『沖縄映画興行伝説』 那覇市にあった映画館 PAGE:2(’50〜'51)

那覇市にあった映画館   PAGE:2(1950年〜1951年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1950年

沖縄劇場 (※沖縄戦後初の有蓋劇場)

Naha_OkinawaGekijo(50_03)net.jpg沖縄劇場:1950年3月31日? 写真提供/山里将人☆開館:1950年1月11日
☆改称『真和志沖映館』←『沖縄劇場』:1953年1月21日
◎場所:那覇市栄町(当時・真和志村)LinkIconMAP
◎経営主:真栄田義郎


戦後初の本格的有蓋劇場(木造)。こけら落としは大伸座(座長・大宜見小太郎)の芝居であった。

'50年3月31日、米軍政府が正式にアメリカ映画の輸入を認可したことを記念して「アメリカ輸入映画記念試写会」がこの劇場で行われ、『アメリカ交響楽』('45年ワーナー作品 東京公開:'47年3月)が公開された。写真はその当時の模様である。

ちなみにこの劇場があった場所の「栄町」という名称は、この劇場が開館した翌月の '50年2月12日(日)に誕生している。

琉球映画劇場〜大洋劇場 (※沖縄戦後3番目の有蓋劇場)

Naha_TiyoGekijo(rotten)net.jpg☆開館:1950年3月8日
☆改装(有蓋)・改称『大洋劇場』←『琉球映画劇場』
         :1950年9月6日
☆改称『大洋琉映館』←『大洋劇場』:1956年4月1日
★閉館:1970年(『大洋琉映館』として)
◎場所:那覇市神里原LinkIconMAP
◎経営主:山田義認〜大城鎌吉(琉映貿)


巡回映画で弁士として活躍していた山田義認氏が「神里原通り」に作った露天の劇場。こけら落としは『思ひ出の東京』('46年 監督・主演:鈴木伝明)で、入場料は大人20円・小人10円(B円)だったという。
開館して半年後すぐに、有蓋の劇場として改装し(沖縄で戦後3番目の有蓋劇場)、名称も『大洋劇場』に改める。Naha_TiyoGekijo(54_02)net.jpg大洋劇場:1954年1月頃 写真提供/山里将人

この劇場があった神里原は、「国際通り」ができるまでは県内一の繁華街だった。隣には沖縄戦後初の百貨店「マルキン・デパート」があり、この劇場もかなり賑わったと想像できる。

'50年の年末に設立された琉球映画貿易株式会社(琉映貿)は、第一回提供作品として、『處女宝』('50年1月新東宝・監督:島耕二)をこの劇場へ配給し、'51年2月18日に上映されている。
また、'53年10月24日には沖縄で初めてワイドスクリーンを設置している。


世界館 (※沖縄戦後2番目の有蓋劇場・コンクリートの劇場としては戦後初めて)

Naha_Sekaikan(50_09_17)net.jpg世界館:1950年9月17日 写真提供/山里将人☆開館:1950年9月1日(金)
☆改装・改称『國映館』←『世界館』
      :1955年8月31日(水)
◎場所:那覇市松尾LinkIconMAP
◎経営主:仲山興吉


「国際通り」のほぼ中央に、県内初のコンクリート有蓋劇場として華々しくオープン(有蓋劇場としては『沖縄劇場』に次いで戦後2番目)。こけら落としは「松劇団」「大伸座」「寿座」の三劇団による合同芝居で、演目は『姿三四郎』であったという。


Naha_Sekaikan_naibu.jpg世界館:内部 写真提供/山里将人映画興行は開館から約3週間後の9月19日に『蛇姫道中』(大映 出演:大河内伝次郎、長谷川一夫)の上映からスタートした。


Naha_Sekaikan(52_09_01)net.jpg世界館:1952年9月1日 写真提供/山里将人戦後で初めて巨大な映画看板を掲げた映画館で、街行く人々の目を引いたようである。
のちに國場組映画部がこの劇場を買収し、建物を大改造して『國映館』になる。

