ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




早稲田大学會津八一記念博物館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日(3枚とも)

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学2号館(図書館)、所在地:新宿区西早稲田1-6-1、建築年:大正14(1925)年、構造:鉄筋コンクリート3階建、設計者:今井兼次(早稲田大学営繕課)、施工者:上遠組」。図書館として建設されたが、1991年(平成3年)に安部球場跡地に早稲田大学中央図書館が開館して、図書館はそちらに移転した。その後改修されて1998年(平成10年)5月に會津八一記念博物館が設置された。
2号館・旧図書館と今井兼次』には、今井兼次について、「本学名誉教授今井兼次(1895~1987)30歳の時の作品」「1920年より45年間に渡り本学教員として建築学科のデザイン教育を指導したプロフェッサー・アーキテクト」とある。図書館の建築は、御大典記念事業として「当時の建築学科主任、内藤多仲教授が中心となって耐震的な新図書館の計画を進めることになり、 今井兼次が意匠方面の設計者として参画することになった」という。
ぼくはまだ内部を見ていないのだが、その時のために以下の文章も書き写しておく。「ヒューマンな精神への撞景と実践と、空間的ヴィジョンへの意欲が大きな二つの軸となって、 この図書館建築に対する今井兼次の創作態度となって貫かれているのである。」「「質実豪放端正な」外観に包まれた内部空間は玄関大広間から大階段室へと至る空間の継時的な展開が中心軸を形成する。 今井が「宇宙の体系」を表徴する空間として構想した部分である。」とある。外観と内部のデザインは今井の精神的な現れ、ということだろうか。



早稲田大学會津八一記念博物館(東側正面)
『2号館・旧図書館と今井兼次』に「玄関大広間の六本の円柱は暗緑褐色の格天井を支持している。そしてこの六本の漆喰塗りの白亜の円柱には、 最後の一本を家族に見守られながら仕上げた家族愛の逸話を背景とする、一左官職の心魂を傾けた職人の制作態度が刻み込まれ、彫琢されているのである。」とある。この逸話は『都市回廊』(長谷川堯著、中公文庫、昭和60年、680円)にも、今井が目撃した光景として紹介されて、以下の文章は今井の書いたものからの引用(『建築とヒューマニティ』(早稲田選書、昭和29年)あるいは、「早稲田新図書館建設の感想」(『建築新潮』大正14年2月号))。

 正面大玄関広間の真白い六円柱を皆さんはご覧になつたことと思ひます。此六本の柱を仕上ぐるに一つの物語があります。残り少ない時間に若い二人の左官職は、はげみにはげんで仕事に掛つたのです。或る時は蝋燭の燈火で懸命に働かねばならぬ事もあつたが、二人は二本、三本と日を追ふて柱を白堊に塗り上げて行ったのです。塗り上ぐ可き最後の六本目の日が来たのです。この日の朝、年長の職人は盛装した自分の妻と三人の幼い子供を連れてこの大広間の一隅に座を占めました。男は相変わらず二人で働きつづけて行つた。やがて最後の柱は仕上げられた。希望を以つて働いた青年は、親子して終日、今まで自分達が仕上げ来つた六本の白柱をあかずながめて安心の姿で広間を去つて行つた。この光景はいじらしくも自分には有り難いものでありました。
 今一人、二十九歳の錺職は、これが自分のこの職に対する最終の制作だと云ふて痛めし脚部を曳きしめながら働く、けな気さを覚えてゐます。勇躍して仕事に尽瘁した者程、雄々しいものはないと思ひますが、幾多の希望を持つて働く人達に依つて、この図書館が形ち造られたことは、なにより意義多きことと云はねばなりません。




早稲田大学會津八一記念博物館(西側)。図書館の書庫だった8階建ての部分。上部3階分は昭和9年に増築された。

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早稲田大学6号館(西側入口)。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日(4枚とも)

