この時代のパチンコで語っていないことに台間サンドや玉貸し機がある。


↑標準的な台間サンド


今はどうか知らないが、当時は100円玉にも両替できる店が多かった。徐々に最低500円に変わっていったけれども・・・

台間サンドも100円に対応していることがほとんどだったと思う。

フルーツパンチなど、デジタルが揃った時点で玉がないとやばい台を打つ時など、常に100円は手元に置いておいた。

だがしかし、珍しいことではないのだが、100円をサンドが受け付けずに落ちてきてしまうこともまた多かった。

100円玉をこすって再び入れる他の客の姿を目撃し、初心者だった自分は真似ていたものだが、ほんとにこすると受け付けることが多かった。

羽根物など出玉の少ない台は、100円玉をジャラーっと並べて打つこともあった。

100円や200円で当たることも結構多かったものだ。

余談だが、当時の機種は右打ちが必要な台でも、そのような説明が台の方からあることはなく、今考えるとものすごく不親切だった。

親切な店が台のガラスに「大当たり!即右打ち!」等と書かれたプレートを挟んでいた位だっただろうか。


また、この当時は台間サンドで借りた玉は、自分の手か箱で受け止めなければならなかった。


↑このように


100円ずつ玉を借りる場合は、余裕で打ちながら借りれるのだが、問題は500円玉を投入した時。

片手で500円分の玉を1回で掴み取ることはかなり難しく、玉を落としてしまうことしばしば・・・・。

ならば分けて取ればいいのだが、1回で取りきると、なんとなく嬉しかったのだ(笑)

また、箱を使ったり、両手で取るのはかっこ悪いと若い当時の自分は思っていた。

とにもかくにも、“500円分の玉をスマートに取る”ことは当時の課題であった(笑)


またこの台間サンド・・・現在(今はこのあたりのシステムも随分変わってきてるように感じるが)ならば、通常台間サンドは台の左側に全台付いているのが普通ではないかと思う。

しかし、当時はそうではなく、右側にしかなかったり両側にあったりとバラバラなことが多かった。

よって、右側に台間サンドがある場合、右手でハンドルを握っていると、手を交差させる形で左腕を右側に持って行って玉を取ったり、玉を取る間だけ左手でハンドルを握る等の工夫が必要だった。

また、隣の台と玉を借りるタイミングが同時になり、ボーリングの玉を投げる順番ではないが、「どーぞどーぞ」と譲り合う場面も多かったものだ。

特にアレジン等のアレパチは、通常時の賞球はほぼゼロだったため、こういうシマで玉を借りるタイミングが同じになると、その後も当たらない限りずっと同じになるということが起こりやすかった。


台間サンドの玉の出口も大きくは2パターンあった。

画像がなくて申し訳ないが、玉が出てくる筒状の物が、ほんとに筒状な物と、指をあてる突起がある物とあった。

玉を取りやすいのは断然突起のついた台間サンドで、これだと玉をこぼさずに取る成功率が高かった(笑)


さらに古い店になると、台間サンドが存在せず、玉を借りる時はいちいち立ち上がって両替をする感覚で玉を借りなければいけない店も存在した。




↑こんなやつ


記憶があやふやで正確ではないが・・・

熊本市の国道57号線東バイパスには、郊外型のパチンコ屋が通りに多く存在した。

かつて熊本には「大阿蘇」というパチンコチェーン店があったが、たくま大阿蘇という店があった。

この店に、上の写真と同じではないが、似たような両替機があったような気がするのだが・・・違っていたら申し訳ない。地元の人からツッコミがあるかもしれないが、お手柔らかにお願いします。

大阿蘇は、他に熊本市子飼と上熊本駅近くとサンロード新市街商店街内にもあったが、私が熊本市にいる期間にいづれも閉店した。

深夜のテレビ番組には、よくCMを流していたのだが・・・・。

東バイパスは、現在は片側3車線になっているようだが、自分がいる時は片側2車線だった。

自分がいる時も、よく渋滞のある交通量の多い通りだったな・・・・がゆえに、パチ屋も多かったのだと思う。


私がパチンコを始めた頃は、まだデータを店やメーカーが開示するということがなかった。

台の大当たり確率等は雑誌が専ら頼り。

その日の当たり回数などは、自分で見ておくかでもしないと分からなかった。

パチンコの場合は、まだ「釘」という絶対的に見える物があるし、また当時は今よりもずっと釘の重要性が高かったのでまだいいのだが、パチスロは一部の機種を除いて通常外からは設定の判別はできないし、データがないと何も分からない状態だった。

だが、パチスロのシマだけは多くの店で写真の物が採用されていた。



↑これ


ビッグボーナスの度に、店員が一枚めくる。

当時のパチスロは2号機がメイン。

4号機になるまでは、パチスロはビッグが終了したら店員を呼び、リセットしなければならなかった。

当たるたびに店員が台のところまで行かなくてはいけないので、その片手間にできたわけである。

唯一のデータ開示だった・・・今考えると、なんともアナログな世界で微笑ましくなる。


私がパチンコを打ち始めた頃は、まだまだ「エコ」や「節電」の概念は企業にはなく、夏はクーラーがガンガンに効いていた。

エアコンの風が直接当たるところで、寒くて震えながら打ったこともある。

私の場合、真夏のパチンコは長袖で行くようになった。


トータルして、まだ考え方がギスギスしていない、お店がやたらお客にペコペコしない、パチ屋に限らず世間一般大らかな時代だったと思う。

もちろん、そうであったがゆえに路上喫煙が当たり前にあったり、性差別など今よりももっとあり、それはおかしい!!と思えるようなことも横行していたわけである。