ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田中湯。墨田区墨田5-46。2019(平成31)年3月2日

南北の鐘ヶ淵駅前商店街の中央辺りに東西に横丁が通っている。商店街から横丁を東に入ったところにあるのが田中湯。『風呂屋の煙突>田中湯』によると、戦前からの銭湯で、現在の建物は昭和27年に建てたものという。昭和22年の航空写真に写っている建物があるが、それを建て直したものになるらしい。
写真奥に写っているのが平屋の長屋と二階建ての二軒長屋。戦前からあるものと思われる。



平屋の三軒長屋。田中湯の通りから横の路地を撮った。



二軒長屋。この裏に、半分改築されているが、2棟の二軒長屋がある。写真左の、前面に増築している方は、1978年の住宅地図に「細谷ゴム」の記載。



平屋の二軒長屋。3枚目写真の左に写っている建物が「グリンゲイブルス」(1991年8月築、4戸)というアパート。「春風荘」というアパートを、1階を駐車場にして建て替えたものだ。その裏に写真の平屋の長屋が残っている。

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佐京洋食器製作所。墨田区墨田5-46。2019(平成31)年3月2日

鐘ヶ淵駅の駅前広場から鐘ヶ淵駅前商店街に入って、小沢理容店の5・6軒先にある二軒長屋。昔の航空写真を見ると、元は六軒長屋くらいだったらしい。その北の二軒が「太平食品」に替わり、さらに残った四軒の両端が取り壊されたり建て替わったりして二軒長屋として残った、ということではないかと考える。
一軒は「佐京洋食器製作所」、もう一軒は1階を車庫にした民家。ストリートビューで見ると、佐京製作所に木製のスプーンの写真が出ているので、木工所なのだろうか? その左側の一軒が取り壊されたのは2015年のことらしい。

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小沢理容店。墨田区墨田5-45
2019(平成31)年3月2日

東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の鐘ヶ淵駅から北へ向かう細い通りの商店街があって、「鐘ヶ淵駅前商店街」という。周囲は空襲での焼失を免れた地区である。鐘ヶ淵通りから南は焼失した地区になり、駅前広場の辺りも焼失したようだ。
ほのぼの「B級商店街」歩き>[№69]鐘ヶ淵駅前商店街歩いた日(2012年)』には「墨田区商連の商店街リストにはないのですが、駅前の北側に「鐘ヶ淵駅前商店街」の名を掲げる古びたアーチがあって、その先に商店街らしき空間が続いています」とあるが、現在、「鐘ヶ淵駅前商店街」の表示の部分がとれてしまっている。他に商店街名の表示もなさそうなのだがいいのだろうか?

戦前築の店舗や長屋は、今はほとんどが建て替わっているわけだが、小沢理容店は建築時の面影をよく残している。『出没!アド街ック天国>墨田区鐘ヶ淵(2010年)』によると、戦後すぐの開店。頭を洗うときは「こちらへどうぞ」という形式だという。昭和40年頃まではそれが普通だったように思う。建物どころか設備の更新もないような様子だ。長年のお得意さんがいるのだろう。

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東京大学工学部3号館。文京区本郷7-3
1989(平成1)年9月10日

弥生門の外から撮った建て替え前の工学部3号館。弥生や池之端を歩いていた時に、ついでに撮ったもので、旧3号館はこの写真しかない。内田祥三の設計で1939(昭和14)年に竣工した。平面は正方形の、弥生門に向いた角を切り落としたような五角形で、中庭の弥生門側に4階建ての部分が張り出している。
セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ』というサイトがあって、古いことを知るのに参考になる。『5角形の工学部3号館』には「工学部3号館は昭和16年(1941)〈?〉7月に、電気工学科・船舶工学科の建物として建てられた。地上3階(一部4階)地下1階、延べ面積6,285㎡と記されている」とある。また、「電子工学科」が設置されたのが昭和33年で、そのため研究室などが必要になって4階を増築した。
2010年に3号館を建て直すために解体された。新しい建物は内田ゴシックの外観が復元された。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には「建築が連なってつくる外部空間の質がキャンパスにとって重要であるとの認識と、特に歴史的地区においては、建築の外皮だけでも残すべきだという、キャンパス空間特有の価値判断があった」としている。ぼくは無理に復元しなくても、と思ってしまうがどんなものだろう?



