ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




太陽堂書店。葛飾区金町6-2。2003(平成15)年12月14日

国道6号(水戸街道)から京成金町線に沿って金町駅南口へ入っていく道路(区道356線)沿いにあった家並み。現在は再開発によって、「ヴィナシス金町」という41階建ての高層マンションとその下層階にスーパー・商店・医院・中央図書館などを収めた複合施設ができた。2006年11月から工事が始まり2009年6月に完成している。
写真の「太陽堂書店」と隣の「八幡苑」(お茶と海苔)はヴィナシス金町の、同じ通り沿いの1階に無事に収まっている。太陽堂書店は昭和16年の創業。八幡苑は店舗からするとそれ以上の老舗に見えるが昭和25年の創業という。今はスイーツに力を入れている。
写真の通り沿いに1949(昭和24)年に「商盛会」という商店街の組合が出来た。「すずらん会」が組織されるよりも7年も早い。
2017年9月に「金町南口商店会連合会」が発足した。連合会には「金町商盛会、ヴィナシス金町ブライトコート商店会、協同組合金町すずらん会、金町大通り商店会」が属している。ということは、商盛会は今も続いているが、今後の活動は連合会が中心に行われる、ということらしい。

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左:ゆかり接骨院、右:よしだ整体院。葛飾区金町6-8。2019(令和元)年6月27日

JR金町駅南口から国道6号(水戸街道)の間に広がる商店街を「ベルシティかなまち」という。以前は「すずらん通り(すずらん商店会)」と言っていた。すずらん会が発足したのは1956(昭和31)年。当時は駅の南側に住宅地が広がり人口も多いのに比べて、北口は「大東紡績金町工場(金町モスリン工場)」と農地が目立ったくらいだったのかもしれない。金町駅は南口しか改札口がなかった。
従ってすずらん商店会は繁盛してきたのだが、しだいに北口も市街化が進み、1967(昭和42)年に金町駅北口が開設、1968年に金町駅前団地が建設され、北口の商店街も発展してくると南口の商店街は衰退してくる。その対策として1980(昭和55)年に商店街のメインストリートにアーケードをかけ、駅前の入り口に「BELL-CITY」と書いたアーチの看板ゲートを作った。入り口から入ると、通りは南から東へ向きを変えて国道6号に出て終わる。ベルシティと改称したのはこの時だろう。しかし残念ながら効果はほとんどなかったようだ。
現在は金町6-2の再開発により、2009年6月に「ヴィナシス金町」という高層マンションが建ち、ベルシティ商店街は半分がなくなった。ヴィナシスとベルシティの間には広い道路が通されたから完全に分断されたと言っていい。最近までベルシティの通りにあった「ベルシティかなまち/Bell City Kanamachi」の街灯は撤去された。すずらん商店会は解散したのだろうか。



左:金町眼鏡店、右:太陽堂整骨院。金町6-9。2019(令和元)年6月27日

空襲にはあっていないが、ベルシティに残る古い店舗に戦前築と思われる建物はみかけない。昭和30年代にはこの商店街は繁盛していたというから、その利益で競って建て替えてしまったのだろうか。駅前広場の東、金町6-11にある古い庭付き1戸建て平屋の住宅2戸が戦前からのものかと思われる。
1962(昭和32)年の住宅地図から、今でも続いている商店は5店ほど見つかった。「石塚バーバー」「大関電気」「まことや洋品店」「金町薬局」「長谷豆腐店」。
写真はどれも商店街のメインストリートの中程にある店。『表の家>金町南口商店街の行く末はいかに?』は2006年の商店街を記録している。そこでは、1枚目の「ゆかり接骨院」は「つるや洋品店」、2枚目の「よしだ整体院」は「大塚薬局」だ。ゆかり接骨院の左の床屋が「石塚理髪店」。4枚目写真の太陽堂の左が大関電気。太陽堂の右奥への路地を入ったところに長谷豆腐店がある。



北海ジャンボリア、まことや婦人服店。金町6-7。ストリートビュー、2013年7月より

2016年頃に取り壊された銅板張り風の商店。戦前築の看板建築だったかもしれない。壁に「安田」と読める字が残っている。安田生命金町営業所だった。今は「ブランヴェール金町駅前」(2017年9月築、5階建て14戸)という小さなマンションに建て替わった。
隣は金町薬局(左)とまことや婦人服店で古くから続いている店。まことやの右(西)に「金町映画劇場(金町東宝)」があった。地図でみるとずいぶんと小さい映画館だったようだ。1970年代に閉館したと思われる。

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左:西村歯科医院、葛飾区金町6-8。右:いとう屋、金町6-5。2003(平成15)年12月21日

JR金町駅南口から南へ入る路地で、左写真では奥が駅、右写真は左写真の向かい側で、奥が駅と反対の南方向。現在は金町6-2の再開発により、2009年6月に竣工した「ヴィナシス金町タワーレジデンス」という41階地下2階建て476戸の高層マンションが建った。ヴィナシスの東には国道6号(水戸街道)と金町駅南口広場との連絡道路が設けられた。写真の路地はその道路になって消滅した場所だ。以前は京成金町線の線路に沿った区道が使われていて、出入りするバスの本数が多いのでいつも渋滞していたらしい。

