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63年前、高山市にまかれた「空襲予告ビラ」を手にする前越晢夫さん。ビラが詰まった爆弾を上空で爆破してまき散らしたとみられ、一部が焼け焦げている=高山市花里町
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太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、米軍が高山市の上空でまいた「空襲予告ビラ」を、同市の市民らが保管していることが分かった。4日から、市内2カ所で展示される。ビラの投下は当時、多くの市民が目撃したが、警察や自警団がすぐに回収して処分したとされ、公開されるのは珍しい。
ビラは横21センチ、縦14センチのモノクロ両面刷り。片面には、編隊を組むB29爆撃機の写真を囲むように“標的”とされた高山など12都市を明記。一方の面では「日本國民に告ぐ」と題し、数日中に各市内の軍需工場を爆撃する、と通告。「爆弾には眼(め)がありませんからどこに落ちるか分りません」と、住民に避難を呼び掛けている。高山は空襲被害は免れたが、このうち7都市は空襲を受け、愛媛県今治市、山口県岩国市は1000人規模の犠牲者を出している。
ビラは複数の市民が保管しているとみられる。このうちの1人の前越晢夫さん(73)=高山市花里町=は、10歳だった63年前の8月2日夜、市の上空を通過する米軍機が投下した照明弾とともに、無数の紙がまかれるのを目撃した。「何が書かれていたのか知らなかったが、高山も狙われているという噂(うわさ)が広まった」と語る。昭和30年代に職場の上司からビラを譲り受け、初めてその内容を知ったという。
当時、同市には県外から軍需工場が疎開。また、軍需産業へ転換した地元企業が、戦闘機のアルミニウム部品の代用品として、飛騨の匠(たくみ)の「曲げ木」の技術を応用した木製部品を製造していた。
「岐阜空襲を語る会」事務局長の篠崎喜樹さん(73)=岐阜市五坪町=は「戦争末期は空襲の対象が内陸の都市へ迫っており、戦争が長引けば高山も空襲に遭っていた可能性はある」と指摘する。
前越さんは「木造家屋の多い高山は、数発の焼夷(しょうい)弾でも廃虚になる。ビラの予告通り空襲を受けていたら、今日の観光都市としての発展もなかっただろう」と話している。
ビラは、同市上二之町の「ミノワ薬店」ギャラリー、同市下一之町の高山昭和館で展示される。
◆空襲予告ビラ
戦時中、敵国の兵士や市民の戦意喪失などを目的にまかれた紙「単伝」(たんでん)の一つで複数の種類がある。1945(昭和20)年7月末ごろから、多治見市などを含む全国32都市の上空でまかれたとされ、実際に約半数の都市で空襲があった。
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