平和館

☆開館(露天):1950年6〜7月頃
☆正式開館(有蓋):1950年9月15日(金)
★閉館:1970年4月3日(金)
◎場所:那覇市牧志(平和通り入口あたり)LinkIconMAP
◎経営主:高良一〜宮城嗣吉(沖映)


『アーニーパイル国際劇場』に隣接してオープン。オーナーは『アーニーパイル国際劇場』と同じ高良一氏。
『アンヤタサ!』の山里将人氏の取材によると、9月15日に正式に開館する前の2〜3ヶ月間は露天の劇場で、映画も上映していたそうだが、その時期の新聞広告には『国際劇場』と表記されていたらしい。また、開館後は『アーニーパイル平和館』という表記で新聞広告が頻繁に登場する。
正式オープンの日の上映作品は『きけ、わだつみの声』('50年東横映画 監督:関川秀雄)。

'50年11月13日に沖縄で初めてカラーフィルムの映画(ノースウエスト航空のPR映画4本)が上映されている。
ちなみに、長編カラー映画の沖縄初上映は、'53年5月に『オリオン座』で特別興行が行われた『ピノキオ』('52年5月東京公開・RKO)で、山里将人氏のメモによると、'50年7月10日にカラー作品の『西部魂』('49年3月東京公開・CMPE)が『琉球映画劇場』(↑上の項目)で上映されたらしいが、当時はCMPEの意向でカラーをモノクロ・フィルムにして上映したらしい。

'52年頃には、字幕や吹き替え無しの洋画を輸入していた第一映画興行社の配給映画を上映していた時期があり、『Superman』('48年 主演:カーク・エイリン)や『Batman and Robin』('49年 主演:ロバート・ロウリー)など、セリフが理解できなくても楽しめるアクション映画に観客は釘付けになったそうだ。

'54年11月28日からは沖映の直営封切館となるが、隣接する『アーニーパイル国際劇場』はその3日後にオリオン興行の直営館になる。

「平和通り」の名は、この劇場の名称から由来している。

※参考写真:LinkIcon「那覇まちのたね通信/古写真アーカイブ」に掲載されている『平和館』の入口

首里劇場 (※現役最古の映画館)

Naha_ShuriGekijo(50nendai)net.jpg首里劇場:1950年代 写真提供/山里将人☆開館:1950年9月21日
☆別称?『首里オリオン座』:1954年〜1957年頃
◎場所:那覇市首里大中町LinkIconMAP
◎経営主:金城田光〜金城田真〜金城政則


演劇と映画を兼用した劇場としてオープンした。
'50年代は、沖縄の権威ある芸能コンクールが行われるほど、沖縄芸能文化の中心地であった。
のちに『有楽座』が登場するまでは、首里にあった映画館はこの1館のみだったらしく、沖映、琉映貿、オリオン興行、国映など、沖縄にあった各映画配給会社の映画を上映していたそうだ。ただし、琉映貿のチェーン館だった『有楽座』があった一時期だけ、琉映系列の映画は上映していない。Naha_ShuriGekijo(60_Summer)net.jpg首里劇場:1960年夏 写真提供/山里将人
映画が斜陽になった'70年代後半頃から次第に成人映画を上映するようになり、芝居も'80年代初頭に「でいご座」(座長:仲田幸子)の「母の日公演」を最後に行わなくなったという(調査中)。
現在は成人映画専門館としてそのファンらに支えられ、現役でフィルムを回し続けている。沖縄最古の映画館である。
建物には当時の名残があり、「沖縄の文化財産」としてずっと残しておくべきだという声も多い。


ShuriGekijo(90_05~06)net.jpg首里劇場:1990年5月頃 撮影/奈須重樹


開館から半世紀以上経った2007年5月5日、我ら「シネマラボ 突貫小僧」は、『突貫シアター Vol.6』として映画『探偵事務所5・マクガフィン』の上映を行った。また、2011年2月10日には、「シネマラボ 突貫小僧」と「しげなすレコード」の共同主催で『やちむん Live at 首里劇場』も開催。