右写真で突き当りに見えるのは「ベルシティ」という商店街のメインストリートで、こちらに向いた商店は「桜屋肉店」と思われる。「いとう屋」というのは通りに出る角の工事用フェンスのところにあった会社。1970年頃の住宅地図から持ってきているので、実際はどうか分からない。

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寿湯。葛飾区金町6-2。2003(平成15)年12月21日

JR金町駅の南、国道6号(水戸街道)の間にあった銭湯。撮影時ではすでに銭湯は廃業していて、入り口には「金町6丁目地区市街地再開発準備組合事務所」の看板がかかっている。今は2009年6月に竣工した「ヴィナシス金町タワーレジデンス」という41階地下2階建て476戸の高層マンションに替わっている。
寿湯の開業は外観からもそう古いことではなさそうだ。1962年の住宅地図にはなく、代わりにということもないが、駅に近いほう(金町6-5)に「栄湯」がある。1970年の地図に出ていて、こちらでは栄湯がなくなっている。



寿湯。2005(平成17)年3月20日

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丸の内松竹、ピカデリー。千代田区有楽町2-5。1984昭和59年9月

写真の建物は1957(昭和32)年7月に完成したビルで、1986年の住宅地図に「有楽町センタービル」としている。1987年完成のマリオン別館がその名前でも呼ばれるらしいのだが、写真の旧ビルの名称を引き継いだのかもしれない。「邦楽座」(1925年)を建て替えたものと思える。ビルには「丸の内松竹」(地下)と「丸の内ピカデリー」(2、3階)の2館が開館した。築後27年しか経っていなかったが、建て替えのために1984(昭和59)年10月2日に丸の内松竹はいったん閉館し、丸の内ピカデリーはマリオンに移った。
写真はその直前で、ピカデリーでは『フットルース』、丸の内松竹では「グレート・メモリーズ」と題した名作上映会をしている。『エデンの東』『ジョーズ』『クレイマー、クレイマー』『暗くなるまで待って』『お熱いのがお好き』などが読める。
丸の内ピカデリーは10月6日にマリオン内に「丸の内ピカデリー1、2」として開館する。写真中央の看板はその上映予定の広告である。
1987年10月3日にマリオン別館が完成して、丸の内松竹が移ってきて、「丸の内ルーブル」が開館した。
参照:『東京都内映画館の年表

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新聞輸送株式会社。千代田区有楽町2-8。1988(昭和63)年4月24日

JR有楽町駅前の「有楽町イトシア」が建つ以前にあった、小さい木造家屋などが林立していた街区の東側の家並み。1986(昭和61)年の住宅地図では、左から「有楽町西武Bブロック(可口飯店)、倫敦屋(喫茶)、るびあん(喫茶)、新聞輸送、レストラン レバンテ」。この街区では珍しい戦前築のRC造の建物が2棟ある。1969(昭和44)年の地図が手元にあるのでついでに書き写しておくと「KK朝日ソノラマ 朝日新聞社別館、倫敦屋 喫茶、コーヒールビアン □□歯科、新聞輸送社KK 毎日新聞社分室、ビヤホール レバンテ 有楽会館」。

新聞輸送株式会社」はそのHPによると、「昭和19年1月に、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、東京新聞社(現中日新聞社)、日本産業経済新聞社(現日本経済新聞社)の5社の出資により創立」した。戦時中の車両・ガソリンの不足を運搬に関しては主要な新聞社が合同で効率的に運営していこうということだろう。政府から要請があったのかもしれない。「昭和20年(1945)5月有楽町本社罹災」し、本社は西銀座などあちこちを転々としたらしい。そして昭和33年(1958)3月に写真の建物に移転してきた。たぶん建物はそのときに建てたと思われる。
「平成16年(2004)1月有楽町再開発に伴い、有楽町本社から東日印刷STビル辰巳別館に仮移転をする。11月芝浦に本社新社屋・芝浦共輸センター落成」。
戦時対策として創立したと思われる会社がいまだに健在なのは、新聞社ごとに運送部門を持つよりずっとやり易いのだろう。



新聞輸送株式会社。1987(昭和62)年10月4日

都市徘徊blog>新聞輸送株式会社』で、この建物が取り上げられている。2004年11月の写真では建物はすでに封鎖されているようだ。また「喫茶るびあん」は「喫茶室ルーブル」に替わっている。
この記事に寄せられた新聞輸送社員の方のコメントで、建物がどのように使われていたかが分って興味深い。

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朝日街通り(南の入り口)
千代田区有楽町2-8。1985(昭和60)年

