ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学農学部2号館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

東京大学農学部の正門である農正門から弥生キャンパスに入ると、正面奥に農学部3号館がアイストップになった、中央が緑地の通路だ。その緑地に対面して同じ外観の内田ゴシックの建物が正面を向けている。左(北)のほうが農学部2号館。
2号館は内田祥三(よしかず)の設計でRC3階建て地下1階、昭和7年8月着工、昭和11年(1936年)2月10日の竣工である。1号館と同じ外観で、やはり中庭を2か所とった「円」型の平面。1号館の竣工は昭和5年(1930年)2月で、それからだいぶ期間があいている。
2号館竣工の前年、昭和10年(1935年)7月に正式に農学部の住所を駒場から「東京市本郷区向ヶ岡弥生町」に移した。(『東大農学部の歴史>農学部の拡充』参照)

2号館の裏に「農学部2号館別館」が建っている。昭和42年(1967年) 11月の竣工で、「農芸化学科の講座増に対応して建設」ということだ。「分子細胞生物学研究所(1955年)」を西に増築したような感じだ。その分子細胞生物学研究所は戦後築の建物の中では古いほうだ。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)の巻頭のキャンパスマップは建物名に竣工年がついている。それに農学部の「東別館1953年」という建物が載っている。「生産生物工学研究センター」の北にある木造平屋と見える建物。「環境調整工学研究実験室」の東別館だろうか。

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東京大学農学部1号館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

農正門から東大農学部に入るとすぐ先に同じ外観の建物が左右に相対している。右(南)が農学部1号館、左が2号館。1号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学農学部1号館、建築年=大正15年〈1926〉、構造=RC3~4、設計=内田祥三〈よしかず〉」。『ウィキペディア』では1930年(昭和5年)の竣工としている。1930年とする資料は多いが、『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)は1926年。
「内田ゴシック」の1棟で、中庭を2つとった「円」型の平面。南西部分は1963(昭和36)年に増築されて、「円」が完成した。外観のデザインは工学部1号館や史料編纂所の系統である。どういうことかというと、壁の上部にアーチの飾りがないタイプ。内田ゴシックの特徴である「犬小屋」ポーチが東西の各側面に1か所づつ配置されている。



東京大学農学部1号館、東面。2019(平成31)年4月18日

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農正門。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

東京大学農学部正門を「農正門」というが、略称というよりほぼ正式名称のようだ。門の右、農学資料館の壁についている説明板も「農正門」で、東大が作成したキャンパスマップも同じ。説明板には「農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後1937〈昭和12〉年〈4月〉に創建された。/現在の門は2003〈平成15〉年に木曽のヒノキ材を用いて復元された。」とある。設計は内田祥三(よしかず)。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、農学部のキャンパス計画は内田が行い、1号館と2号館の奥に3号館を配置する構図を決め、正門をその中心軸に置いたため、「高陵正門」の位置より少し南に移動させたという。



守衛所、農学資料館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

門に付属して、同時に建てられた守衛所と農学資料館。農学資料館は車庫だったもの。簡単な小屋なのだが、ネットで見られる内部の写真ではRC造だかSRC造のように見える。農学部1~3号館に合わせてスクラッチタイル貼り。
農学資料館の展示の目玉は忠犬ハチ公の内臓らしい。愛犬家は見たがるだろうか? ハチ公の飼い主として有名な上野英三郎(ひでさぶろう、1872-1925)は農学博士、東京帝国大学教授だった。駒場に通っていたのだろう。

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北川商店土蔵。千葉県香取市佐原イ1713。2003(平成15)年7月20日

香取街道の伊能記念館西入口交差点から南に入ってすぐのところ。「清宮秀堅旧宅」の向かい側にある。「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した説明書きによると、「北川商店」という餡製造会社が小豆などを入れる穀物倉庫としている。明治年間の建築で、当初は米蔵だった。合資会社北川商店は昭和13年(1938)の創業。
平成9年(1997)度に全体的に復元修理している。「下屋前面を壁で塞ぎ穀物倉庫としていたものを、本来の位置に漆喰塗りの壁を復し、下屋を開放して腰壁をつけ、出入り口は木製引き戸とした」という。
説明書きには、蔵の前の道を「下新町通り」といっている。写真の辺りは旧町名で「下宿」(東側)と「仲宿」だが、南へ行って「町並み観光駐車場」の先が「下新町」。

