ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




民家。台東区日本堤2-7。2011(平成23)年9月10日

当ブログ前回の、門の路地入口がある裏通りをそこから少し西へ行った四つ角で、3棟の古い住居が固まって残っている。
角の白い壁の家は片流れ屋根で正面と両側面に看板建築風に壁を立てている。家内工業所だったような感じだ。その右の1階の屋根の上に物干し台のベランダの手すりが見える家は和風の住宅として建てられた家らしい。




二軒長屋
上:2011(平成23)年9月10日
左:ストリートビュー2015年3月より

角の家の左の家。二軒長屋だろうか。奥行きがけっこうある。ちょうど角の家とその右の家を合わせた幅が長屋の奥行である。長屋の右側は平屋、左側は引っ込んで二階がある。増築したのだろうか。今、ストリートビュー(2018年4月)を見たら左の家が建て替え中だった。2016年2月のSVで、すでに更地になっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






民家、路地の門。台東区日本堤2-6
2011(平成23)年9月10日

日本堤二丁目交差点の北を西へ入った横丁。日本堤二交差点角にあった銅板貼り看板建築の裏手である。関東大震災後に建った古い民家が一塊残っている。この裏手にはやはり戦前からある長屋が2棟あったのだが、最近、日本堤二交差点角の看板建築とともに取り壊されたようである。今はその跡地にマンションの建設が進んでいる。
左写真は上の写真の真ん中の民家とその左の看板建築の二軒長屋との間の路地への入口。昔の航空写真を参考にすると、路地には入口から見て左側に三軒長屋、右側には通りに面した家の後ろに四軒長屋がくっついていたらしい。つまり写真の路地の中の手前は通りに面した家の側面で、長屋は少し奥へ入ったところからになる。路地の入口を門にしてあるのは路地が私道で、2棟の長屋は同じ大家さんのものなのかもしれない。
そんな路地に入り込むことなど思いもよらないのだが、プロの写真家が発信しているブログ『Kai-Wai散策』に路地の奥から撮った写真が載っている。「トタンアーチ路地」と「山谷の路地奥」で、ともに路地の奥の突き当りと思える場所から入口の方向にカメラを向けている。その写真の手前に2棟の長屋を2階でつないでいるような建物の一部が写っている。路地の奥に写っている緑と赤茶の壁がそれだ。渡り廊下のようなものかと思うが、そんなものは不要である。たぶん、両長屋の2階の住民が公共で使用するスペース、つまり洗面所とかトイレではないだろうか。



左:ストリートビュー2015年3月、右:同2018年4月より

表通りの長屋が取り壊されて、その裏の長屋が見えていた時期があった。上の写真はストリートビューに記録されたその長屋。左写真は「三軒長屋」のほう。右写真は1枚目写真の家の裏側。三軒長屋も四軒長屋も取り壊されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





早川彫刻所。台東区日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日

日本堤二丁目交差点にあった銅板葺きの看板建築の北に隣接していた長屋。元は四軒長屋だった建物と二軒長屋式の家とがくっついて並んでいる。三軒長屋になった長屋の方は2011年には下の写真のように1軒が取り壊されていて、さらに2018年にもう1軒が取り壊されて今は「早川彫刻所」の1軒だけが残っている。三軒長屋の2軒と二軒長屋の1軒が同じ仕様で2階の壁が改修されている。大家さんが同じなのだろうか。
早川彫刻所の看板には「箔押用金板/高周波切断/超精密刻印/プレス金型」とあり、家内工業所のようだ。



二軒長屋。日本堤2-6。2011(平成23)年9月10日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





銅板貼り看板建築。日本堤2-6。2011(平成23)年9月10日

土手通りの日本堤一丁目交差点から山谷(さんや)通りの山谷派出所前交差点(今は吉野通りといい交差点名はない)へ抜ける通りがある。その中ほどが日本堤二丁目交差点で、その西北角にきれいに緑青に覆われた銅板葺きの看板建築があった。昨年(2018年)に取り壊され、2019年4月のストリートビューでは跡地がフェンスで囲われビルの工事が始まったところだ。11階建60戸のマンションが建つという。
写真の左奥が土手通りの方向で、日本堤二交差点から土手通り迄の南側(1区画のみ)と、北側の一部(写真に写っている範囲)が戦災に遭わずに焼け残った地区である。有名な廿世紀浴場がそこにあった。
看板建築が6棟写っていて、商店や町工場だったと思われるのだが、手持ちの地図では個人名しか出ていなくて、由来がいっさい不明なのが残念。ちなみに旧町名は「浅草田中町(あさくさたなかまち)3丁目」。



