわからなかったし、顔色も青白く不健康になっていたことは確かです。

 第6サティアンの3階には医療省というのがあって、のどの吸入をしたり、いろいろ治療を受けている人や、記憶を消すというイニシエーションを受けている人がいたりして、少しあやしい雰囲気ではありましたが、それも、「救済のためいろいろ研究しているのだな」と、「やっぱりオウムはすごい」、と、私はどこまでもオウムを肯定して疑うことを知らなかったのでした。

 このように、この頃には、かなり狂気な状態になっていたと思います。ここまでマインドコントロール、というより自分ではまり込んでしまった人が、一体どうやってノーマルに戻る、あるいは変わることができるのか、とても大変なことに思えて来ます。

 今この頃のことを思い起こしてみても頭が痛くなってくるし、やはり抜けるまでに10年かかっても仕方がないくらいのものだったのだなと思います。

 それは私がもともと我が強く、自分が正しいと思い続けることによって作り上げた世界であったと今では納得しています。そのために人に迷惑をかけ、苦しみを与えるようになってしまったというのは、表層意識では気づかなくても、潜在的には自分の価値を高めることに価値を置いていたためだったのだと思います。

 ほんとうに宗教的高慢さ、神の名を語る独善というものは恐ろしいことであり、謝罪してすむというレベルのものではないと思います。これから、長年自分も他人も騙し続けてきたこの性格の傾向を直し、それを世間に対して謝罪し、今後謙虚に、贖罪としての生き方をする、その生き様を見てもらうよりほかに、私の生きる道はないと思っています。


●1995年、警察は敵

 95年になり、第6サティアン内はいよいよ不穏な雰囲気になってきました。毒ガス攻撃が激しくなっているという話だったし、健康調査やヨーグルト療法も続けていました。酸素吸入器も自由に使えるようになっていました。そのうち法律担当のサマナが、「もしも警察が来たら」という話をしに来て、いよいよ弾圧が激しくなって何かが起こるのかなと思いました。私は、部屋にこもってひたすら新しい歌の編曲をしていましたが、有事の事態にはいつでも戦いに出て行くぞという気持ちになっていました。

 また、この頃「アジテーション」というのがあり、部署ごとにサマナを集めて、その前で、なにか「世界がもはや大変な事態になっていて、もう時間がないのだ。」といった内容の文章が読まれました。詳しい内容は覚えていませんが、これはかなりインパクトがあったと思います。

 3月、強制捜査が入った時、いよいよ弾圧がはじまったと思いました。でもオウムは絶対に正しいと思っていたので、「警察は悪に取り込まれて真理を弾圧し、悪業を犯して地獄に落ちる哀れな人たちなのだ、かわいそうだなあ」と本気で思っていました。ものものしいガスマスクをして押し寄せる警察官を見て「悪い人」だと思い、「真理を守るために戦うぞ!」と思って、その時警察に向かって言うように指示されていた「裁きによって地獄に落ちるぞ!」といったようなことを叫んでいました。

 その後私は自分から志願して、東京世田谷道場に行ってビラ配りをすることにしました。この有事に、音楽を作っている暇はないと思い、少しでも悪と戦いたかったのです。ビラにはひたすら「オウムは無実である」ということが書いてあり、私もその通り無実だと思っていました。

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