ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:三原橋地下街北側入口。右:食事処 季節料理 三原。中央区銀座4-8
2013(平成20)年5月19日(1~6枚目とも)

銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』によると、東京都が戦災残土の処理のために三十間堀川等の河川を埋め立てることを決定したのは1948(昭和23)年3月末。4月には埋め立て工事が始まり、三十間堀川は1949年に埋め立てが完了した。この時、晴海通りに架かる三原橋は撤去されずに残された。都電が通っていたからという説が有力で、妥当だと思える。GHQが露天整理令を出したのが1949年8月。三十間堀川の跡に銀座館マートなどを建てて露天商の換地としたが、三原橋の下も活用しようとしたのだと思う。三原橋地下街の原型ができたのは1951(昭和26)年。
三原橋は1929(昭和4)年に架け直された3径間鋼桁(連続桁)というタイプの、長さ30.2幅36.0m(中央区内の橋めぐり/旧・三原橋)の震災復興橋。3径間の中央の桁の下を通路に、東側の桁の下に「テアトルニュース」という映画館、西側の桁の下に「三原橋地下街ゲームセンター」というパチンコ屋がまず入ったらしい。
1953(昭和28)年8月に三原橋センター(地上の2棟)が竣工し、1954年には撤退していたパチンコ屋の跡に「銀座東映」が開館する。飲み屋などが開店するのもこの頃のことだろうか。1967(昭和42)年10月、テアトルニュース跡に「銀座地球座」が開館しポルノ映画を上映するようになる。1968年9月には銀座東映は「銀座名画座」と変わり、こちらもポルノ上映館になる。1988(昭和63)年名画座・地球座は「銀座シネパトス1・2・3」の3館体制で一般の映画をかけるようになった。2013年3月3末に閉館。



左:季節料理 三原。右:おでん小料理 一柳。一柳の看板に「味は一流 名は一柳」とあるから店名は「いちりゅう」と読むらしい。一柳の右は「ギフトショップ(大人のおもちゃ)アラジン」。アラジンになる前は立食いそば・うどんの「相模屋」だったらしい。オレンジ色の壁は「牛かつ(ぎゅうかつ、メンチカツ・コロッケ)」、その右は「かごっま料理 おごじょ」。



左:映画館のポスターが並んでいた西側の壁。右:カレーコーナー三原、理容室 遠藤。カレーコーナー三原は1964(昭和39)年の開業という。小さな表札は「三原カレーコーナー」となっている。




左:地球座と名画座の看板。1987(昭和62)年5月24日
上:南側の階段。2000(平成12)年1月18日

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三原橋センター。中央区銀座4-8
2013(平成20)年11月5日

銀座と木挽町の境になっていた三十間堀川は、戦後、戦災残土を放り込んで埋め立てられた。しかし、晴海通りを渡している三原橋は残された。理由はよく分らないようだが、撤去が難しかっただけかもしれない。下の資料では都電が通っていたからかも、とある。
ネットで『銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』というレポートが読める。それによると、橋の地下部分は1951(昭和26)年に完成した。一度埋められた橋の下を掘り起こしたのだという。露天商の移転先の問題が発生したからだろうか。1951年12月頃、地下にニュース映画館(昭和30年頃の火保図に「テアトルニュース」と「銀座東映」の記載)ができた。露天商は「銀座間マート」に収容されたという。1953年8月31日に2棟の「三原橋センター」が土浦亀城の設計で完成した。
取り壊しが決まって、2013年頃から店の退去が始まり、2014年4月末で全店が退去、5月には取り壊しが始まった。なにができるという計画はないという。



三原橋センター北棟の裏側。2013(平成25)年5月19日

設計者の土浦亀城(つちうらかめき、1897-1996年)は、ライトの弟子だったが、1935年の土浦亀城邸はモダンデザインの住宅。以後、モダニズム風の作品が多い。三原橋センターも横長の大きい窓などがかっこいいと思って見ていたが、窓は後の改修によるものだった。『 aki's STOCKTAKING>三原橋・銀座/傳八』によると、1987(昭和62)年に「傳八」が開業するとき、Aki氏が店内を設計したが、同時に窓枠も新しくしたという。元の窓は細い壁の間に縦長の4枚のガラスがはまったもの。
南棟のほうは表側の写真を撮っていない。いつ頃からか南棟の2階はパネルで隠されてしまっていて、撮影しようという気にならなかったらしい。パネルの裏には建築時の窓が残っていたのかもしれない。

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今泉ビル。中央区銀座1-14
1988(昭和63)年3月6日