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学6号館(国際部校舎)(旧・理工学部校舎)、所在地:新宿区西早稲田1-6-1、建築年:昭和10(1935)年、構造:鉄筋コンクリート4階建、設計者:桐山均一(早稲田大学営繕課)、備考:地下1」。理工学部は1967(昭和42)年までに西大久保キャンパスに移転していて、現在は主に教育学部が使っているらしい。
早稲田大学百年史』という大部の本がネットに公開されている。その「第三巻>第七編 戦争と学苑>第五章 カリキュラムとキャンパスの整備」に、「昭和六年六月、田中穂積が第四代総長に就任してから、主として本部キャンパスの明治期の木造校舎が次々と半永久的鉄筋校舎に建て替えられていった。その中心をなすものは、何といっても、既述の創立五十周年記念事業で、昭和七年から十三年までに、現在の本部キャンパスはその基本的構図ができ上がったのである。」とあり、6号館もその流れで建設されたのだろう。
6号館は北の部分が「理工学部実験室(応用化学科)」として昭和11年9月に、南の「理工学部実験室(採鉱冶金学科他)」は昭和12年9月に竣工して、両者を接続して理工学部校舎として完成した。



早稲田大学6号館(東の裏側)
階段室の半円の出っ張りが特徴的。写真右端は戦後の増築。『早稲田大学百年史』に、「1954(昭和29)年1月、応用化学科教室(9号館―現6号館)第1期増築工事竣工し,応用化学科は早稲田奉仕園よりここに移る」「1960(昭和35)年5月、応用化学科教室(9号館――現6号館)第2期工事竣工」とあるのがそれかもしれない。



左:L字型平面の裏側の角。右:南側の玄関

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早稲田大学11号館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

正門からいくと、西の突き当たりが10号館で、その手前北側にあった商学部校舎。2006年に解体されて2009年に新校舎が竣工した。
写真の旧校舎は、『都市徘徊blog>早稲田大学11号館』によると、「建設年:1938(昭和13)年、構造・階数:RC4+屋根裏、設計:桐山均一、備考:1951増築」。1号館(昭和9年築)とほぼ同様の外観である。コの字型の平面だったのをその開口部を塞ぐように2階建てを増築していたという。
設計者の桐山均一はネットでは早稲田大学の校舎の設計者としか出てこないようで、その人物についてはさっぱり分らない。『日本近代建築総覧』では設計者は「片山均一(早稲田大学営繕課)」としている。
11号館の裏(北)には12号館(1951年築)があったが、11号館とともに解体されて、その敷地は新11号館に取り込まれた。『都市徘徊blog』には、12号館と11号館の裏側の写っている貴重な写真がある。



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早稲田大学7号館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

大隈重信像の前にある校舎。像は「昭和7年(1932年)10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた」(ウィキペディア>大隈重信)もので、朝倉文夫の作。
7号館は正面から見るとかなりクラシックな感じである。縦長の3連の窓、2階から5階まで通っている柱形、5階の窓の浅いアーチなど。戦前の建築だろうと思っていたら、1951(昭和26)年に建ったものだった。
都市徘徊blog>早稲田大学7号館』によると、「建設年:1951(昭和26)年、1957(昭和32)年に北側を増築/構造:RC/階数:5F・B1F」で、昔は理工学部の校舎だった建物という。
かつてはここに「恩寵記念館」というレンガ造の建物があった。中條精一郎(曽禰中条設計事務所)設計、レンガ造3階建。1911(明治44)年竣工。館名は皇室からの恩賜金を基礎に建設されたから。1945年5月25日の空襲により外郭を残して焼尽した(早稲田ウィークリー>恩賜記念館)。残っていれば慶應大学の図書館のような存在になったはずだ。



早稲田大学7号館裏(北)側。1957(昭和32)年に増築された部分。大きいガラス窓に映っているのは6号館。2004(平成16)年11月9日

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鮒忠不動産事業部。台東区浅草5-30。2011(平成23)9月11日

