ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




水産部買荷保管所。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

円弧を描く水産仲卸業者売場の内側(円の中心側)の、弧から突き出している屋根だけの建物を「買荷(かいに)保管所」という。買出し人が仲卸業者から買った水産物をいったん置いておく場所で、ここからトラックで行先別にまとめて発送される。買出しというと籠一つで自分の店へ直接持って帰る姿がまず想像されるのだが、買荷保管所を利用するのはスーパーなどを考えればいいのかもしれない。
買荷保管所は4カ所あり、A~Dの記号がついている。買荷保管所Aは独立した建物ではなく、仲卸業者売場の内側に沿った「水産部連絡路」の西側出入り口の方に、連絡路に沿った弧の内側(円の中心側)が買荷保管所Aとなっている。



左:買荷保管所D、C、1990(平成2)4月7日。右:買荷保管所B、2017(平成29)年7月15日

写真の買荷保管所は1964(昭和39)年に建て替えられたもの。東京オリンピックがあった年だ。その前は1921(昭和10)年の開業時に建てられたものが使われてきた。旧買荷保管所は写真の建物の1/3くらいの大きさの建物で8棟があった。運搬道具としては人が引く荷車などが想定されたのだろう。
戦後の車社会の到来に対応して駐車場を増設したが、それが仲卸業者売場の内側に沿った「新店舗」の屋上駐車場である。その新店舗のさらに内側に「水産部連絡路」を取った。それらが旧買荷保管所があった場所である。ついでに買荷保管所もトラックに対応した形に建て替えたということだろう。



買荷保管所(C?)。2006(平成18)年3月23日

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旧松本医院。台東区浅草3-30
1988(昭和63)年5月1日

言問通りの浅草観音堂裏交差点を北へ入ったところ。横丁との角の家は1階を柱だけ残してガレージにしている。戦前に建てられた洋風の家に見える。周囲は空襲で焼失した区域だから、鉄筋コンクリート造だったために躯体だけは焼け残ったのかもしれない。現在はTimesの駐車場になっている。
昭和26年頃の火保図(当時の住所は浅草馬道2-25)ではコンクリート造の表示があり、横の3棟が「松本寛」となっている。写真左のちょっとだけ写っている店は「マツモト薬局」で、その店の事務所だったとも考えられる。
1966(昭和41)年の住宅地図では角の家は「バー小春」。この地図では、写真左(北)へ行った並びに、「浅草ニュートルコ」(現・九重ビル)と「富士トルコ」(現・プレステージ・アサクサ)が記されている。浅草ニュートルコは昭和26年頃の火保図にも出ている。トルコ風呂の始まりは1951(昭和26)年に銀座に開業した「東京温泉」ということだが、浅草ニュートルコもほぼ同時期に開業したようだ。昭和38年の航空写真では、切妻屋根妻入の看板建築のように見える建物を中心に、その南側に小さな家を数軒まとめたものからなるようだ。

追記(2020年5月11日)
写真の建物は「松本医院」だったものだと、その松本医師の娘さんからコメントを頂いた。それによると、松本さんのおじいさま(内科医)が開業し、お父様(松本寛、慶應義塾大学助教授、 産婦人科医)がそれを継いだ。日本で最初の人工受精児を誕生させた医師だという。1951年に亡くなられているので、その時点で医院は廃業したと思われる。建物は2004年に取り壊された。
マツモト薬局は、閉院後だと思うが、松本さんのお母様が始めた漢方薬の店。

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柵の柱。台東区上野公園2。1987(昭和62)年4月18日

不忍池の外周を巡っている歩道と植え込みの間の、鉄パイプの柵を保持する柱である。写真左下の舗装は遊歩道ではなく、不忍通りの歩道ではないかと思う。たよりない記憶だが、不忍通りの池之端一丁目交差点付近ではないだろうか。写真右上にわずかに不忍池の水面が写っている。
山田守設計の東京中央電信局で使われた表現派のデザインだ。
今、ストリートビューでざっと見たところでは、写真のタイプの柱は撤去されてしまったようだ。数少ない表現派の造作として貴重な遺跡なのだが、一つでも残されていればうれしい。