昭和通りの新京橋交差点の一つ南の横丁を西に入ったところ。写真左端の「中村ビル」が昭和通りとの角にある。1986年の住宅地図は左から、中村ビル、今泉ビル、銀座ウイングビル、煉瓦亭、第二サトウビル。
今泉ビルはスクラッチタイル貼りのように見えて、戦前築の建物かと思えるのだが、昭和10年頃の火保図には載っていない。昭和30年頃の火保図では「車庫 今泉ビル 共同石油 新生商事(コ)(四)」とあり、1階の大きな開口部は車庫で、共同石油が入居していたと分る。
現在は中村ビルと今泉ビルが「プレリー銀座ビル」(2003年築、12階建)という賃貸オフィスビルに替わった。
看板が小さく見えるだけの煉瓦亭は、有名な銀座三丁目の店とは別。『バンド・オブ・トーキョー☆>銀座「煉瓦亭IS銀座一丁目店」のナポリタン』によると、「煉瓦亭IS(アイエス) 銀座一丁目店」で、煉瓦亭の暖簾分けを受けた新富町の煉瓦亭アイエスの支店、ということだ。2009年10月27日で閉店した。

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電通銀座ビル。中央区銀座7-4
2008(平成20)年11月5日

今は大分減ってしまったが、銀座にある戦前に建てられたビル。1933(昭和8)年竣工、設計は横川工務所、施工は大林組、RC造8階建地下2階。大震災の復興が一応なった後の建築になるためか、これという特徴のない普通の外観だ。玄関に近寄って吉祥天と広目天のレリーフに気がつけば、あれっ、となるくらいだろうか。1階の壁に(窓なのかもしれない)ガラスブロックが使われているのが珍しい。2階以上の窓はガラスが3枚の横長の形で、シカゴ窓というのだそうだ。真ん中の大きいガラスが固定で、左右の窓は上げ下げ窓。
電通はこのビルを1967年まで本社として使った。このビルを建て替えないのは、会社の出発点として、よりどころのように思っているのだろうか。建て替えてもたいして床面積は増えないと踏んでいるような気もする。

「電通」は電気通信から来ているのかとなんとなく思っていたが、「電報通信社」からだった。1901(明治34)年に光永星郎(みつながほしお)は「日本広告株式会社」という広告代理店を創業し、次いで本当はやりたかった通信社を設立、その2社を1907(明治40)年に合体して「株式会社日本電報通信社」として通信と広告の両方をやるようになったらしい。その頃は通信手段として電報が大きい地位を占めていて、無線通信も電話も軍隊が使うくらいだったのかもしれない。
現在の電通がどういう業務をしているのか、想像しがたい。広告そのものの業務はごく一部ではないかと思う。1936年、「同盟通信社」が出来て電通が広告代理業に専念するようになってから昭和30年代までなら、広告代理業がどういうものか想像が付く。新聞雑誌ラジオの広告を広告主からメディアに仲介するのだろう。今は電通のHPには「顧客と社会の持続的成長に貢献する統合ソリューションを提供」するとしている。なんでもするように聞こえる。

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大倉山記念館。横浜市港北区大倉山2-10。2000(平成12)年1月26日(5枚とも)

住所の大倉山は、太尾町(ふとおちょう)だったのが住居表示の変更になった2007(平成19)年11月からで、つい最近決まった住所だ。東急東横線の大倉山駅や、記念館のある丘の名称として聞きなじんだ地名なので、一般に分りやすいと思われたのと、やはりかっこいいからだろう。記念館の旧住所は太尾町706。
「大倉精神文化研究所」として1932(昭和7)年に建った建物。研究所は1981(昭和56)年に運営が難しくなって横浜市に土地を売却、建物を寄贈した。1984(昭和59)年に「横浜市大倉山記念館」として開館した。研究所は記念館内に存続している。




ネットなどでは出てこない資料と思われるので、『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版・かもめ文庫、昭和58年、630円)の「大倉精神文化研究所」の記述を紹介する。

 大倉山の丘の上に建つこの特異な建物は、着工後3年かかって昭和7年に実業家・大倉邦彦によって建造された。
 洋紙業で成功した大倉は、学問の世界にも情熱を注ぎ、東西文化の融合に意欲を示した。そして私財を投じ、学問・信仰・修行を合致させた研究機関として、「日本文化の精髄を発揮し進んで世界文化に貢献」することを目的とし、「弘く世界史を貫く人類文化の普遍的意義に通暁すると共に深く我が国の精神文化を請究する」ために財団法人・大倉精神文化研究所を設立した。
 大倉は研究所設計を、長野宇平治に依頼した。ロマン主義の作風から出発したこの建築家は、数多くの銀行建築等を手掛けて古典主義に傾いていた。そしてプレ・ヘレニズムと称される様式で、この研究所をまとめ上げた。
建物は、全体的にはヘレニズム様式を基調としながら、その細部に神社、仏閣、古紋様の意匠を配するなど、建築主の意図をよく帯しており、ギリシャ神殿風の正面入り口と塔屋部をもつ中央館の両側に東・西館がつながり、殿堂、道場を配し、書庫、研究室もある。
 外装には千歳石を用い、銅板棒葺の屋根を架けている。
 創設以来、戦前・戦後を通じ財団の研究所として用いられているが、昭和56年4月に横浜市へ土地を売却、建物を寄付し、建物が存続する限り永久使用の契約を交わしている。その結果、土地は横浜市緑政局、建物は同都市計画局が管理し、その一部を財団法人・大倉精神文化研究所が使用している。
設計:長野宇平治、施工:竹中工務店、竣工:昭和7年4月(1932)、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上3階建

