ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




井口工業所。中央区日本橋浜町2-24。1985(昭和60)年10月10日

新大橋通の浜町中の橋交差点の東の横町を北に入ったところにあった建物。撮影時は見た通りの住居だったようだが、昭和30年頃の火保図では「井口工業所/井口家」で、1979年の地図でも同様。現在は「プレールドゥーク日本橋」(2014年1月築、10階建37戸)というマンションに替わった。

下の写真は浜町公園の「清正公寺」の山門の向かい側。仕事場兼住居だろうか。写真右の看板建築風の建物が最近、マンションに建て替わったが、他の写っている建物は残っている。


民家。日本橋浜町2-46。1985(昭和60)年10月10日

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上:鯉万。日本橋浜町2-40
1990(平成2)年5月27日
左:セントギャルズ。日本橋浜町2-33
1987(昭和62)年4月26日

鯉万は明治座の裏にあった料亭と思われる建物。戦前は軒並み待合(待合茶屋)だったところで、戦後は料亭にかわって、昭和30年頃の火保図を見ると周囲に15軒ほどがある。鯉万はその地図では空白(空地?)で、あるいは高度成長期に乗って開業した店かもしれない。
現在は「浜町二丁目防災センター」で、空地と細長い小屋が建っている。

2枚目写真のビルは清州橋通り沿い、明治座のすぐ北にあった。日よけのテントに「㈱セントギャルズ」とある。昭和11年の火保図に「青雲堂印刷(コ三)〈コンクリート造3階建〉」とあり、ごく小さいが戦前に建てられたビルである。屋上に4階を増築している。
現在は周囲の建物と一緒に、「アクシア日本橋」(2000年10月築、15階地下1階建80戸)というマンションに替わった。

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共和ビル。中央区日本橋浜町1-2。1987(昭和62)年6月7日7

清州橋通りの久松町交差点(金座通りとの交差点)の裏手にあったビル。「共和レザー」と「東京ガス圧接㈱」の看板があり、その「共和レザー」の社名をビル名にしている。昭和30年頃の火保図に「正喜ビル(コ四〈コンクリート造4階建〉)」とあるビルで、『日本近代建築総覧』に「正喜ビル、建築年=大正14年、構造=RC造3階建、備考=復興助成K.K.?」で載っている。写真では4階部分が判らないが、増築しているのだろう。
昭和11年の火保図では「旅館巴館(コ三)」となっているので、戦前は旅館だったらしい。
現在は「アスコットパーク日本橋浜町」(2004年9月築、10階建33戸)というマンションに建て替わっている。



共和ビル。日本橋浜町1-2。1987(昭和62)年4月26日

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片岡一雅堂。中央区日本橋浜町1-7。1987(昭和62)年4月26日

日本橋浜町と言えば、今はまず明治座、後は浜町公園といったところだが、4・50年前なら料亭街で知られた。芳町の芸者の稼ぎ場である。明治中期から大正にかけて興隆、隆盛した。戦災で建物は焼失したが、すぐに復興したらしい。
片岡一雅堂は区立久松小学校の前の通りで、そこから東北へ、清州橋通りを超えた300mほどのところにある。ネットで調べると、今は掛軸などに表装する表具店だ。昭和30年頃の火保図に「(料理家)一雅堂」とあり、料亭の名前を引き継いでいるらしい。ただし店名からすると、表具屋としての名前にふさわしく、料亭だったときの名前が別にあったような気もするのだが。



浜町の章。中央区日本橋浜町1-10。2006(平成18)年19月17日

一雅堂の裏手に入ったところにあった料亭。昭和30年頃の火保図に「(料理家)浜町の章」で載っている。今は取り壊されて下をガレージにした仮建築のような家が建っている。

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木村屋パン店。茨城県土浦市中央2-10。2006(平成18)年11月15日

土浦市を通る旧水戸街道は土浦城の南を東西に通っている「中城通り」がそれ。国道125号から東は「本町通り」となり、すぐ北に向きを変える。写真は北に向いたところの本町通り。写真手前が曲がり角で、そこにある土浦商工会議所が「土浦宿本陣(大塚家)」があったところ。「本町」も「中城町」も昔の町名だが、今は「中央1丁目・2丁目」。
開店しているときの写真でないのが残念だが、木村屋は一つのショーケースに総菜パンなどを並べて売っている。銀座の「木村屋總本店」から暖簾分けした店という。確かにマークが同じだ。だとすれば、買うのはあんぱんだろう。



内田砂糖店。土浦市中央2-8。2006(平成18)年11月15日

旧水戸街道が北を向くところから100mほど北へいったところに残るモルタル仕上げの洋風の看板建築。『日本近代建築総覧』に「内田砂糖店、土浦市中央2-8-3、構造=煉瓦造2階建」で載っている。正面が3段に、少しずつ後退していく造りが変わっている。ネットでは昭和4年の竣工と出る。煉瓦造りとは驚いたが、外観からそのような特色がなにかあるのだろうか。

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東京ニューカンコウ。茨城県土浦市中央2-2。2006(平成18)年11月15日