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浩道オート商会。台東区上野7-14。2008(平成20)年5月7日

JR上野駅の北に両大使橋という線路の上を渡る陸橋がある。写真はそこを上野公園から下りてきたところに、つい最近まであった戦前築の木造家屋。前の通りはいつのまにか「入谷口通り」の愛称がついた。後ろのマンションの裏は昭和通りで、「上野バイク街」として知られたところだ。浩道オート商会と隣の金田モータースもバイク街を構成していた店になるわけだ。
あの街はいま?東京・上野のバイク街をあなたは知っていますか?」によると、「上野のバイク街は昭和26年頃、下谷1丁目に開店した「旭東モータースー」が発祥。10年後には付近に20軒以上のバイク屋が軒を連ねるようになり、…」とある。1966(昭和41)の住宅地図を見ると、昭和通り沿いの下谷1-1に「旭東モータース商会」が見つかる。最盛期には約80店からあったという。この辺りの昭和通りの両側は戦災から免れて戦前からの木造家屋が並んでいたから、そういう家を安く借りられたのかもしれない。下谷1丁目は焼けてしまっている。

写真の通りと、後ろのマンションの間には裏通りが通っていて、浩道オート商会の裏側には銅板張りの看板建築があった。2019年と思うが、それらの古い家屋は取り壊され、マンションを建築中。

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一色菓子店。台東区上野1-14。左:1989(平成元)年頃、右:2005(平成17)年4月1日

昌平橋通りの湯島中坂下交差点の北。写真の家並みの裏に黒門小学校がある。現在も写っている建物は変わらない。一色屋菓子店は『東京都の近代和風建築』(2009年)の一覧表には「構造=木造3階建、建築年=昭和2年」となっている。間口も広く、高さもあって目立つ建物だ。2013年に住宅用に改装されて表面は新しいパネルで覆われ、窓の上のアーチや建物両端上部の小さなレリーフなどの装飾が見られなくなってしまった。

下の写真はやはり昌平橋通りで、一色菓子店から南へ160mのところ。写真右の横町から右(南)は千代田区外神田になる。看板建築の瀬田氷店は、「エクセル湯島」(1996年9月築、7階建て11戸)という細長いマンションに建て替わっている。


瀬田氷店。上野1-5。1989(平成元)年頃

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中成堂歯科医院。埼玉県川越市幸町13
1989(平成元)年9月18日

一番街の東の裏通り、埼玉りそな銀行の裏手にある洋館の歯科医院。写真は医院ではなかった時期のもの。下見板の外壁は20年くらいで塗り替えられるらしく、今はピンクに塗られているが、その前は淡緑色だったらしい。写真では空色。また、塀が今はレンガの外観のものに替わっている。
中成堂歯科医院』及び『洋風建築が語る川越のこと』によると、1913(大正2)年に歯科医院兼住居として建てられ、翌年開院した。建て主は目黒寅三郎という歯科医師。跡取りがいなかったため、1931(昭和6)年に、中野歯科医院の中野清氏へ建物を譲り、「中野歯科医院」として1975(昭和50)年まで続いた。今の院長によって再開されたのは2002(平成14)年。その時に、外装内装ともに全面改修された。
建物は木造2階建て、外壁はイギリス下見板。屋根は天然のスレート葺き。1階の窓は両開き窓、2階は上げ下げ窓。横浜の山手資料館を少し簡便にした感じだ。2001年に「伝統的建造物」の指定を受け、2002年には「かわごえ都市景観デザイン賞」を受賞している。

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荻野銅鉄店。埼玉県川越市幸町1。1989(平成元)年9月18日

