ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





ニューカレント、アルテ。台東区清川2-5
上:2011(平成23)年9月10日、左:同年9月11日

写真の通りは吉野通り(山谷通り)で、右に東浅草二丁目交差点。南千住-新橋の22番の都電が通っていた時は「浅草山谷町」停留所があったところだ。
「スナック 喫茶 ニューカレント」の建物は戦前築の洋風にした看板建築かと思ったが、この辺りは空襲で焼き払われているから木造の戦前の看板建築ということはない。昭和22年の航空写真を見ると陸屋根の建物がすでに写っている。するとRC造の建物が躯体だけは残ったものか、とも思える。改めてネット検索してみたら『エコノミーホテルほていやブログ>イトーヨーカドーのルーツは山谷だった!』というサイトが見つかった。
その記事によると、ニューカレントは「安田銀行」だった建物で、1932(昭和7)年の写真が載っている。1階は石積み風に造ってあり、2階から上は元のファサードがよく残っている。
記事の主眼は、隣の「イタリアンバル アルテ」の場所が、戦前は「羊華堂洋品店」で、その店が「イトーヨーカドー」のルーツだった、ということのほうにある。イトーヨーカドーは漢字で書けば「伊藤羊華堂」だった。

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野田屋本店。台東区日本堤1-40。2011(平成23)年9月10日

土手通り側から「いろは会商店街」を東へいくと、吉野通り(山谷通り)に出る手前でアーケードは切れてしまう(2018年2月に撤去された)。写真は東側のアーケードのゲートと吉野通りの間を撮ったもの。かつての電車通りだった吉野通りまでアーケードが続いていてもよさそうに思う。商店街から外れた場所は旧町名だと浅草山谷三丁目で、いろは会商店街の方は浅草田中町(たなかまち)二丁目になる。山谷の方は別の町だから同じ商店街にはならない、ということだったのかもしれない。
「野田屋本店」の出桁造りの商家に目が行く。周辺は空襲で焼けた地域だから、この家も戦後の建物かと思うのだが、どうもよく判らない。左手前は「リーカーショップ ノダヤ」で支店の?野田屋酒店。野田屋は2015年に廃業し、最近「AvenirIci南千住」(2017年1月築、8階建24戸)というマンションに替わった。
野田屋本店の右は「大衆食堂 きぬ川」。漫画「孤独のグルメ」に取り上げられて有名なのだという。2017年10月末で廃業し、建物も取り壊された。跡地には8階建てのマンションが建つようだ。1986(昭和61)年の住宅地図ではきぬ川の場所は「食事みやこ」となっていて、向かい側(トオダイ堂薬局の隣)にきぬ川がある。



野田屋本店。日本堤1-40。2011(平成23)年9月10日

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三河屋呉服店。台東区日本堤1-28。2011(平成23)年9月10日

いろは会商店街の真ん中あたりに三河屋呉服店がある。写真では呉服店の営業はやめてしまい、雑貨店のようで、電化製品まで置いてある。「山谷」で呉服店は難しいだろうとは思う。三河屋のような大きな呉服店があったということは、商店街の歴史が古いということと、吉原の存在が関連していそうである。
TOKYO ASAKUSA.com>いろは会商店街振興組合』によると、「むかし陸羽街道から吉原土手へ抜ける小道の一部に夜店の出店が許された」という説明がまずある。「むかし」がどのくらいむかしなのか分からないが、陸羽街道は山谷通り(吉野通り)を指すようだ。「大正8年頃夜店通りに商店会ができ、連合大売り出しが始められた」「そして11年、いよいよ通りの全店が結束して「いろは会」をつくった」。平乃屋や近江屋乾物店は商店会発足当時からの店、ということになる。
昭和12年「いろは通り商店街商業組合」と改称、昭和20年3月の空襲で焼野原に、25年「いろは会」を再発足した。
アーケードが完成したは昭和51年4月。それを機に「ショップメイト」の愛称を付けた。高度成長期で、商店街も山谷の労働者が支えたのかもしれない。
2018年2月にアーケードは撤去された。維持していくのが難しくなったのだろう。

下の写真は三河屋の向かい側。和菓子の「尾張屋」はケースの商品が少なくて寂しい。ネット検索ではそれらしい店が検出されないから廃業したのだろうか。2010年のストリートビューには、アーケードから下がる垂れ幕に各店のかるたの文句が書かれている画像がみられて、「手づくりの和菓子は味一番の尾張屋で」とある。
「柴田商店」は1966年の地図では「柴田屋道具店」で、その右の家は同地図では「世界一洋服店」。


