八百屋からスタート
私がまだ生れる前ですが、父は八百屋を営んでおりました。ある時店先に2〜3台、当時流行り出したパチンコを置いたところ、それが主婦や仕事帰りの人たちに人気があり、1台2台と増やしていくうちに店の半分がパチンコ店になりました。その後順調に規模を拡大して行き、パチンコホール「正ちゃん」として新しいスタートを切ることになったのです。
「それが昭和25年。だから尾頭橋店は創業してもう55年になりますね」
当時の尾頭橋商店街は名古屋でも有数の商店街で、多くの人々が集まっていた。周囲には『正ちゃん』以外にも数件のパチンコ店があり、仕事帰りの人々を中心に徐々に人気が浸透していき、パチンコは大人向けの娯楽としてすっかり定着した。規模は順調に拡大していき、会社も三高企業と、パチンコメーカーの三高工機(現(株)高尾)を立ち上げました。
「昭和28〜30年頃当時は今みたいに大型店ではなくて、小規模な店をたくさん出すスタイルが主流でした。
多い時は近畿から北陸に亘り、数店舗を有していたこともありました。まだ私が生まれる前か、幼少の頃の話で、今と違ってコンピュータで管理できないですからね。細かい所まで目が届かないし、だんだん名古屋中心でいこうということになりました」
その後、昭和42年には栄に自社ビルを建設、娯楽施設としてオープンさせた。
地下1階と1階はパチンコ屋にして2階と4階を麻雀、3階には当時としてはまだ珍しかったサウナの営業も始めた。
「名古屋場所の時期にはお相撲さんがサウナに入りに来たり、数々の芸能人も来たりしたんですよ」
社長の顔と職人の顔
「この仕事をしている時に、父がある日突然『お前、クギを覚えろ』と言ったんですよ」
当時はパチンコ台のクギを調整する職人、いわゆる『クギ師』が足りなかったという。
流しのクギ師が活躍する時代に、先代は自社でクギ師を持つことにこだわったそうだ。
「クギを始めたら面白くて仕方なくてね。知らない間に25年が過ぎてましたよ。今の若い社員が生まれるよりも前からになりますね(笑)」
苦労話も伺った。
「それでも最初は苦労しましたよ。神経を使う仕事ですから。クギの調整が売り上げを直接左右しますからね。出しすぎると商売にならないし、反対に閉めすぎるとお客様に楽しんで頂けない」
「宝物です」というクギの調整用のハンマーを見せて頂いた。使い込んだ黒檀の柄が年季を感じさせる。「クギの調整は今でもやっています」
社長というよりは職人の顔でクギの説明をして頂いた。面白くてたまらない、という感じの語り口についつい引き込まれる。
「でもいつまででもできるわけでもないですからね。後進も育てないと」
今では会議室に台を持ち込んで従業員の教育もしているそうだ。
地元に密着、ハートをキャッチ
台の入れ替わりは以前に比べて随分早くなったという。
「すべてはお客様のニーズですね。お客様に面白いと思って頂ければ長い間使うんですが早いものだと一週間で入れ替えるものもありますよ。お客様がつかない、というのは『面白くない』というシグナルですから。お客様に喜んでいただける台に替えなくてはいけません。営業的にもお客さまのつかない台を置いておくメリットはありません」
機械はどんどん進化していくし、また流行も移り変わって行く。それらに機敏に対応していくことが重要なのだろう。
「あとはアイデアの勝負ですね。どこだって機械は同じですから。特に下町で営業する場合は地域に密着することが大事。ハートをガッチリ捕らえて、ディズニーランドみたいにいかにリピーターを大事にするか、お客様の満足度を上げていくかだと思う。そういう店はやっぱりお客さんが入っている。努力してるんです」
また、これからは若い世代を育てることも必要だと語った。
「社会人としての教育から始まって、向上心を持ってハリのある仕事をできるようになってもらいたい。体力はありますからね(笑)。頑張ってもらわないと」
内ヶ島社長の優しい目は鋭く未来を見つめている。
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20年使っている仕事道具
SAM立ち上げの際頂いた竜の彫刻入りのもの。家宝です。
ゲージを使用してクギを調節します
プレイランド正ちゃん
プレイランド正ちゃんの店内は掃除が行届いておりとてもきれいです。
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