新・工学部3号館、南側。2019(平成31)年4月18日

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東京大学工学部13号館
文京区本郷7-3
上:2019(平成31)年4月18日
左:2007(平成19)年12月15日

工学部13号館は本郷キャンパスの北にある弥生門を入ると、右手(北)に見える建物。『日本近代建築総覧』には「東京大学電気工学実験室、建築年=昭和5(1930)年」となっている。1974(昭和49)年の住宅地図には「電気工学第一実験所」、1986(昭和61)年のそれでは「電気工学/経理部」という記載。合金の電気的性質や性能を検査するのだろうか? あるいはより基礎的なことを実験しているのだろうか? 
建物平面は正方形の角の一つを三角形に切り取った五角形の、壁面の半分が窓のない3階建ての建物を中心に、2階に増築の3階部分を乗せた棟と平屋の棟がくっついた形である。実験室とその付属棟からなると思われる。東大の建物の中では変わった外観で、興味を引かれるのだが、これという情報がないのが残念だ。現在は「電子情報工学科、電気電子工学科」などが使っているらしい。
弐號舘>東京大学工学部13号館』というサイトで取り上げられている。



13号館と工学部4号館の間を奥に入って裏側を見る。2019(平成31)年4月18日

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東京大学工学部2号館。文京区本郷7-3。1989(平成1)年10月15日

『日本近代建築総覧』では「東京大学工学部2号館、建築年=大正13(1924)年、構造=RC4階建、設計=内田祥三」。関東大震災以前に建設が始まった建物である。内田が東京大学の中では最初に設計したものという。内田ゴシックと言われるスタイルが確定する前の過渡期のデザインになるかと思う。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)に、内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972年)が営繕課長になるまでの履歴を簡単にまとめた部分があるので、引用する。

内田は1907(明治40)年に東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、三菱合資会社に勤務し実務に携わるが、鉄筋コンクリート構造の研究のため1910(明治43)年大学院入学する。その後1911(明治44)年には講師、1916(大正5)年に助教授となり1919(大正8)年には塚本靖教授より工学部2号館の設計を任される。学外での仕事に精を出す佐野利器教授に代わり学内での業務に専念することで内田の学内での評価は上がり、さらに大講堂の設計も任される。1921(大正10)年には教授となり、さらに1923(大正12)年7月に古在由直総長たっての依頼により営繕課長を委嘱される。奇しくもこの営繕課長兼任の2か月後の9月1日に関東大震災が発生する。

2005年に工学部2号館の改修、増築が竣工した。全体の半分を残し、後ろを撤去してそこに12階建の新建築を乗せた形になった。

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東京大学工学部6号館。文京区本郷7-3
1988(昭和63)年1月30日

『日本近代建築総覧』では「東京大学工学部6号館(旧総合試験所)、建築年=昭和15(1940)年、構造=RC3~4階建、設計=内田祥三」。昭和15年だから内田ゴシックの建物のなかでも遅い竣工だ。その後に農学部3号館が昭和16年で、内田ゴシックの最後の建物になるのかもしれない。
4階の増築が屋上に施工されている。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、香山壽夫助教授(当時)の設計による。法文1・2号館の屋上増築が1976年、工学部6号館の屋上増築と室内改修が1981年の完成となるようだ。屋上増築部のかまぼこ型にしたデザインは見事に本体と調和していて、外見上は気にならない。
1985年にはいよいよ工学部の拡充も追いつかなくなり、香山助教授による工学部再開発計画案が1986年に出来上がる。予算などの関係で実際に動き出すのは1990年からだ。
6号館は保存されたが、窓枠が新しくなっている。工学部1号館の改修は1996年だが、6号館の改修も同時期だろうか?