尾張屋、柴田商店。日本堤1-15。2011(平成23)年9月10日

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小林屋金物店。台東区日本堤1-29。2011(平成23)年9月10日

小林屋金物店はいろは会商店街の中でも間口の大きい店だ。写真では店先に荒物屋らしい商品を出しているが、ネット検索ではそれらしい店が検出されない。廃業したのだろうか。小林屋から右へ、「須峯肉店跡」(今は住宅が建った)、「旧辰巳屋」(呉服店?、今は住宅に)、「一富士食堂」(看板には「和洋中華料理」とある。ネット検索でヒットしないのとストリートビューで見た様子では廃業か)……。
写真右奥に「近江屋乾物店」がある。『街てく。>いろは会商店街』によると、近江屋は大正11年の創業で、鰹節専門店だった。戦後型看板建築の店舗の壁に「鰹節 近江屋」の金文字が貼ってある。今は缶詰やカップラーメンも置く。SVでは路上に段ボール箱で台をつくって商品を並べている画像が見られる。
写真左奥への横丁には、小林屋の左に「新柳」(和菓子)。今は取り壊されて時間貸駐車場に。

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平乃屋。台東区日本堤1-31。2011(平成23)年9月10日

「いろは会商店街」(いろは会商店街振興組合)の、土手通り側から入ってすぐのところ。看板建築が並んでいるようにみえるが1棟の長屋で、角の平乃屋から次の横町の角まで、6軒長屋である。いろは会商店街の店舗は1戸建ての戦後型看板建築がほとんどで、つまり切妻屋根の妻側を正面にした妻入(つまいり)にして、簡素なモルタル壁の看板建築にしたものだ。長屋式の店舗は平乃屋の建物以外には見当たらない。外観は戦前の看板建築を踏襲しているが、空襲の焼跡に建てられたもの。
店は左から、「平乃屋(たばこと惣菜)」、「中屋(文具事務用品)」、〈小川屋玩具店〉、「かめや菓子店」、〈中村生花店、丸一洋品店〉(〈 〉は1966年の地図による、写真では廃業しているか別の店になっている様子)。
東京・街角・たばこ屋さん>インタビュー>平乃屋』で平乃屋のご主人が語っている。それによると、平乃屋は大正7年に下駄屋として創業、現在は三代目。39年前にたばこを売るようになったときに、「うちは下駄屋なんだ!」というお父上と喧嘩になったという。下町らしい頑固おやじだったらしい。労働者の町・山谷というイメージは薄れてきたようだが、たばこはよく売れそうである。自分の健康を犠牲にして税金を納めている喫煙者を、もっと温かい目でみてもいいのではないかと思う。
写真右の「支那そば発祥の(地?)」の幟は「山龍肉店」。どういうことなのかは分からなかった。

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丸一繊維。中央区日本橋堀留町1-9。1987(昭和62)年3月15日

中路医院と同じ四つ角にあった看板建築の長屋。7軒長屋になるだろうか。現在は「ICSTビル」(1991年築、6階建)というオフィスビルに建て替わっている。
写真左奥、丸一繊維の隣に「児玉薬局」が写っている。戦前築の看板建築の建物と思われる。その店と、今は外壁が改修されたが、建物が健在である。


鈴木肉店。日本橋堀留町1-7
1990(平成元)年2月11日

丸一繊維の角から南へ、路地を1本超えた次の四つ角の手前にあった看板建築の商家。窓の上の字は「□牛豚肉卸」(最初の文字だかマークだかが読めない)。昭和8年の火保図に「牛肉ヤ」とある店が続いてきたのだろう。
今は「ワタナベファーストビル」(1991年10月築、5階地下1階建)という小さいオフィスビルに替わった。

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中路医院。中央区日本橋堀留町1-5。1987(昭和62)年3月15日

写真右奥に行くと「日本橋保健所」(現・日本橋保健センター)の通りに出る。左へ行くとすぐ堀留児童公園。この裏通りの角に洋館風の看板建築と思われる「中路医院」(内科・小児科)がある。1994年頃には医院は閉めてしまったが、建物はその後飲食店として使われてきて今も残っている。中路医院は昭和7年の火保図に出ているので、建物は中路医院として建てられたものだろう。
中路医院の右の黒い看板建築は、廃業しているかもしれないが、「川村菓子店」。
現在は川村菓子店とその右の「丸一繊維別館」とが「堀留Dビル」(1989年築、8階地下1階建)になっている。