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ほていや蔵店。千葉県香取市佐原イ1714。ストリートビュー(2012年10月)より

「ほていや 蔵」は香取街道の伊能記念館西入口交差点の角にある。JR香取駅の東、線路が小野川を渡るあたりに「献上銘菓 佐原ばやし本舗 ほていや 本店」があり、蔵店は支店ということになる。現在は佐原に宿泊所を展開している「NIPPONIA」の「YATA棟」になっているが、この記事では建物名として「ほていや蔵店」を使うことにする。上の写真は自分で撮ったものがないので、ストリートビューからお借りした。
「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した説明書によると、「清宮綿店」だった建物。横丁の向かい側の「清宮秀堅旧宅」と縁戚がありそうである。明治32年(1899)築。「2階建て店舗の奥に平屋の住宅部分、最奥に厠を付けた伝統的な配置を残す」。
2008(平成20)年に復元修理したが、それ以前は大きな看板で前面が隠れていたようである。たぶん、その修復の後にほていやの店舗になったと思われる。
YATA棟に替わったのは2018年頃かと思う。



ほていや蔵店の蔵。2003(平成15)年7月20日

街道沿いの店舗の裏にある蔵。コンクリート造で昭和戦前に建てられたという。
ほていやになってからは「セルフ喫茶蔵」という休憩所になっていた。

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円城寺本店。千葉県香取市佐原イ1715。2003(平成15)年7月20日

香取街道と、JR佐原駅へ向かう横宿通り(県道55号・佐原山田線)との丁字路の正面にあるのが、写真左の「井阪屋金物店」。その横に路地が入っているが、隣にあるのが「円城寺本店」。看板建築になるのだろうか? 看板になっている2階の壁(バルコニーの手すり?)は中央に唐破風を乗せている。渦巻きを使っているから雲のつもりなのかもしれない。こういうところに由緒正しい模様を置いてもしようがないから、これはこれで面白い。
今は店は廃業してしまったようだが写真では店が開いている。なにを売っているのか、写真では分からない。「佐原の歴史散歩」(島田七夫著、たけしま出版、1998年)では「円城寺商店(荒物・畳表)」と出ている。また、『日曜写真>佐原の街角-2』の2008年の写真では生花店だ。『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』に載っているイラスト地図には「千葉氏の四天王の家臣の末えいだぞ!!」という書き込みがある。

写真左の電柱の下に御影石の「佐原町道路元標」がある。道路元標は1919年(大正8)に道路法によって各市町村に置くことが定められて、それによるものと思うが、場所に規定があるわけではないらしい。ここの道路元標はそれにふさわしい場所に置かれたとしていいと思う。
佐原の町並みかわら版 平成20年8月第42号』に、小野川の「だし」に下ろされた荷を運ぶ牛馬のための水飲み場が井阪屋金物店の丁字路の辺りにあり、そのための井戸が丁字路の中心にあった、という記事が載っている。

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中村屋商店。千葉県香取市佐原イ1720。2003(平成15)年7月20日

香取街道の小野川に架かる忠敬橋の袂、佐原の観光地の中心にある和風小物の店。ただの土産物店にはない品ぞろえが特徴らしい。現在は「佐原商家町ホテルNIPPONIA」のフロントと2階がレストランになっている。NIPPONIAは古民家などを改修した分散型の宿泊施設で、中村屋がそのフロントになったのは2018年3月30日。店は後ろの蔵に移った。
犬吠埼観光ホテル>中村屋商店』によると、中村屋乾物店から分家して、明治7年(1874)から荒物・畳表を営むようになったという。店舗兼住宅は、安政2年(1855)の建築。乾物商として建てられたのだろうか?『5.(合名)中村屋商店』には、「明治7年に荒物、畳材料の卸商として創業し、ほどなく畳材料の専門卸となる」とあり、「平成13年に畳の材料卸業を廃業し、「和風小物・雑貨店」に絞り込んだ」という。写真ではまだ「畳表」の看板があげられている。
千葉県>中村屋商店』には、建物は「1階は内側に揚戸を建て込み、外側の土庇を格子戸と壁で囲う構え」「2階正面には繊細な格子窓を組み、軒下をはりだした「せがい」とするなど、格式のある形式」とある。



