ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




飯田邸。台東区上野桜木1-10。1990(平成2)年2月18日

正藤邸の北側の裏通り。写真左奥に写っているビルは「中銀上野パークマンシオン」(1970年10月築、11階建74戸)で言問通りに面している。そこは以前「浜野病院」があったところ。古い木造家屋が2棟並んでいるように見えるが、一部平屋のひとつの建物かもしれない。現在は建て直されている。



民家。台東区上野桜木1-10。左:2012(平成24)年5月17日、右:2007(平成19)年3月2日

1枚目写真の裏通りを手前に行くと三叉路に突き当たる。その角にあった民家。最近のストリートビューを見たら建て直されていた。右写真で左奥に入るとすぐ左(西)に曲がり、「台東桜木郵便局」の角に出る。
1枚目写真に写っている電柱の広告は「㈱葵フォトプリント」だが、2・3枚目写真の家がそれだった。

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正藤邸。台東区上野桜木1-9。2013(平成25)年11月9日

市田邸の裏手にあった、ドーマー窓を付けた急勾配の屋根が特徴の住宅。2017年頃に建て替えられてしまった。現在のグーグル地図では「㈱藤久サービス」(内装業及び清掃業)となっている。
屋根の形は洋風だが1階の外観は和風だ。『台東区近代洋風建築調査報告書「データ編」』(台東区教育委員会文化事業体育課、平成8年)に「正藤邸、木造2階建、モルタル仕上げ 近代和風住宅 昭和戦前」で載っている。写真の建物は「Google古地図>昭和22年航空写真」に写っているそれとは違うので、戦後の建築である。
敷地の南半分を庭にしていて、その庭の東半分に木造2階建モルタル壁、外階段のアパートを建てている。昭和40年頃の建築らしい。そのアパートは残っている。

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市田邸(表門と母屋)。台東区上野桜木1-6。2013(平成25)年11月6日

東京芸術大学の敷地の北を東西に通っている通りに面して、表門を構えている屋敷。以下、『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)の「市田家住宅」の記述を紹介する。
市田邸のある一帯は、寛永寺の支院のひとつである松林院の土地だったのを、明治中期に寛永寺が100坪単位で貸地・分譲し、次第に宅地化された。隣の「上野桜木会館」と共に屋敷町の歴史的景観を伝えている。
市田邸は明治40年(1907)に、日本橋で布問屋「市善商店」を営む市田善平衛により建てられた。善平衛は60歳になったのを機に長男に店を任せて、隠居所を建てて引っ込んだらしい。そこに家族の誰かが入り込んできたのか、大正初期に2階を増築する。『たいとう歴史都市研究会>市田邸』には「当初は平屋の建物でした。大正期に家族が増えたため、 平屋当時の桁に床梁をのせ2階を増築した「おかぐら形式」です」とある。
戦後は東京芸術大学声楽科の学生が多く下宿し巣立っていった家である。既サイトには「30名程」とある。「出船の港」なんかが通りに漏れ聞こえたのかもしれない。
家の配置と間取りは「敷地全体を塀で囲い、南東隅に腕木門、南半に庭を設け、起り屋根の玄関が取付く木造2階の母屋を中央に配置する。母屋は、南側を庭に面した縁側と座敷の接客空間とし、北側を居間・台所・風呂・女中部屋などの生活空間にするなど、当時の小規模な屋敷型住宅として典型的な姿を残す」「北西に木骨煉瓦造2階建の蔵」。
平成13年より、NPO法人「たいとう歴史都市研究会」が借り受け維持管理をし、地域の芸術文化活動の拠点として活用するようになった。平成17年に国登録有形文化財になった。



市田邸(蔵と母屋)。台東区上野桜木1-6。2013(平成25)年11月6日

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加賀町警察署。神奈川県横浜市中区山下町203。1987(昭和62)年8月9日

現在の加賀警察署の庁舎は1996(平成8)年3月の完成。写真は旧庁舎を横浜公園北東角の向かいの玄武門から中華街への通り(北門通り)から撮ったもの。肝心の庁舎の正面を撮った写真がないから、中華街へと歩いて行ってしまって、そのまま撮るのを忘れたのだろうか? 当日でなくても撮る機会はあったと思うが、縁がなかったというしかない。『週刊 横濱80’s>加賀町警察署』 で、1981年撮影の素晴らしい写真が見られるのでご覧いただきたい。
『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によると、写真の建物は1926(大正15)年5月の竣工、開庁式は6月10日。RC3階建、設計者は不明、施工は清水組。横から見た感じは、震災復興期の電話局の建物にありそうな外観だ。「昭和20年5月の大空襲で四周は灰燼に帰したが、この建物は書庫を失った外は存続した」。戦後は「進駐米軍の横浜地区MP本部が置かれ、左右翼をそれぞれが使い分けて共用した」という。



