ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




名曲喫茶 ウイーン。千代田区神田駿河台2-4。1985(昭和60)年7月7日

先日、当ブログの『中央大学駿河台キャンパス』に道草亭ペンペン草氏からコメントを頂いた。その中で喫茶店のウイーンに言及されて、ネットではサンロイヤルと混同されていることがあるのを嘆いている。ウイーンの写真は撮っていたので、改めて眺めてみたら、ぼくも勘違いしていたことが分かった。というわけで、早速「名曲喫茶ウイーン」(「ウィーン」と表記するのかもしれないが、あえて)をアップしてみた。
現在「ウイーンビル」は建て替えられていて、それがいつのことなのか分からない。『復刻版>名曲喫茶「ウィーン」』のコメントに「ウィーンが潰れた昭和60年」とあった。撮影後じきに閉店したようだ。開店した年代は分からない。1969(昭和44)年の住宅地図に「喫茶ウイーン/バーニューウエル」で出ている。


名曲喫茶 ウイーン。1985(昭和60)年7月7日

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財務省。千代田区霞が関3-1
上:1986(昭和61)年8月17日
左:1987(昭和62)年1月1日

大蔵省が財務省に名称変更されたのは2001年(平成13年)1月6日。写真はその15年前で、大蔵省だった時のもの。この建物は近代建築としてはあまり注目されない。外観が地味で目を引く要素がこれといってないからだろう。『日本近代建築総覧』の記載は「大蔵省、千代田区霞ヶ関3-1、建築年=昭和14年、SRC8(SRC5地下1の間違い?)、設計=大蔵省営繕管財局、施行=大倉土木、○(おすすめ品)」。中庭が2つある日の字型平面の大きな建物だ。
大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ』には、建物の工事の経過、大蔵省が建物を使うようになるまでどこで業務していか、建物を利用した省庁、といったことが割と詳しく述べられている。以下、このサイトよって建物の沿革を概括してみる。

大手町にあった大蔵省の庁舎が関東大震災によって焼失した。大蔵省によって各省庁の庁舎がRC造で建て直されていくが、大蔵省は1940(昭和15)年まで仮設のバラックのままだったという。霞が関の現在地に建設が決定したのが1934(昭和9)年、翌年には土台工事を開始。日中戦争が始まって1939(昭和14)に工事は中止と決まるが、工事を進めて1940(昭和15)年6月に仮竣工した。ただちに仮庁舎から引っ越しが行われたが、内装工事は続けられた。1942(昭和17)年には防空対策として屋上に厚さ45cmの耐弾層を設けている。壁のタイル貼りや修飾部分を省略して建物が完成したのが1943(昭和18)年7月。
戦後はGHQに接収されて、解除されたのは1955(昭和30)年12月。その間、四谷第三小学校を借りていた。戻ってきた庁舎はGHQによって改造されていたので、復元して四谷庁舎から引っ越しできたのが1956(昭和31)年3月31日。
それ以降の主な改修は、1961(昭和36)年になって耐弾層を撤去。1962-63(昭和37-38)年に外壁をタイル張り(250万枚)に。1967(昭和42)年、設備棟新築、暖房設備設置。1968(昭和43)年、冷房設備設置。1978(昭和53)年、庁舎西側の 4階及び 5階部分に鉄骨造の事務室を増築。

高層ビルに建て替える計画が2007年に出たが、2011年の東日本大震災復興のための増税案もあり、国民感情を考慮して耐震改修で済ませている。一般には財務省=国税庁という認識だから、血税で贅沢な庁舎を造るとは! と言われたくないのだろう。それより、戦時中・戦後の大蔵省職員の苦労は大変なものだったに違いない。

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みみずく家の並び。文京区後楽2-7。2001(平成13年)9月1日

みみずく家は写真左奥の、神田川沿いの通りとの角にあるタバコ屋。飯田橋から神田川沿いに北へ少し行って隆慶橋(りゅうけいばし)を渡った向かい側である。立派な広告塔が目を引いて名所のようになっていたと思う。『神楽坂散歩>みみずく屋』によると、「江戸東京の神田川」からの受け売りとして、「大正4年に日本で初めてタバコ小売所として認可を受け、店主は以後業界のリーダーとして活躍、昭和33年にタバコ販売業界としては初めて黄綬褒章を受けたという」とある。また、『落合学>なぜかミミズクが目につく神田川べり』には、みみずく家の由来を、初代が大のミミズク好きで、店中にミミズクの置物を置き、印鑑家紋もミミズクにしてしまい、いつしか客が「みみづくや」と呼ぶようになって、それを屋号にしてしまったのだそうだ。
上の写真ではみみずく家の並びに「戦後の看板建築」が並んでいる。昭和20年代に焼け跡に建てられたものかと思う。写真に写っている文字と1986年の住宅地図から推定して、右から「中華料理・後楽、居酒屋・やぐら/大久保理髪店、居酒屋・和かな/とんかつ・かつ喜、喫茶・珈琲党、雨宮煙草店(みみずく家)」。
写真の一角は再開発により2007年中には取り壊され、「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(2007.09着工2010.04竣工、34階地下3階建)という超高層ビルに替わった。