有楽町イトシアが建っているところには、かつて南北に通った「朝日街商店会」の狭い通りで2区画に分けられた街区があって、飲食店やパチンコ屋などが立ち並んでいた。朝日街の名前は南の通りの向かいにあった朝日新聞社に由来するのだろう。木造家屋が主だったと思うが、東の街区にはレバンテ可口飯店があった。2004、5年頃から取り壊しが始まったかと思う。イトシアの開業は2007年10月12日。
左の写真は有楽町マリオンの裏から撮った写真。写真右から奥へ、1986年の住宅地図では「ルミエール、陣屋そば、プリンス」で、1969年の地図でも同じ(「陣屋食堂」の記載)。写真左は「初藤食堂」。ルミエールは昭和22年の創業で近年「ゴッサム・カフェ」と改名したが平成15年9月に閉店した(有楽町・ギャラリー - 結之介の居所)。





上:大黒天、東武トラベル、立喰そば店
(朝日街と中央街に挟まれる北側)
下:アマンド(朝日街中ほど)
有楽町2-8。2002(平成14)年5月4日

上の写真は交通会館の南の通り。写真左が朝日街通りの北の入り口、天丼の看板の店が有楽町中央通りとの角にある。1986年の住宅地図では「後楽」なのでその店かもしれない。
この家並みの裏、あるいは2階かもしれないが、「シネ・ラ・セット」という映画館があった。『港町キネマ通り>シネ・ラ・セット』によると、1957年に東宝系のロードショウ館「有楽シネマ」として開館、1995年にピンク映画専門の「シネマ有楽町」としなり、そして翌1996年にミニシアター「シネ・ラ・セット」として2004年2月まで続いた、ということだ。
アマンド有楽町店は『アマンド>ブランドヒストリー』によると、1949年の開店。

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ももや、銀華。千代田区有楽町2-8。1985(昭和60)年

JR有楽町駅を銀座方向へ出ると、今では目の前に「有楽町イトシア」が建っているわけだが、イトシアとJRのガードに挟まれた三角形の土地は、イトシアの再開発からは外されたようで、昔のまま―戦後まもなく建ったと思われる木造2階建てを主とした家並み―の景観が残っている。北の角の「百果園」その隣の「中国料理 中園亭」などは古くからある店のようだ。
イトシアが建ったところも、以前は似たようなごちゃごちゃした街区があって、『江戸東京 街の履歴書(4)』(班目文雄著、原書房、1992年、2300円)では、「朝日街、中央街という人だけ通る小路の両側に喫茶店やパチンコ屋が並んでいる」とある。
上の写真は、街区の南側を有楽町マリオンの裏から撮った写真。右奥への路地が、今では「有楽町中央通り」と言うらしいが、『街の履歴書』に「中央街」とあるから昔からあった通りの名前らしい。
上の写真の角の家は1階が「mt sand’s」と読めるテイクアウトの軽食店だろうか? 2階が「喫茶店 ももや」で、壁の「アートコーヒー」はコーヒーの銘柄なのだろう。期待もせずに検索したら『東京カフェデイズ>「ももや」の小さな復活』というサイトがあった。1949(昭和24)年に創業し、2007(平成19)年5月まで58年間も営業していた、という。
下の写真は上の写真の左枠外にあったパチンコ屋。2階が「白鳥」というゲームコーナーだが、1969年の住宅地図では「喫茶白鳥」。今では「DUO」というパチンコ屋。上の写真に写っている5軒ほどの店もDUOになっている。



パチンコ大丸。有楽町2-8。1987(昭和62)年10月4日

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ニュー東京ビル。千代田区有楽町2-2
1988(昭和63)年2月21日

晴海通りの有楽町マリオン(旧日劇)の向かい側にあったビル。「株式会社ニユートーキヨー」の本社ビルだったから「ニユートーキヨービル」だったのかもしれない。1階のビヤホールで知られていたかと思う。
ニユートーキヨー>歴史』及び『ウィキペディア>ニユートーキヨー』によると、「昭和32年(1957)10月 9日、本社ビル(地下2階、地上9階建-約3,500坪)の新築完成」で、それが写真のビル。それ以前には昭和12年(1937)6月に竣工した5階建てのビルがあった。当時は外堀があり、そこを渡す数寄屋橋の際に建ったわけだ。そのビルを、敷地を倍以上に拡張して建て直した。1978(昭和53)年、1階の外装をレンガ造りに改装。2015(平成27)年3月8日、数寄屋橋本店ビル、老朽化と再開発のためこの日で営業終了。2018(平成30)年10月、数寄屋橋本店ビル跡地に「ヒューリックスクエア東京」が開業。

写真にはビルの右下に「ニュー東宝 シネマ1、シネマ2」の看板がかかっている。ビルの3階と地下にあった映画館だ。『港町キネマ通り>有楽座』によると、ビルの竣工時に地下に「スキヤバシ大映」、3階に「ニュー東宝」の2館があったらしい。1972(昭和47)年5月、大映が撤退してから「ニュー東宝シネマ1、2」と改名した。1995(平成7)年6月から3階の「ニュー東宝シネマ」の1館となって、アクション映画を主に上映したという。2005(平成17)年4月に大改修して「有楽座」として開館した。ビルが立て直しのため閉鎖されるまで続いたようである。

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