首里劇場首里劇場:2007年5月5日(突貫シアターVol.6) 撮影/石田英範なお、この劇場は「首里オリオン座」という別称があったと思われる情報がある。
詳細は「那覇市にあった映画館 PAGE:3」の『首里オリオン座』の項目へ。

1951年

田原沖映館

☆新装開館:1951年3月24日(土)
★閉館:1965年9月?
◎場所:那覇市田原(旧・小禄村)LinkIconMAP
◎経営主:与儀一雄、上原正雄、上原新徳、上原重雄〜与儀一雄、赤嶺三郎


露天の劇場が有蓋に改装されて沖映のチェーン館として開館した映画専門館。こけら落とし興行は『浅草の肌』('50年大映 主演:京マチ子)で、2日間上映された。
小禄では『小禄劇場』に次いで2番目に政府の認可を受けて誕生した劇場であるが、有蓋劇場としては小禄で最初である。

この時期に沖縄に誕生した映画館は、露天に始まり、のちに有蓋になるというパターンが多いが、この劇場も御多分に洩れず、露天から始まったようである。これは当時のことを知る田原の方々からの「最初の頃は弁士がいて無声映画を上映していた」という証言から推測できる。

「うるくニッポン」という流行語が存在したことからも分かる通り、小禄は首里・那覇・真和志市民らから「田舎」として蔑視されていた場所だが、戦後に誕生した映画館の歴史をたどると、『小禄劇場』とこの『田原沖映館』はわりと早い時期に誕生している。これは皮肉なことに、土地の7割を米軍基地として強制接収されたことに起因すると思われる。広大な米軍基地ができたことで、電気のインフラ整備が早く整ったのである。
映画館は電気が不可欠である。この映画館の誕生も、経営者の与儀一雄氏らが沖縄配電(後に沖縄電力へ統合)の北発電所を手がけていたことが要因となった。
ただし、もう一つの大きなキッカケがある。当時の沖縄で映画配給を行っていた沖映の社長・宮城嗣吉氏である。彼は琉球映画フィルム輸入協会の会長として戦後の沖縄映画興行界を先導し、空手家“スヤーサブロー”として名を馳せた名実業家。『田原沖映館』の経営者・与儀氏は戦前、那覇港近郊で製氷業を営んでいたのだが、宮城氏の父親が高熱を出して寝込んだ際に無償で氷を提供したことがあり、宮城氏は与儀氏に恩義を感じていたらしい。戦後になって沖縄映画配給株式会社(沖映)を立ち上げた宮城氏から誘われて、与儀氏らは字田原に沖映直営の映画館を運営することになったのである。

この劇場の誕生には当時弁士として有名だった山田義認氏も一役買っている。山田氏は戦後すぐに映画の巡回興行を行い、映写機とフィルムを持って全島各地を回っていた。『田原沖映館』になる以前の露天時代に無声映画を上映していたのもおそらく山田氏であろう。この劇場の映写技師をやっていた与儀清一氏と赤嶺清栄氏の証言によると、映写機の扱いは山田氏から学んだそうだ。

この映画館があった頃を知る方々からは「田原劇場」とか、「田原国映」と呼ばれる場合あがあるが、正式名称は『田原沖映館』である。前者はおそらく露天時代の名残で、後者はのちに国映系が配給する映画を上映するようになったことによる勘違いだと思われる。

興行的には美空ひばりモノや力道山モノの映画がよく当たったらしい。沖映が配給権を持つ松竹映画の力道山出演作品は、'54〜'55年に集中しており、その頃の邦画は東京の初公開から半年から1年ほど後れて沖縄の地方館で上映されることが多かったので、'55〜'56年頃が『田原沖映館』の全盛期だったのだろう。

当時は数百先に広大な米軍基地があったにもかかわらず、米兵がこの劇場に映画を見に来るようなことはなかったという。これは、沖映が邦画(大映・松竹)を提供していたところに起因すると思われる。

'60年代に入るとテレビの普及により、それまでの観客動員を見込めなくなり、国映系やオリオン系の映画を上映するようになる。
この頃になると糸満市の映画館と掛け持ちで同じプログラムを上映することもよくあり、その際は近所の子供たちにお願いして定期バスによるフィルムの運搬を行ったそうだ。子供たちにはお駄賃を渡さなかったらしいが、映画がタダで見られるということで喜んでフィルム運搬を引き受けたという。