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遠藤商店。日本橋堀留町1-1。1987(昭和62)年9月13日

写真の前の通りは「江戸さくら通り」を、昭和通りを越えて延長した通りで、右の「広撚㈱東京支店」のビルの右に「日本橋保健所」(現・日本橋保健センター)がある。遠藤商店の事業内容は分からないが、昭和8年の火保図に載っている。
現在は「日本橋パインクレストビル」(1991年1月築、9階建)というオフィスビルになっている。また、広撚のビルも「フェニックスⅢビル」(2008年2月築、11階建20戸)というマンションに建て替わっている。


啓明商事東京店。日本橋堀留町1-5
1987(昭和62)年5月24日

遠藤商店から1本東の横丁を南に入ったところにあった建物。3階の窓があるが、そこから屋根が見えている。啓明商事は京都の呉服店で、その沿革には「昭和59年9月東京支店開設」とある。それ以前は「株式会社小泉東京店」だった建物で、昭和30年頃の火保図では「小泉染織所」。現在は建て替えられて「啓明商事Kビル」(1991年5月築、7階建)。

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左:堀口商店。中央区日本橋堀留町1-6。2007(平成19)年3月26日
右:バーバーフジ。日本橋堀留町1-6。1987(昭和62)年9月6日

堀口商店は堀留児童公園の東に南北に通っている通りに、バーバーフジだった建物は堀口商店の通りの1本東の通りにある。両建物の横の路地はそれらの通りを結んでいる。同じ路地の、通りに出る角に両建物がある、という位置関係だ。
堀口商店は梱包材料や段ボールを扱う店。見た通りの戦前築の出桁造りの商家。
バーバーフジは2003年に撮った写真では「ゆず」という焼き鳥の居酒屋と2階が「ちび太」というやはり居酒屋。それがいつのまにか今の「こま吉」という焼き鳥の居酒屋に、その後ろ、路地に向いたところに「キハ」という「鉄道好きの缶詰バー」が2006年12月に開店した。建物は洋風の看板建築だが、横を見ると大震災復興期の建物ではなく、戦後に建て直されているようにも思える。あるいは改修されてのことかもしれない。
路地の中に「出世稲荷神社」と「岩代稲荷神社」があって、たまにテレビで紹介される。バーバーフジの横に赤い幟と「出世稲荷の由来」が見える。二つの神社の社は共通でひとつ。路地に面してあってもよさそうなのに、ビルの奥にある。昔からある場所にこだわったのだろう。昭和30年頃の火保図ではバーバーフジの通りに「楽屋湯」という銭湯があって、その後ろに神社のマーク書かれている。



沖村商店。日本橋堀留町1-1。1985(昭和60)年4月28日

堀留児童公園の南の通りと、公園の東の通りとの交差点の角にあった商家。戦前まで東堀留川の河岸地で、倉庫が並んでいたところだ。沖村商店の建物は外観から見て戦後に建てられたものだろうか。現在は「ARAIビル」(1998年3月築、5階建)に建て替わっている。

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堀留児童公園。中央区日本橋堀留町1-1。1982(昭和57)年8月8日

写真の干上がった池?は、堀留公園の南の入口にあった。いつの頃か分からないが撮影後、公園は改修されて、池はなくなった。公園で遊ぶ子供が少なくなったので、大人の憩いの場所に改変したのかもしれない。写真中央の像は噴水になっていたのだろう。なにかの動物らしいが、その水が出る口元を子供がつかんでいる像のように見える。
堀留公園は戦後、東堀留川を戦災の瓦礫で埋め立てて造成された。埋め立て工事は1948(昭和23)年4月1日に着手、同年8月31日に竣工した(京橋図書館発行『郷土室だより第160号』)。公園の開園は1950年頃になるかと思う。
東堀留川を埋立てする前には噴水池の前の道路に萬橋(よろずばし)が架かっていた。この橋は元々、今の堀留町区民会館(旧日本橋保健所)の前の通りにあった。関東大震災後、その通りより北の掘りを埋め立てた際に移設された。

堀留公園。『中央区立図書館>地域資料室>』より。
「地域資料室」の「画像データ」にあった写真。撮影年は不明。公園の造成中と思える。右奥の2階建てのビルが日本橋保健所。中央が桂屋倉庫。左奥は小倉ビル

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