銅板貼り看板建築。日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日



看板建築。日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日

1枚目写真の左に写っている家並み。パラペットがない家は戦前の建物だと思うが、それがある建物は戦後に建て直したか改修したものかもしれない。写真右の家は角の銅板貼り看板建築と一緒に取り壊された。真ん中の2棟は2014年に取り壊されて3階建てのビルに建て替わった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





紙屋木工所。台東区日本堤2-37。2011(平成23)年9月10日

土手通りの三ノ輪一丁目交差点辺りの1本東の裏通り。古く見える家は、戦後、焼跡にいち早く建った家ではないかと思う。この家並みの向かい側(土手通り沿いの38・39番地)は戦災では焼け残った地区である。茶色に塗った2棟(そのうちの右の建物は3階建てのビル)が1966(昭和41)年の住宅地図で「紙屋木工所」となっている。
写真右に写っている消火器には「東三ノ輪町会」とあり、写真左奥の四つ角にある台東区掲示板にも同じ町会の名前が入っている。「日本堤」の町名は1966年10月から実施されたが、写真の辺りの旧町名は「三ノ輪町」だった。



中村化工。日本堤2-22。2011(平成23)年9月10日

明治通りの南千住二交差点から南へ入って90mほどのところ。旧町名だと「浅草日本堤4丁目」。写真の平屋の家は硝子戸に「中村化工」とある。1966年の地図で「中村屋パン」となっている。今では4階建ての共同住宅に建て替わった。その先の戦後まもなく建ったと思われる2棟は今もそのままだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





デコール。千葉県香取市佐原イ526。2003(平成15)年7月20日

佐原銀座商店会の通りがその北端で県道2号(水戸鉾田佐原線)にぶつかる。佐原信用金庫本店が南西角にあり、写真はその交差点の北西角。写っている建物はいつ頃建てられたのかよく判らない。「デコール」もなんの店だったか分からない。現在は写っている建物はいずれも取り壊されて空地になっている。

下の写真は同じ交差点の北東角から県道沿いの家並み。写真左からヤシロ洋品店、店名不明、和菓子の大和屋である。ここから県道沿いに成田線の線路を越えて少しいったとこまでが「仲川岸商店会」の商店街になっている。「麻兆」(佃煮)、「山田」(うなぎ)、「ほていや」(和洋菓子)などの観光客向きの店が目立つ。国道は北向きにカーブして、線路を越えた商店街の北端あたりに古い看板建築が3棟並んでいるのが興味を引く。その先はまた、「第一商栄会」という商店街になる。
写真のヤシロ洋品店は今では取り壊されて、右の写真中央の建物が現在の店になっている。


ヤシロ洋品店。香取市佐原イ465。2003(平成15)年7月20日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






根本時計店。千葉県香取市佐原イ471
2003(平成15)年7月20日

佐原銀座商店会の通りの北よりのところ。上の写真手前右は「柳湯入口」の路地。この辺りの通りの両側に、料亭風の和食の店が集まっている。懐石・ふぐの「そう馬」、割烹の「寿茂登(すもと)」、寿し・天ぷらの「香取屋本店」、天ぷら・うなぎの「天清(てんせい)」など。小野川沿いの運送業・卸業の旦那方が商用で使ったのかと想像してしまうが、営業している時代が合わないかもしれない。
写真の看板建築は「根本時計店」だった建物。『日本近代建築総覧』に「根本時計店、佐原市佐原(現・香取市佐原)、構造=木、施工=地元大工、いわゆる看板建築」で載っている。
千葉県の近代産業遺跡>旧根本時計店』によると、昭和13年に建てられた。向かいの「石毛たばこ店」が倉庫として借りるようになってだいぶ経つそうだ。2013・14年頃に改装されてレンガ風の壁に替わり、今は写真の面影はない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:銀座商店街の空家商店(1)
2003(平成15)年7月20日
左:鮒彦総本舗。ストリートビュー(2012年9月)より
千葉県香取市佐原イ496