加賀町警察署。1987(昭和62)年8月9日

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日東倉庫日本大通倉庫。神奈川県横浜区中区日本大通14。1987(昭和62)年8月9日

三井物産横浜ビル」の裏にあった、その倉庫。三井物産ビル(現・KN日本大通ビル)と同じ遠藤於菟の設計で1年早い明治43年の建築。『日本近代建築総覧』では「日東倉庫日本大通倉庫(旧三井物産倉庫)、建築年=明治43年、構造=煉瓦造3階建、設計=遠藤於菟、施工=直営、備考=リンテル独立柱,屋根スラブがRC,地下1階,○(おすすめ品)」。
三井物産横浜ビルは日本で最初の鉄筋コンクリート造のオフィスビルとして、建築史の面で重要な建物で、それと一体で建てられた倉庫も、やはり建築史上で重要である。また、横浜の歴史を語るのに、生糸貿易ははずせないわけで、その具体的な形で残っていた倉庫は歴史的な面でも価値があった。
三井物産>会社情報>あゆみ>馬越恭平』に倉庫から馬車で生糸を運び出している写真が載っている。キャプションは「馬越恭平は旧三井物産横浜支店長として、生糸の輸出に尽力した。横浜支店での生糸の出荷作業」。



日東倉庫日本大通倉庫。2002(平成12)年1月14日

はまれぽ.com>旧日東倉庫の歴史を探る!』によると、「日東倉庫株式会社」は1959(昭和34)年2月に、三井物産株式会社から倉庫営業部門を分離独立させた会社。2013(平成25)年に「ケン・コーポレーション株式会社」の所有に替わって、三井物産横浜ビルは同年10月に「KN日本大通ビル」と名称が変わった。ケン・コーポレーションは昭和47年に設立された不動産売買の会社。
2014年5月に生糸倉庫の解体が横浜市に通告され、8月に神奈川新聞で報じられてから保存活動が活発になったようだ。「旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊して欲しくない人々の会」や日本建築学会、横浜市の働きかけは無視されて、2014年11月から翌年にかけて倉庫は取り壊された。現在は時間貸しの駐車場だ。そうなると当然三井物産横浜ビルのほうも取り壊しになるのではないかと心配になる。

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神奈川県産業組合館。神奈川県横浜市中区海岸通1-2。1991(平成3)年7月28日

横浜市記者発表資料』(旧神奈川県産業組合館を横浜市歴史的建造物として認定することになり、横浜市都市整備局都市デザイン室が平成 25 年 1 月に作成したその発表資料)によると、「旧神奈川県産業組合館」は、「神奈川県産業組合」(現在の農協(JA)の前身)の本部事務所として、1938(昭和13)年に建てられ、最近まで「神奈川県中央農業会館別館」として使われてきた建物。設計・施工は清水組、RC造3階建(一部地下1階)。
写真では「神奈川信用農協」の袖看板で、玄関上の文字は右から書きで「神奈川縣産業組合館」らしい。『はまれぽ.com>…旧神奈川産業組合館とは?』に竣工当時のビルの写真が載っている。そこに写っている文字のままである。2002年に撮った写真では、この文字は削り取られている。また、パラペットの穴が塞がれている。
同サイトによると、後ろの5階建てのビルは1961(昭和35)年に建った「神奈川県中央農業会館」。現在は2棟のビルが「JAグループ神奈川ビル」として建て替わった。2012(平成24)年8月に着工し、2014(平成26)年5月に竣工。2012(平成24)年6月に「旧神奈川県産業組合館」を歴史的建造物として保存・復元するように横浜市から要請があり、2013(平成25)年1月に横浜市の定める歴史的建造物として認定された。「JAグループ神奈川ビル」の一部として外壁などを保存・復元され、中は建物の歴史を伝える「JAギャラリー」となっているそうだ。



神奈川県産業組合館。2000(平成12)年7月9日

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横浜銀行協会。神奈川県横浜市中区本町3-28。1987(昭和62)年8月9日