建築様式は今では「クレタ・ミケーネ文明の様式」としたほうがいいようだ。パルテノン神殿は紀元前438年だが、クレタ島のクノッソス宮殿はそこから1000年遡る。



「精神文化」というとなにやら怪しい気分がしなくもないが、辞書にある「学術・思想・宗教・哲学・道徳・芸術など、精神活動によって生み出される文化の総称。→物質文化」(大辞泉)と受け取っていいようだ。研究所のHPによると、設立の趣旨は「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」ことを目的とする、とある。精神とは日本精神をいうようだが、大倉の著作も読まないでは確かなことは言えない。研究の方法としてまず、本を集めて図書館を造ることをしているのは、合理的に思える。
「東西両洋」の考えは、大倉邦彦が上海の東亜同文書院に学んだことが大きく関わっていると思う。1906年にそこを卒業すると大倉洋紙商工の天津出張所に就職する。中国語の技能が買われたのだろう。大倉洋紙店の社長になれたのもきっかけは東亜同文書院といえる。
大倉は1926年に図書館の建物を見るために世界一周する。そのときヨーロッパの西洋建築についての造詣を深めたのかもしれない。「マンガで学ぶ大倉邦彦物語」にはサグラダ・ファミリアの前に立つ大倉の1コマがある。

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問屋橋交番、黒川商店。中央区日本橋久松町3。2004(平成16)年2月7日

浜町川は1950(昭和25)年には神田川の合流点から小川橋(金座通り、久松警察署のところ)まで埋め立てられ、露天商の換地になって小さな家が建ち並んだ。『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)の記述は当ブログ前回の『問屋橋商店街』で紹介したが、そこの「蛎殻町グループ」というのは新大橋通り沿いに出店していた露天商を指すのではないかと思う。千代田区側の埋立て地は○○会館と言った集合建築が建ったのに対して、中央区側では、通り(西通り)側と、その裏側(浜町川西際)との2列に個々に家が建っていった。裏側の路地の商店は「問屋橋商店街」を形成したが、最近になってマンションなどに建て替わってきて、商店街の実態はすでになくなった。
写真は問屋橋商店街の問屋橋から栄橋の間。



左:夢幻の月、2011(平成23)年3月25日
右:上田印房、グーグル地図ストリートビュー(2010年1月)より

左写真手前の家は黒川商店との2軒長屋だったのを、黒川商店を取り壊して駐車場にしていた。「夢幻の月」の看板を出しているのは菓子店だろうか。小豆色の日よけに「夢幻の月」の字を入れているからそれが店名だったらしい。奥のサッポロビールの看板は「家庭料理 者那」。「はな」と読む。
栄橋側の角は「上田印房」。昭和30年頃の火保図に載っている。埋立て地に家を立てて以来2010年までは変わらない外観を保ってきたと思われる。
2021年になって、日本橋久松町3にあった建物は交番を除いて取り壊された。12階建マンションの建築計画告知板が出ている。

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松月堂パン店。中央区東日本橋3-1。左:2011(平成23)年3月25日、右:2016(平成28)年4月23日

写真の路地は浜町川を埋め立てた跡で、千鳥橋と問屋橋の間になる。写真のように小さな飲食店が立ち並んでいたが、路地の東側が2016年にまとめて取り壊され、西通りの小さなビルなどと共に「パークホームズ日本橋橘町」(2020年10月築、13階建80戸)というマンションに建て替わった。「橘町」は現在の東日本橋3丁目の旧町名で、1971(昭和46)年に現行住居表示になった。
上左写真で「おひげ寿司」があるのは日本橋富沢町になる。同写真で松月堂は店頭にテーブルを出して弁当を売っている。右写真で松月堂の看板の右が居酒屋の「ふる里」。




パリドール、寿司留。東日本橋3-1
左:2011(平成23)年3月25日
右・下:2016(平成28)年4月23日

1枚目写真の奥へ移動して撮った写真。左写真の手前の店は、ガラスドアに「自家焙煎珈琲工房/カフェ・パリドール」の張り紙がある。寿司留の右は「おとうふ」の幟を出している。「栃屋」という豆腐屋らしい。昭和30年頃の火保図に「留すし|豆腐」の記載があるから建物を建てて以来、変わらずに続いてきた2軒なのだろう。