当ブログ前回の「スナック街角」と同じ横丁の、「ミナガワ工芸」の向かいにあった看板建築型の長屋。写真右奥がガレージで、そこも鮒忠が使っているから、建物全部を鮒忠が使っていたと思える。寮にしていたのかもしれない。1966(昭和41)年の地図でも「鮒忠根本」で、住所は「浅草千束町(せんぞくまち)三丁目54」。
2018年に取り壊されて、現在は「三井のリパーク」。写真でも建物の裏は駐車場だが、それがより広い駐車場になっている。2枚目写真がその駐車場で、左奥が千束通り。千束通りに出て、右へ2軒目に「鮒忠浅草本店」(うなぎ、焼き鳥)があった。この店も不動産事業部と同時期に取り壊されて、現在は「三井のリパーク」。



更科蕎麦大三。浅草5-30。2011(平成23)9月11日

1枚目写真左奥の建物。居酒屋だったような構えだが住宅になっているようだ。その左は千束通りの角にある「大三」という蕎麦屋。看板建築の上の壁に「更科蕎麦」の文字がある。2014年頃に取り壊され、写真中央の家は2019年頃になくなって、いずれも駐車場になってしまった。

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スナック 街角。台東区浅草5-34。2011(平成23)9月11日

千束通りの浅草四丁目交差点から少し東北へ行って西北へ入ったところ。写真右奥が千束通り。角の建物は壁で屋根を隠した戦後型看板建築。すでに昭和22年の航空写真に写っている建物かもしれない。
1966(昭和41)年の地図では、「浅草千束町(せんぞくまち)三丁目49」で、角から右へ「セキネ、栄屋、バーソラリオ、美奈川」。橙色の日よけの「総合記念品(有)ミナガワ工芸」が長く続いている店らしい。同じ地図で「街角」の左は「ポーラ洋装店」。
「街角」とその両隣の建物は2018年に取り壊されて、現在はマンションの建設工事中。ストリートビューを見ての推測だが、ミナガワ工芸は2011・12頃には廃業したようだ。


スナック 街角。2011(平成23)9月11日

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上:マスミ荘。台東区千束4-11
左:大和田荘。千束4-13。2011(平成23)年9月11日

吉原遊郭は空襲で焼き払われ、戦後は赤線として再出発した。1958年の売春防止法の施行により赤線が廃止されるまでに、娼館として建てられ営業していた建物が今でも残っている。多くはソープランドに建て直されたと思うのだが、ソープランドの営業禁止区域では娼館だった建物(カフェー建築)のまま、アパートに転業してそれがまだ何軒か残っている。当然、最近は激減していると思われる。
カフェー建築は旧吉原の土手通り寄りの「伏見通り」に多く残っていた。伏見通りとは、江戸期に大門の南の町筋が「伏見町」で、そこから来ている。この路地の裏の路地は「お歯黒どぶ」だった。「プリンス(岩淵荘)」が有名で、「モリヤ(森屋荘)」「金よし(旅館金よし→金井荘)」「親切(大和田荘)」が今はない。

マスミ荘は看板建築にした建物で奥は裏の路地までと深い。両端の柱形は円柱をかたどっている。旧屋号を「満寿美」としているサイトがある。1966(昭和41)年の住宅地図では「旅館ますみ」、1986(昭和61)年のでは「マスミ荘」となっている。
大和田荘はやはり看板建築にした建物で、4本の円柱型の柱形で飾っている。正面には入口が3カ所。赤線時は「親切」という屋号だった。2016年頃に取り壊され、3階建てのマンションに建て直された。


旧・黒潮。千束4-11。2011(平成23)年9月11日

看板建築ではあるが、なんとも現代的なデザインのファサードだ。正面が平面的だから看板建築というわけだが、この建物はそれが立体的。「黒潮」という屋号から波を連想するような造形を考えたのだろか。建物は奥に長く、裏は裏の路地に面している。
1966(昭和41)年の住宅地図では「黒潮」と裏が「日の出ビリヤード」。