1936(昭和11)年竣工、RC造4階地下1階、設計は大熊喜邦と林豪蔵、施工は清水組。
『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によると、外観の特徴として「鉄筋コンクリートの表面は、擬石盲(めくら)目地仕上げで、テラカッタの装飾が豊富に用いられている。テラカッタのデザインは極めて入念、多様、彫りの深い華麗なもので、全国でもこれほどのものは多く見られない。正面は7本の列柱が組み込まれ、狭い柱頭飾りが取り付けられている。玄関車寄せは単純な構成であるが、巧みなデザインである。大通りに続く側面の取り扱いはやや異なるが、二条の窓を落とし込んだ縦溝と同じく三条の縦溝が強いアクセントをつけており、三条の部分の上には、三角形の飾りが取り付けられて側面の構成として完璧である」としている。
大熊喜邦(おおくま・よしくに、1877-1952年)は国会議事堂の建設を統括した建築家。『ウィキペディア』には「1907年(明治40年)、大蔵省臨時建築部技師に就任し、各国の議事堂建築の調査や、議事堂建設予定地の敷地調査にあたる。一貫して官庁営繕に従事したが、最大のものが1920年に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と吉武東里の名が挙げられる。1927年、議事堂上棟式が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた」とある。
林豪蔵(1897~1975)は永く横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)教授を務めた人で、大熊の娘婿。『かながわの近代建築』には「前者(大熊)はむしろ名前を貸した程度で、実質的には林豪蔵の数少い作品の一つで傑作である」としている。


横浜銀行協会、裏側
2002(平成12)年1月14日

横浜銀行協会は関東大震災で被害を受けた「横浜銀行集会所」を建て直したものだ。旧建物は1905(明治38)年に遠藤於菟の設計の、セセッシオン風の当時としては斬新なデザインが有名になった建物だ。昭和11年に建ったビルも横浜銀行集会所の名称だった。
戦後は米軍に接収されて、将校クラブとして使われた。昭和28年に返還されたときに「横浜銀行協会」「横浜銀行倶楽部」の表札を揚げた。
4階は昭和40年の増築によるもの。『かながわの近代建築』には「昭和40年10月には、四階が創和建築設計の手で増築されたが、同社の吉原慎一郎社長は、原設計者林豪蔵の意を体して、銅板葺きの庇面とともに、創建時のままかと思われるほど巧みにまとめ上げている。この部分には、横浜手形交換所が置かれている」とある。
この建物を横浜でのアール・デコ建築の代表のように言われることがある。直線で構成されたデザインがアール・デコと結びつくわけだが、ぼくはあまりピンとこない。建物の上部に多く施されたテラコッタの装飾の扱いは、オットー・ワグナーのそれを連想させる。そうするとセセッシオン? なんだかむしろ離れてしまったかもしれない。

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横浜指路教会。神奈川県横浜市中区尾上町6-85。1988(昭和63)年8月6日

『日本近代建築総覧』には「日本基督教団指路教会、建築年=大正15年、構造=RC造、設計・施工=竹中工務店」。『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年、2900円)では「日本キリスト教団横浜指路教会」で、教会のHPもこの名称なので、これが正式なものらしい。「指路」は教会の設立者、医師・宣教師のヘボン博士がアメリカで属していた「Shiloh Church」を漢字表記しただけで、「行くべき道を指し示す」という意味はない。

美珍麗・探訪>指路教会』には「建築費の殆どを貿易商・成毛金次郎(ヘボン塾生/東洋貿易商会社長)が寄付し」と「設計担当:石川純一郎」と個人名が出てくる。石川純一郎(1897-1987)は横浜生まれ。1922年に東京帝国大学を卒業して竹中工務店に入社、1954年まで務めている。代表作といわれるのが大阪の「朝日ビルディング」(1931年、2014年取り壊し)。このビルは「昭和初期のモダン・ムーブメントを代表する事務所建築」で、石川は「インターナショナルスタイルの旗手」といわれたくらいだから(竹中工務店>竹中のデザイン>石川純一郎)、指路教会のような様式建築を手掛ける人には思えないのだが……。
『美珍麗・探訪』によれば、SRC造3階建て塔屋付。大正15(1926)年10月の竣工。1945年5月29日の横浜大空襲で内部を類焼、バラ窓のステンドグラスなどを失っている。戦後、屋根の葺き替え、サッシの取り換え等の修復が行われた。「平成の大改修」が1989年10月~1990年3月の工期で行われた。内容は外壁の補修、屋根をステンレスに葺き替え、室内の改装、空調の新設など。