東京大学工学部6号館。2007(平成19)年12月15日

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東京大学工学部1号館。文京区本郷7-3。1989(平成1)年10月15日

『日本近代建築総覧』では「建築年=1935(昭和10)年、構造=RC4階建、設計=内田祥三、施工=戸田組」。1974年の住宅地図に「建築工学/土木工学」の記載があるので、主に建築学科が使っているらしい。
下の写真では建物がなんとなく別物に見えると思ったら、窓が改修されているせいだった。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、1995年から改修に入り翌年竣工した。中庭を室内化し、背面(北側)に5階建てを新築した。外壁も補修し窓枠も取り換えている。この「リノベーション」については『香山壽夫|大学のリノベーション』というサイトに詳しい。


東京大学工学部1号館。2007(平成19)年12月15日

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五味自動車株式会社隅田工場。墨田区墨田2-17。2019(平成31)年3月2日

写真手前の四つ角の右手前が、当ブログ前回の「ネオコーポ墨田」(旧・東京護謨製作所)の敷地の北西角になる。五味自動車の工場の事務所棟が工場敷地の南東角にある。写真右奥が工場棟。
事務所棟は木造2階建て、モルタル壁の建物と思える。2階の窓の下に階段状の水平線、建物四隅の水平線、柱上部のメダリオンなどで飾られている。入り口のある方を見ると、建築時のものかと思える菱型の窓の桟が残っている。この辺りで、このようにはっきりと戦前築の洋風の建物、と分かる建物を見ることは珍しい。
五味自動車は『出没!アド街ック天国』で取り上げられて、自動車用タイヤを再加工する工場、つまり再生タイヤを製造している。つまりこの工場も周辺に多かったゴム工業で、今も稼働している工場ということになる。





五味自動車の南側の塀。奥は「都営白髭団地 白髭東アパート」。

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狸湯。墨田区墨田2-21。2019(平成31)年3月2日

当ブログ前回の通りからちょっと西へ引っ込んだ位置にある銭湯。下の写真の大嶋菓子店の横を入ったところが入口である。『東都よみうり>銭湯探訪』によると、大正12年に創建され、後に現オーナー(四代目)の初代に渡る、とあり、建物は戦災を免れたものという。「近くに鐘紡の大きな社宅やゴムなどの工場ができて、女湯の広い狸湯は人気が出た」というが、男は工場で風呂に入ってきてしまうため、客は女子供が多かったので女湯の方を広くして建てたようだ(『 REVIEW>2たぬき湯』)。
鐘紡の社宅というのは、戦前の地図に「鐘淵紡績会社住宅地」とある、鐘ヶ淵駅の南西、墨田2-12・42にあった大きな団地と思われる。



大嶋菓子店。墨田2-21。2019(平成31)年3月2日

写真奥のマンションは「ネオコーポ墨田」(1985年築、5階建98戸)という。そのマンションが建つ前は「東京護謨製作所」の工場だった。この辺りはゴムの工場が集中していたようで、1978(昭和53)年の地図を見ると、東京護謨から東武の線路の方へ「東都ゴム製作所」「長瀬ゴム工業株式会社第一工場、第二工場」「日興ゴム工業株式会社」と並んでいる。
1962(昭和37)年に「墨東ゴム工業会」が設立されていて、その『会報No.1』の名簿には、66社が挙げられている。その住所の主なものは、隅田町、寺島町、吾嬬町東、吾嬬町西、など。
1982年3月号の会報に各社の生産品目が載っていて、東京ゴム製作所のそれは「自動車用ゴム部品、医療ゴム、医療ゴム製品、一般工業用ゴム製品」。

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