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行徳可動堰。千葉県市川市行徳地先。2003(平成15)年12月7日(5枚とも)

行徳可動堰がある住所は江戸川の北が市川市稲荷木(とうかぎ)、南が市川市河原(かわら)であるが、河川敷の部分はとくに住所といったものはないようだ。また、行徳可動堰の西の河川敷の野球場や旧江戸川左岸の国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のあるとろは、江戸川区か市川市かも未定という。江戸川放水路(現・江戸川)を開削し、旧江戸川も流路を改めたため境界をどこに引くかが決定していないためだ。現地の案内板の所在地は「市川市行徳地先(江戸川河口より上流約3.2km)」。
江戸川放水路は1916(大正5)年着工、1919(大正8)年竣工で、1960年から名称を「江戸川」とした。放水路を開削したとき、「行徳堰」が設けられた。この堰は固定式で洪水に対処できず、1947(昭和22)年のカスリーン台風による大雨の被害もあって、1950年着工1957年完成で可動式の堰を造ったのが行徳可動堰。「水門」とどこが違うのか分らない。



行徳可動堰(第3堰柱)。ローリングゲートは下に下がっていてほぼ水没している。
現地の案内板(今は撤去されたかと思う)によると、ゲートが鋼製鋲接ローリングゲート、純径間30m、扉高4.5m、ドラム径3.5mで3基。巻上機は60㏋、昇降速度30cm/分が 1基ずつ。
地盤沈下による嵩上げ工事を1975(昭和50)年~1977年で行った。
そして完成後50年以上がたって老巧化した可動堰を改修する工事が、2011年3月から開始し、2014年に完了したようだ。改修といってもほぼ新設する大がかりなものだった。



行徳橋。
行徳可動堰に併設されていたのが行徳橋。千葉県道6号市川浦安線の道路橋だ。1956年(昭和31年)3月の架橋。行徳可動堰の管理橋でもあり、堰と一体の橋。全長422m、幅7m(車道5.5m、歩道1.2m)で、ここを路線バスが走る。自転車は歩道をいくことになっているがすれ違うのが大変だ。
2015(平成27)年から架け替え工事が始まり、2020(令和2)年3月に開通した。新しい橋は堰の上流に架けられた。古い方は今頃は解体されたかもしれない。


行徳橋北詰。簡単な親柱があった。写真奥は1972(昭和47)年架橋の新行徳橋。県道6号のバイパスだ。

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江戸川閘門(上流の扉)。江戸川区東篠崎地先。2003(平成15)年12月7日(3枚とも)

旧江戸川の「江戸川水閘門」の閘門のほう。写真左奥が水門で、水門と閘門の間は細い島になっている。水門と閘門が少し離れているのは工事がやりやすかったからだろうか。また、1930(昭和5)年竣工の旧小松川閘門のような飾りはなく、実用一点張りの外観は1943(昭和18)年完成という、工期が戦時中で余裕がなかった現れと見える。
土木建築工事画報 昭和14年6月』の「江戸川水門工事に就て(2)」には「大きさに於いて東洋一」といっている。「閘室は幅16.0m、長100.0m。扉室は鉄筋コンクリート造で径間11.0m扉、本体は中空箱形とし、扉溝、対重孔、通水路、通水扉を設けてある。本体上に高15.0m鉄筋コンクリート造の塔があり、上部に機械室を設けてある。」という構造。



江戸川閘門(上流の扉)。水門から一直線の道路と橋は昭和40年代まで車も通していたらしい。



江戸川閘門(下流の扉)。『江戸川フォトライブラリー>旧江戸川の歴史と風景 江戸川水門と常夜灯』には明治42年(1909年)と大正6年(1917年)の地図に現在の地図を重ねた地図が載っていて、水閘門が旧江戸川の右岸に造られたことが分る。また、「篠崎水門周辺の桜は、日露戦争の戦勝記念として植樹されたのがはじまりで、一時は数百本になったと伝えられています。」とある。写真右の桜はそれを復元したものらしい。


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