横浜指路教会。1988(昭和63)年8月6日

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国際観光会館。千代田区丸の内1-8。2002(平成14)年5月4日

東京駅の八重洲北口を出るとすぐ北にあったビル。現在は「グラントウキョウ・ノースタワー」(大丸デパート、開業は2007年11月)が建っている。
国際観光会館は国鉄の東京駅構内に建設されたもので、1954(昭和29)年10月に開業した。「鉄道会館(大丸)」の開業と同時だったかもしれない。「ホテル国際観光」と観光関係の団体や会社の店舗と事務所が入るビルである。

建物の資料としては『ジャパンアーカイブズ>【1951年】丸の内(昭和26年)』の「国際観光会館(1丁目、八重洲口側)の竣工」という画像がある。パンフレットか雑誌の1ページと思われるが出典は判らない。建物の完成図と工事現場の写真2点に建物と会社のデータからなる1951年に発行されたものだ。タイトルは「待望の『国際観光会館』完成に驀進」。
建物の概要は「竣工:昭和29年6月、面積:敷地約1,200坪・建坪役7,500坪、構造:鉄骨鉄筋コンクリート近代様式、規模:地上8階・地下2階・昇降機7基・全館冷暖房換気装置完備、設計:土浦亀城建築事務所、施工:清水建設株式会社」。土浦亀城の設計としていいのか分からない。所員の引いた図面を見て「いいだろう」といっただけかもしれない。
施設内容は、ホテル部として「約2,500坪、1-8階(東側)客室92・宿泊人数200人」、会館部として「約5,000坪、1階:インフォメーションホール、2-8階:観光関係貸店舗・事務室、地下1階:旅客向諸店舗」。
会社要領には「商号:株式会社国際観光会館、設立:昭和26年3月22日、常勤役員:取締役社長:平山孝」などとある。

国際観光会館の地下に小さな映画館があった。列車待ちの間に時間つぶしに入るような映画館だったのだろう。ぼくは父に連れられて入ってその存在を知ったのだが、昭和35年よりは前だったようだがはっきりしない。漫画の「ウッドペッカー」をやっていた。その後も1・2回は入っているのだがなにを観たのか忘れた。『消えた映画館の記憶』によれば「観光文化ホール」である。

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日比谷パークビルディング。千代田区有楽町1-8。2004(平成16)年2月7日

1952(昭和25)年3月に「日活国際会館」として完成したビル。設計・施工は竹中工務店。地上9階地下4階建。
戦後初の大型ビルの建設ということで話題になった。地階の「潜函工法」は工事中から注目され、竹中工務店も宣伝に努めたらしい。「日活ホテル」(一般には日活国際会館というより日活ホテルの名で通用していたと思う)は完成時にはすっかり有名になっていたらしい。1階地階に店舗、2-5階がオフィス、6-9階に日活ホテル133室が入り、映画会社の「日活」の本社もこのビルに移った。
写真では壁は白いパネル状のものが貼られている。竣工時は淡い青のタイル貼りだった。地下の潜函工法による壁は、建て替わった「ザ・ペニンシュラ東京」でもそのまま使われている。

日活社長の堀久作(1900-1974年)は、松方乙彦(元総理大臣・松方正義の息子)の秘書だったが、松方から送り込まれる形で1934(昭和9)年に日活に入社、1945年に社長に就任している。日活に行く前は山王ホテルの経営に携わっていた。
戦後、日比谷交差点角の日比谷パークビルの土地は進駐軍に接収されて第一生命相互館にあったGHQの駐車場になっていた。1948(昭和23)年、「日本航空」から土地売却の話が持ち込まれ、堀は即座に購入する。都心の1300坪の購入金額はどのくらいだったのだろう? 堀はホテル、劇場、美術館などからなる国際的な複合施設の建設を構想して、GHQ、竹中工務店、銀行などに手を回す。ビルの着工は1950年1月。
映画界は全盛期を迎え、そのうちに斜陽産業に転落してしまう。堀は会社再建のため、1970(昭和45)年1月にビルを三菱地所に売却した。4月に名称は「日比谷パークビルヂング」に替わり、ホテルは廃業、オフィスビルになった。
2003年に解体され、2007年9月に「ザ・ペニンシュラ東京」が建った。元の日活ホテルに還ったようなものだろうか。

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