日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第5回 衣笠祥雄
―昭和39年暮れ、京都平安高校のキャッチャーだった衣笠祥雄氏は、その長打力を買われて広島東洋カープと入団契約を交わし、翌40年の春のキャンプからプロ野球選手としての生活をスタートさせる。
やっぱり最初にプロ野球の練習に参加したときは、物凄いカルチャーショックだったですね。もうボールを打つのも、走るのも守るのも、とにかくレベルが違いすぎるんです。ああプロの世界は本当に凄いところなんだっていう感じ、それと自分は本当にこの世界で生き残っていけるんだろうかっていう感覚、そんな圧倒感と絶望感が入り交じったような思いですね、そんな感覚を覚えたことをいまでも鮮明に蘇ってきます。
最初の3シーズンは鳴かず飛ばずでした。年間2,30試合は出してもらうんですが、どうしても結果が出ない。やっぱり気持ち的に負い目があるんですね。こんな上手い人達のなかで自分なんかついていけるだろうかっていう。
そんなときだったですね、当時の監督の根本睦夫さんから「お前、自分の人生どう考えてるんだ」って怒られたんですね。「1軍に定着してナイターの下で野球がやりたいんだろう、じゃあ、出るためにはお前は何をするんだ」って。
プロ野球の入り口は3つあるんですよ。打つ、走る、守るの3つですね。で、僕は打つことに自信をもっていたんですが、先輩たちのバッティング技術をみて自信が吹き飛んじゃったんです。だけど、根本さんのお話をうかがっていて、やはり僕のセールスポイントは打つことしかないと、長打力しかないんだということがはっきりとわかったんです。
―プロ野球の世界で長距離ヒッターとして認められるためには年間最低20本のホームランを打つ必要があるといわれている。その長打力を身につけるため、衣笠氏は、地味だが過酷な練習を自らに課したという。
年間20本のホームランを打つためには、まず安定したフォームをつくらなければならないのですが、これをつくるためにはしっかりとした打撃の技術論、それから豊富なバッティング経験、最後に自分の身体特性の見極めですね。この3つが必要なんですが、僕は最初から無理だと思ったんです。打撃論の知識はない、経験はない、自分の身体のどこが強いのかわからない。これはダメだと思って、もっと物理的に考えたんです。
ボールを遠くへ飛ばすにはどうしたらいいか。ピッチャーが投げるボール以上の速さでバットを振れば、ボールは放っておいても勝手に遠くへ飛んでいく。ということは、バットスイングのスピードですよ。じゃあ、スピードはどうやったら速くなるかといったら、ただもう、がむしゃらにね、振るしかないんです、バットを。
で、寮や自宅に帰ってから1日2時間、ただひたすらにバットを振るんですが、これが結構きついんです。単調な練習を毎日つづけていくことの精神的なつらさ、それから肉体的な苦痛ですね。これを毎日毎日積み重ねていけるかどうか、そのつらさを自分自身引き受けていけるかどうか。そこが結局、プロの世界に残れるか残れないかの分かれ目だったと思いますね。
―捕手から内野手にコンバートされた衣笠氏は、43年からファーストのレギュラーポジションを獲得。そして45年秋には2215試合連続出場という前人未到の大記録に向かって、その第一歩をスタートさせる。
54年のシーズンに大スランプに陥って、連続イニング出場が切れたんです。もう突然打てなくなって、どうあがいてもダメ。技術論で考えたり、練習を工夫したり、延々と打撃練習を行ったり、とにかく考えられる全てのことを試みたんですが、全然打てないんですね。あのときは正直いって、ああ僕の野球人生も終わったなと、そう観念したんです。
で、ふと自分のことを振り返ってみたんです。それで自分の特性は何だといったら、確かに長距離ヒッターであると。ただ三振も多いバッターなんですね。僕はそういう長所と短所をあわせ持ったバッターなんだと、そういうことがスッと心の中に入った途端だったですね、急に気が楽になって、また打てるようになったんです。ほんの数秒のことだったんですが、ポンッという感じでスランプから解放されたんですよ。
それからケガもずいぶんやりました。まず肋骨、それから右の手首、背中の肩甲骨、左手の親指も折っていますが、そういうときは、まずお医者さんやトレーナーにケガの程度を確かめてもらったうえで、自分自身で試合に出るかどうか決めていました。だから連続試合出場というのも、たまたま運よく条件が整っただけで、是が非でもという記録じゃないんですよ。とにかく野球がやりたい、やるためには何をしたらいいかと、その日々の積み重ねが、結果としてああいう記録につながっただけなんですね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2000年5月号より抜粋