写真の路地は南へ、久松小学校の通りへ出るまで続いていて「問屋橋商店街」というそうだが、今はすでに消滅したといっていい。『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)には、「(浜町川の埋立て地の)中央区側では人形町から水天宮交差点にかけて並んでいた露店業者が別の蛎殻町グループと合同で橘町、久松町にかけて94店が入居する長い連鎖式マーケットを建設、「問屋橋商店街」と命名して営業した。……」とある。

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いとへん会館。千代田区東神田1-1。2007(平成19)年1月4日

浜町川を埋め立てたところに建てられた繊維問屋が入居する長屋式の建物。写真右手前には「橋本会館」があった。いとへん会館も橋本会館と同じく昭和27年頃に建てられ、神田の露天商が移ってきたものと思われる。『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)では、「連鎖式店舗」といっている。浜町川跡には神田の露天商を収容する連鎖式店舗は10棟ほどがあったらしいが、現在も残っているのはこの1棟のみ。
左右の道路は神田金物通りの南の裏通りで、浜町川には橋本橋が架かっていた。橋本町(1934(昭和9)年に東神田に改名)からの名前で、橋名から橋本会館と名付けられたのだろう。
写真右の緑は龍閑児童公園。公園の中央辺りから南西に通っている路地が龍閑川の跡で、いとへん会館の後が浜町川との合流点だった。写真左奥のマンションは「パレステュディオ神田EAST」(2004年1月築、8階建70戸)で、「結(むすび)会館」が建て替わったもの。



いとへん会館。2004(平成16)年2月7日

店舗は左から、西田衣料(スラックス、スカート)、丸徳繊維、佐藤商店(ユニフォーム、鳶衣装)、島田メリヤス(メリヤス、ランジェリー)、郷(かけそばや)(1枚目写真ではさぬきうどんの賞讃神田店)、マルシン。現在も営業しているのは丸徳繊維だけのようだ。

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橋本会館。千代田区東神田1-1。2004(平成16)年2月7日

戦後、浜町川を埋め立てて建てられた、主に繊維問屋が入居する建物。木造2階建てと思われる。2棟の同じような建物が南北に並んでいて、南側のほうには建物の角に建物名称が書かれている。北の方もほぼ同じ造りなのでこれも橋本会館としておく。
協和会館』で述べたように、「神田須田町、小川町の靖国通り沿いの繊維関係の露天業者が橋本会館、大和会館、繊維会館を建設して1952(昭和27)年に移転した」(『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)。
2011年頃に取り壊され、「ウィルローズ小伝馬町」(2014年2月築、14階建50戸)というマンションに替わった。



橋本会館。写真右端のグレーの壁面は「協和会館」。間の路地に裏側にある「理容スター」の看板が掛かっている。2011(平成23)年3月25日



橋本会館の裏の路地は浜町川の西の河岸で、倉庫などが建っていたところかと思う。「栗田布帛印刷所」があるのが橋本会館の南の棟。奥の軒が低いのが北の棟になるのかと思う。居酒屋の「よねやま、かめや、金時、みすゞ」に「あやめ寿司」と、ほとんど飲み屋街。2011(平成23)年3月25日



理容スター。北の棟の北の角にあった理髪店。2008(平成20)年9月1日

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協和会館。千代田区東神田1-1。1987(昭和62)年4月5日

戦後、浜町川が埋立てられ、その上に繊維問屋が入居するいくつもの長屋のような、あるいはアパートともいえる2階建ての細長い建物が建った。○○会館という名称が共通している。今残っているのは「いとへん会館」1棟だけと思われ、他はマンションなどに建て替えられた。「協和会館」は神田金物通りを挟んで2棟あったが、写真は南側のもの。

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(藤木TDC著、実業之日本社、2016年、2640円)に、建物の成立事情が書かれているので紹介する。
事業は東京都建設局が1948(昭和23)年に開始した。すると露天商の撤去問題が発生し、浜町川の埋立て地を代替地に当てることになったらしい。神田須田町、小川町の靖国通り沿いの繊維関係の露天業者が橋本会館、大和会館、繊維会館を、そして神田駅東口前、鍛冶町の業者は協和会館、クラカケ会館を建設し、1952(昭和27)年に移転した。




協和会館。2004(平成16)年2月7日

協和会館はグレーの壁面までで、クリーム色の壁は橋本会館という別の建物。間に路地が通っている。
現在は橋本会館と共に、「ウィルローズ小伝馬町」(2014年2月築、14階建50戸)というマンションに替わっている。また、神田金物通りの北側の協和会館(東神田1-6)は最近まで残っていたが、「ルネサンスコート秋葉原」(2021年2月築13階建24戸)というマンションが建った。

左の写真は『goo古地図・昭和38年航空写真』に浜町川跡に建った衣料問屋の建物名を加筆した。

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