中村屋商店。香取市佐原イ1720。2003(平成15)年7月20日

3階建ての土蔵は、明治25年(1892)の大火後に建築された中村屋商店の袖蔵。現在は和風小物の店になっている。『5.(合名)中村屋商店』によると、平成5年に女将さんが現業の傍ら店先に自身の手作りの雑貨類を並べて販売したのが始まりという。



中村屋酒店。香取市佐原イ1720。2003(平成15)年7月20日

蔵の南には「中村屋酒店」、そのさらに南に写真左の、なにかの売店のような小屋が写っている。現在はそこに日本料理の「佐原千与福」の古そうな土蔵造りとみえる家が建っている。新しく建てたのだろうか? 移築したものなのだろうか?
写真右奥に建て替える前の「千葉商船」のビルが写っている。

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蜷川家具店(現・素顔屋)。千葉県香取市佐原イ33396。2003(平成15)年7月20日

蜷川(にながわ)家具店は香取街道の忠敬通りの「佐原町並み交流館(佐原三菱館)」の向かい側にある。通り沿いには3棟の家が並んでいるのだが、右の洋風看板建築の家について言及されるのが普通である。大正初期に家具の製造販売の店として開業した。商売の発展に従って増築していったのだろうか。今は日本家屋のほうで「素顔屋(すっぴんや)」という和洋装品や小間物を並べた店を開業している。看板建築の家で家具店も続けているらしい。
素顔屋(すっぴんや)』には「明治後期と大正期にそれぞれ建てられた切妻平入りと、大正10年(1921)築の切妻妻入り洋風造りの3棟で営業いたしております」とあるから、出桁造りの2棟は明治後期と大正期に建てられたもので、その奥が家具の製作所になっていたのだろう。
写真では3棟とも家具が置かれている。




蜷川家具店。香取市佐原イ33396
2003(平成15)年7月20日

千葉県近代建造物実態調査報告書>40 蜷川家具店』によると、昭和5・6年の竣工、設計・施工者は不明、構造は木造2階建、切妻造瓦葺、外壁はモルタル塗りなどとある。ファサード上部の構成が小倉時計店〔昭和2年築、設計施工=大堀(大工)〕に酷似していて、影響を受けたのだろうという。『日本近代建築総覧』では施工者を「地元大工」としている。また、素顔屋のHPでは大正10年(1921)に建てられたとしているので、建物自体は大正10年で、昭和5・6年に正面を洋風に改装したのかもしれない。
佐原の町並みかわら版、第58号平成28年8月』のコラムに、最上部のアーチ型の中に書かれた屋号の「○サ」はサワラの「サ」、「一」はタンスなどの製作所が数ヶ所あったのでデパート部を一号と表示したのではないか、という当主の話が載っている。

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やまと、味ゆき。新宿区荒木町6。2002(平成14)年5月6日

車力門通りの中央あたりから北の方向を見たところ。左手前の建物はガラス戸にコーラとキリンレモンの商標が貼ってあるので食料品店か菓子店だったと思われる。右のドアの日除けは「造形盆栽」。以下右へ「やまと」「すなっく ちか」(ちかは2階らしい、1階は別の居酒屋)「とんかつ味ゆき」の看板の字が読める。



味ゆき。2010(平成22)年3月3日

1枚目写真の右奥から逆方向を見た最近の写真、と思っていたがすでに10年前になっていた。写真ではまだ、昭和30年頃の建物が4棟並んで残っているが、今は味ゆきが残るだけで、他は建て替えられた。味ゆきの建物はその両側の建物より引っ込んでいて、袖看板は腕を伸ばして通行人に見えるようにしている。
写真左奥にやはりとんかつの有名店「鈴新」が見える。鈴新は昭和33年にここに移転してきたという。『とんかつ鈴新』には「荒木町物語」「荒木町の歴史」といったページもある。

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