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高田爬虫類研究所
文京区弥生2-20
2005(平成17)年4月20日

根津小学校の南、異人坂の下を通る細い道に「高田爬虫類研究所」があった。建物は屋上があるのでRC造2階建だろうか。奥行きはあまりない。1969年の住宅地図に、裏の家に「高田」とあるので、今ある裏の3階建のマンションのようなビルが住居だったのかもしれない。ストリートビューを見ると、2014年まではあって、2015年には取り壊されて駐車場になっている。現在は沖縄に「DINODON高田爬虫類研究所」があって、そこに移転したというこらしい。
『ウィキペディア>高田榮一』によると、高田榮一(1925-2009)は「へび博士」として知られ、1960年頃に自宅に「高田爬虫類研究所(爬虫類友の会/高田爬虫類研究所/高田動物生態研究所)」を創設したという。いつもニシキヘビを首に巻いていたらしい。
谷根千 其の二』に、研究所を訪問した記事が載っている。
團伊玖磨の『パイプのけむり』に高田氏と研究所のことが記してあった。内容をメモしておいたのだが、どこにメモしたのか分からなくなって紹介できないのが残念だ。

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根本眼科医院。千葉県松戸市松戸1795。2005(平成17)年1月25日

松戸駅の西を南北に通っている県道5号=流山街道(旧水戸街道)の、春雨橋の南の路地を西へ入ったところにある家。今は廃墟としか見えない。和様の民家のようだが洋風な感じも受け、建った年代もよく分からない謎の建物だったが、『 Deepランド>【松戸】……根本眼科』によってこの家の正体が知れた。
当サイトによると、松井天山が昭和5年に描いた松戸の鳥瞰図に「根本眼科医院」とある建物。写真左端の2階建のビルは「松戸印刷所」で、これも鳥瞰図に載っている。当サイトでは外から細かく建物を観察していて、玄関の柱の下部がレリーフを施した洋風の石柱であること、柱の上部に「保健医療機関」の楕円形の鑑札が付いていることなどをちゃんと見ている。
『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房、2005年、1905円)によると、「この路地は河岸道で、今なお残る古い建物の根本眼科や大塚印刷所がある。根本眼科は江戸期の大地主。松戸で初めての医学博士だった。」とある。大塚印刷所は「納屋河岸」の解説にある松戸印刷所が「大塚姓」と述べているので同じものだろう。



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辰巳理髪店。千葉県松戸市松戸1761。2008(平成20)年2月28日

左右の通りが県道5号=流山街道(旧水戸街道)で、松戸駅入り口から南へ500m程の宮前町(みやまえちょう)交差点。角が「辰巳理髪店」、右に「ユウトオートサービス」、後のビルが「イセウ第二ビル」。
『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房、2005年、1905円)の「昭和12年の家並み図を作る」では、理髪店は「嶋屋履物店」で、いつ頃替わったのか分からない。建物はかなり古そうに見えるが案外戦後のものかもしれない。2009年7月のストリートビューではユウトと共に取り壊し済み。今は駐車場だ。
イセウ第二ビルは果物屋の伊勢卯商店があった場所。マンションで、撮影時にはすでに何年も前から閉鎖されていた。2017、18年になってやっと解体され、2022年に「セインコート松戸」(2022年4月築、3階建、12戸)が建った。

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東急レストハウス。神奈川県藤沢市鵠沼海岸。1956(昭和31)年9月

「1955年(昭和30年)、神奈川県は湘南海岸砂防事務所に公園整備事業を加え「湘南海岸整備事務所」に発展させて、1957年(昭和32年)11月には特許事業方式(民間施設活用)の県立湘南海岸公園計画を告示した。告示以前から鉄道会社による東急レストハウス、小田急ビーチハウス(いずれも1956年)が建設されていたが、告示後には小田急シーサイドパレス(1958年)などが特許事業として続々と建てられ、斬新なデザインを競い合うこととなった。」(ウィキペディア>鵠沼海岸)
東急レストハウスの開業は1956年7月1日で、写真はそれから間もない頃になる。建物は円形のレストランの後に長方形の部分が伸びている形。駐車場などはまだ整備途中のようだ。写っている人物はぼくの叔母と弟。
当時僕の家はレストハウスの目の前にあった。自分の住んでいるところが観光地とは思わないので、レストハウスや小田急ビーチハウスのような建物が建つのが不思議だった。砂山がならされて景観が変わっていくのを眺めていた。1959年に東京へ越してしまったのでその後の鵠沼海岸の様子は知らない。

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