国道125号(中央大通り)と旧東海道が交わるのが中央一丁目交差点。そこから100mほど南の、裏道沿いの駐車場の奥に見えている民家。農家の母屋かと思うのだが、「東京ニューカンコウ」というのはYahoo!地図にあったもの。自分の土地の駐車場の管理をしている会社かもしれない。
現在、大谷石とレンガの塀はなくなっていて、裾のレンガの部分だけが残っている。

下のレンガの蔵は上の写真の左端に写っているもの。家財を収納するための蔵だろう。2011年の東日本大震災で崩壊して、翌年あたりに撤去されたらしい(『東日本大震災写真保存プロジェクト>茨城県土浦市中央』)。


レンガ蔵。土浦市中央2-2。2006(平成18)年11月15日

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かげ山洋品店。茨城県土浦市中央2-1。2006(平成18)年11月5日

写真の通りは国道125号で、左手が土浦城の方向、右奥が土浦駅の方向で県道263号との交差点が近い。両側ともアーケードのある商店街になっている。駅前からの「中央大通り」の商店街かもしれない。写真の家並みの裏はすぐ裏通りが通っていて、その、家一軒分の幅に長く伸びているのが中央2丁目1番地。ストリートビューで現在の状態を見たら、その住所の建物が取り壊されて更地になっている。つまり写真の通り沿いの建物は右のビルも含めて全てなくなった。再開発のためらしいが、取り壊しになったのは、この1・2年のことらしい(『 townphptp.net>土浦その5』)。両側のアーケードも外されて、今は県道263号との交差点に向いた小さなビルの前だけに残されている。

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青い壁のビル。茨城県土浦市中央2-2。2006(平成18)年11月5日

前の通りは県道263号で、写真左手にすぐ国道125号との交差点。土浦駅西口から北西方向に500mほどのところになる。写真左の横丁は川口川の河岸だった道だったと思われる。
ビルの名称が判らないので見たまま「青い壁のビル」とした。1階の店は「Chubby(チャビィ)」という輸入子ども服と雑貨の店。1993年の開店という。その右に「Mahalo(マハロ)」というハワイ料理の居酒屋。他に看板がないので2・3階は空き室だろうか。
角のアールと奥まった縦長の窓が特徴だ。通りに面した軒の線が直線ではないので、正面は平面ではなく、わずかにカーブしている。なんとなく金融機関の建物だったかという気がするが……。

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花火屋酒店。江戸川区東小岩5-26。2018(平成30)年1月14日

千葉街道の総武線ガードの南、500mほどのところに平成24年に新たに建てられた「小岩図書館」がある。その向かい側に平家ながら銅板葺きの看板建築といっていい建物の酒屋がある。店舗の右、街道に面した日本家屋が住居だろうか。店舗の左、横丁の方に見えるのが倉庫らしい。
アウト・ドアめし>第14回「花火屋酒店 和傘の村のベルギービール」小岩で世界を体験しよう(2012.01.25)』に以下のように店の歴史が記されていた。「もとは和傘屋の屋号で、明治の頃は、傘屋で、昭和から酒を扱うようになった。/この辺は、水田が広がり、農閑期副業から始まった和傘作りが、大正末には傘屋の集落となるほど賑わいを見せた。/近くの善養寺には、傘職人川野竹松の碑がある。その関係する川野商店(和傘問屋)は現在、江戸東京たてもの園に移築されている。/この店は、昭和8年に建てられた。」
和傘は小岩の地場産業だったらしい。花火屋の名前も川野というらしいのだが、川野竹松や江戸東京たてもの園に移築された川野商店と関連があるのだろうか?



洋館付き住宅。東小岩5-23。2018(平成30)年1月14日

花火屋の裏手に残っていた古い民家。昭和22年の航空写真には、写真の民家の右に2棟、民家の裏のアパートのところに3棟、同じような家が並んでいる。その6棟は戦前に建てられた建売住宅か借家だと思われるが、そのうちの1軒が今に残っているわけだ。

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旅館敷島。江戸川区東小岩5-6。2005(平成17)年3月19日

柴又街道の、総武線のガードと千葉街道(東小岩四丁目交差点)との中間あたりを東へ入ったところ。写真左の車が止まっている道路は、柴又街道のすぐ東を平行に通っている裏道。柴又街道は盛土をして通したためだろうが、そこに出る道路は坂道になっている。そのためか、写真の辺りに立つと低湿地にいる実感があり、裏道には用水路が流れていたような感じがしてくる。後で昭和初年の地図を見ると、裏道に沿って川の表記があった。
写真の屋敷は右に門があり、門の右に、写真では切れてしまったが「旅館敷島」の看板が出ている。下の写真は上の写真の左奥から撮ったもの。
現在はここに6棟の建売住宅が建った。下写真手前の平屋の民家は裏の2棟を含めて残っている。


民家、旅館敷島。東小岩5-6。2005(平成17)年3月19日



民家。東小岩5-6。2005(平成17)年3月15日

2枚目写真の民家の手前は、現在は駐車場になっているが、そこに建っていた民家ではなかったかと推察した。写真右奥へ行くと2枚目写真になるという見当だ。

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