'65年3月、沖映が自らの映画配給権(大映・松竹)を琉映貿へ譲渡し、映画の配給を取りやめる。それに準じて、『田原沖映館』も閉館への道を歩むことになる。
閉館した日付は不明だが、「琉球新報」の'65年9月5日号の「きょうの映画」に上映情報(『美しさと哀しみと』『背後の人』)を載せたのを最後に、資料では見あたらなくなっている。


なお、開館後しばらくの間、新聞に掲載される経営代表として上原重雄は、糸満市にあった『新世界館』の経営者と同姓同名の別人だということが分かっている。

沖映本館

Naha_OkieiHonkan(52_06)net.jpg沖映本館:1952年夏 写真提供/山里将人☆開館:1951年10月1日
☆改装・増設『ニュー沖映』
   :1956年3月9日
★閉館『ニュー沖映』:1966年6月21日
★閉館『沖映本館』:1977年11月27日
◎場所:那覇市牧志LinkIconMAP
◎客席:1600席
◎経営主:宮城嗣吉


沖縄の映画配給の大手「沖映」の宮城嗣吉氏、東京の映画界に顔の利く崎山喜昌氏、そして国場組の國場幸太郎氏の三者が手を組んで立ち上げた映画館。ところが間もなくして、諸々の事情により国場組がこの劇場運営から手を引いている。
こけら落としは日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』('51年松竹 監督:木下恵介)。
収容数1600人を誇る大きな鉄筋コンクリート2階建で、シャワーや宿泊施設も完備していたそうだ。

Naha_OkieiHonkan(56?)net.jpg沖映本館:1956年秋頃? 写真提供/山里将人'55年10月に建物の改築工事を着工、その翌年に『ニュー沖映』を増設した新しい建物が誕生している。

開館当時は目の前にガーブ川が流れていたが、'68年に川の上に蓋をするように道路が完成。その通りは「沖映通り」と呼ばれるようになった。

'65年3月、宮城嗣吉社長は「大映」と「松竹」の配給権を琉映貿に無条件で譲渡。『沖映本館』は演劇専門の劇場に改造されて、'77年11月に芝居の自主公演を止めるまでウチナー芝居を支えた。

'80年代後半にパチンコ店になったが、'90年代末に閉店。現在は駐車場になっている。
Naha_OkieiHonkan(00_09_27).jpg沖映本館跡:建物解体直前 2000年9月27日 撮影/當間早志

大宝館

Naha_Taihokan(53_02)net.jpg大宝館:1953年2月頃(火災の数週間前) 写真提供/山里将人☆開館:1951年10月3日
☆火災:1953年2月23日
☆興行再開:1953年4月16日
☆冷房設置:1961年8月22日
☆改装・改称 『沖縄東宝劇場』←『大宝館』
      :1963年12月24日
◎場所:那覇市牧志(現・沖縄三越)LinkIconMAP
◎経営者:大城鎌吉(琉映貿)→國場幸太郎(国映)


現「沖縄三越」の場所にあった琉映貿直営の映画館。開館当初は正面向かって右側にバスターミナルがあり、翌年には屋上にビア・ホールもできたらしい。

'53年2月23日、『ハワイの夜』上映中にフィルムが燃えて火災が発生。劇場のアトリエの一部が焼失し、琉映貿の事務所が全焼する。4月16日に上映再開。


Naha_Taihokan(54_01)net.jpg大宝館:1954年1月 写真提供/山里将人オーナーは沖縄の実業家の大城鎌吉氏で、「沖縄三越」の前身にあたる「大越百貨店」('57年8月創業)も彼が設立した店舗であったが、上記の火災の後から『大宝館』の興行不振が目立つようになり、この劇場の経営権は '54年7月に國場組へ移る。
これが國場組の映画興行界参入のキッカケとなり、間もなく國場組映画部が発足、国映系という配給ルートが出来上がっていった(國場組映画部は '56年独立)。