香取街道の「小堀屋本店別館」の元銀行だった建物の横を北へ入った細い通りが、街灯に「銀座商店会」の表示を出した商店街である。『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』の「商店街組合の範囲」の地図では「佐原銀座商店会」で、それが正式な組織名かと思う。この商店街はけっこう長くて、北へ行った県道2号線(水戸鉾田佐原線)との交差点まで約300m続く。地元の人が日常の買い物をする商店街かと思うが、今は閉店してしまった店の方が多い感じだ。ストリートビューで最近の家並みを見ると2014年頃に外灯上部にあった「銀座商店会」の表示板を取り去ったようである。商店会は解散したのかもしれない。
写真は右奥へいくとすぐ小野川の共栄橋のところへ出る。左奥への通りが銀座商店街で、「横川岸商店会」が交差しているところ。横川岸商店会の通りは写真の交差点から西へ50mいって「横宿通り(県道55号、佐原山田線)」に出てしまう。
写真の店がなんだったか分からないが、今は取り壊されて更地になっている。交差点角の、鉄パイプの防護柵が今も残されている。
写真の家の左奥は、撮影時は佃煮の「鮒彦総本舗」で、その店舗を撮っておけばよかったが、SVで見ることができるのでその画像を出しておく。店舗に付属している平屋は佃煮の製造所だったのだろうか。今は平屋の部分は取り壊され、店は「ひろのスープカレー」という店に替わった。



銀座商店街の空家商店(2)。香取市佐原イ496。2003(平成15)年7月20日

鮒彦総本舗の北のアパート式の店舗で、今も写真の状態のままで残っている。建物の左の店は美容院だろうか。右の方は見当がつかない。写真左奥の黄色い壁の家は、現在では取り壊されて更地になっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:中橋下流右岸(1)
千葉県香取市佐原イ3412
2003(平成15)年7月20日
左:中橋。『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』より

上の写真は小野川の中橋の辺りから下流(北)の右岸を撮ったもの。左の写真は「小野川と佐原の町並みを考える会」による『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』(1993年)というレポートからお借りした写真で、1980年頃撮影のものかと思う。戦前と思われる写真があって、それとの比較で出ている写真だ。画面の左半分が上の写真の範囲と重なる。古い写真の左端に写っているビル風の建物とその右の寄棟屋根の後ろに切妻屋根になっている家が上の写真で共通である。その右の家は古い写真では戦後の商店に見える。それを建て直したのが上の写真の右手の伝統的な様式の日本家屋の住居に見える家、ということになる。
今は写真左の2階建てのビル風の家も、切妻屋根出桁造り下見板格子戸の家に建て直された。



中橋下流右岸(2)。香取市佐原イ3412。2003(平成15)年7月20日

1枚目写真の左に続く家並み。平屋の家は長屋だろうか? 右に、もっと長く続いていたのかもしれない。今は下見板の洋館風の家に建て替わっている。建て主が、伝統的な街並みを復元するのはいいが、使いにくいから和風でなくて洋館風で勘弁してくれ、というような経過を想像してしまう。



中橋下流右岸(3)。香取市佐原イ3413。2003(平成15)年7月20日

3枚目写真の左に続く家並み。写真左端の看板建築が「多田畳店」で、その左に「山野病院」がある。この家並みは今も変わらない。ここまでの家並みで店名が分かったのは多田畳店だけ、ということになってしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ワーズワース。千葉県香取市佐原イ491。2003(平成15)年7月20日

小野川の忠敬橋の下流(北)の次の橋が共栄橋で、写真手前右のフレーム外にその橋がある。つまり写真手前は橋詰広場のような場所で、写真左のフレーム外に「カメラの三越」の廃ビルが目立っている。写真右に二階建ての町家が3棟並んでいる。そのうちの左の家と写真中央の平屋の家とが、店名が分からないが元材木商だった。モルタル壁の平屋は材木商を廃業した後、貸店舗として建てたものではないかと思う。昔は材木置き場だったのだろう。
材木商だった家は2012年に「ワーズワース」というイタリアンのレストランに替わった。東日本大震災で家を修復する際、レストランとして改装したのだろうか。モルタル壁の平屋は取り払われて、その裏にあった小さな土蔵(下の写真、左奥の瓦屋根)が表面に出てきた。電柱後ろのトタン屋根の家は建て直されたのかもしれない。
橋詰広場が整備されたことによって、新宿地区の諏訪神社の秋祭りで、山車や踊りの見物には格好の場所になったようだ。



ワーズワースになる前の元材木商。2003(平成15)年7月20日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