荻野銅鉄店は一番街の仲町交差点近くにある金物店。『Tabi2ikitai.com>荻野銅鉄店』によると、明治期創業の店で、今の店舗は明治26年の大火直後に建てられた町屋造りの建物。代々鍛冶町の名主を務めた北野家の旧宅、ということだ。広い間口の中央に置かれた看板の文字は「武蔵川越 鍛冶町/徳町 荻野銅鐵店/諸國萬打刃物一式/銅製茶道具・鋳物製品一般」。観光客には風鈴などが売れているようだ。
写真右奥の2軒は、つい最近まであったが、2018年に1棟の出桁造りの家に建て替えられて「川越プリン」と「kashichi」(和菓子、龜屋の支店)いう店が開店した。
写真左の家はいも釜めしの「翠扇亭(すいせんてい)仲町店」。バスで半分隠れてしまったのが残念だ。2011年以前に取り壊されている。

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大塚美容室。埼玉県川越市幸町1。1989(平成元)年9月18日

一番街の中町交差点から90mほど北のところ。カラーモルタルの看板建築が並んでいるのはごく狭い路地なのだが、その向かいが駐車場で空いているため、通りからも見ることができる。大塚美容院の建物は二軒長屋。その左にもう1棟の同じようなカラーモルタルの看板建築の二軒長屋がある。外観のデザインからは昭和初年に建てられたもののように思える。『4travel.jp>レトロを探す1日 初めての川越建物見物 前半』には、「モダン洋風長屋 昭和7年(1932) 店舗つき賃貸住宅として山吉デパートが建てたものだそうです。道路の拡張計画に合わせて建てたものの、道路計画が中止になりそのまま店舗は路地に向かって建つ羽目になったとか」とある。とにかく良好な保存状態で残っている。
2016年頃に窓が建築時の縦長のものに修復された。
写真右の白い壁の建物は「オカダ洋服店」かもしれない。2014年に、現在みられる大塚美容室に合わせた看板建築に建て替え(改修?)られて、風呂敷などの「鍛冶小町堂」が開店した。

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松崎薬局。埼玉県川越市幸町3。1989(平成元)年9月18日

聞信会館(旧キンカメ)の向かい側に、今も写真のままに残っている出桁造りの商家。いつ頃薬局を閉めてしまったのだろう? 
写真右の「呉服かんだ」は昭和25年創業という一応老舗といっていい店。今は1階上のタイル張りの壁を改修して「蔵造りの町並み」に合わせた和風のデザインにしている。今になると写真のファサードの方が「懐かしさ」の点では勝っているように思える。昭和30・40年代のままの店舗も見られるような街並みがいい。
写真左は「かすや洋品店」。間口は狭いが住居部分が奥に長いようで、通りに面した部分を平屋の店舗に造ったものかと思う。2017年に蔵造り風に建て直されて、「ブロマージュ」というチョコレートの専門店が開店した。

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キンカメ。埼玉県川越市幸町2。1989(平成元)年9月18日

一番街の通りに面していて写真左に埼玉銀行川越支店(撮影時)、右は法善寺の入口。『都市徘徊blog>川越・旧きんかめ』によると、2012(平成24)年に改修工事が行われて「聞信会館」という法善寺の施設になった。外観は元のままにするような改修で、正面の窓も横の窓に倣っているが、パラペットのマークとその下の「館会信聞」の文字のレリーフは新しいものである。
『日本近代建築総覧』では「宝石メガネ キンカメ、建築年=昭和3年、木造2階建、施工=小峰(大工)」。
TIMEKEEPER 古時計どっとコム>13. 近亀時計店時計塔』に明治末の発行という「近亀時計店」の絵葉書が見られる。昭和初年建築の建物の前の店舗と思われる時計台付きの建物の絵に「埼玉県川越鍛冶町」「ないものハない」などの字が入っている。解説には「近亀時計店は、明治2年の創業で、創業者は葉書にある原田安太郎氏です。 時計台は明治30年代後半に店の屋根の上に取り付けたものだとか」とある。また、通りの奥に時計台が写る「川越町市街ノ景」の絵葉書も載っている。一番街の通りを仲町交差点辺りから北向きに撮った写真らしく、手前に亀屋の蔵が確認できる。
写真では時計店という証拠が見られない。写っている文字は「キンカメ」「ナイモのハナイ」の他には「度付サングラス」「…科医院処方…」が読める。『川越市の近代化遺産』の写真では「宝飾きんかめ」の看板だ。

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