ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




竹平寮。千代田区九段南1-2。2000(平成12)円4月9日

竹橋の少し北、内堀通りから清水堀越しに見た竹平寮(大蔵省財務局が管理)。竹平寮後ろの「東京堂千代田ビル」(1977年竣工、20階建)は撮影時には「さくら銀行本店」。右のビルは「九段第二合同庁舎」(東京法務局、1986年竣工、14階建)。
竹平寮という4棟の団地は『日本近代建築総覧』には「竹平寮(旧憲兵下士官アパート)、建築年=昭和10年、構造RC3階建、設計=大蔵省営繕管財局、施工=安藤組、備考=3棟」(「3棟」となっている訳は不明)。建築名は旧町名が「竹平町(たけひらちょう)」だったのに由来する。現在の九段南の町名は1970(昭和45)年から。
竹平寮は上と下の写真を撮った2000年中に取り壊されたようだ。跡地に千代田区役所+九段第3合同庁舎が完成したのは2007年(平成19年)5月。



竹平寮1号棟。2000(平成12)円4月9日

現在、千代田区役所、九段第二合同庁舎(東京法務局)、東京地方検察庁九段庁舎の3棟のビルが建つ敷地は、戦前は憲兵司令部と佐官以上の官舎、一般隊員用のアパートがあったところである。そのアパートが2000年まで残っていたのは、戦後すぐ、焼け出された都民を収容したからで、居住者がいなくなるまで、ということは養老院に移るか死んでしまうまで待っていたというだ。

公安調査庁が1952年(昭和27年)7月に設置されると憲兵司令部だった建物に入った。『日本近代建築総覧』には「公安調査庁(旧憲兵司令部)、九段南1-2、建築年=昭和10年、構造=RC3階建、設計=大蔵省営繕管理局、施工=安藤組」とあり、竹平寮と同じである。『都市の体温』(枝川公一著、井上書院、1988年、1400円)に、憲兵司令部庁舎の工事概要が載っているが、それによると4階建で、昭和22年の航空写真からも4階建てに見える。その跡地に建てた九段第二合同庁舎が1986年竣工なので1984年頃まではあったのかもしれない。
司令部の東にあった上級隊員用の宿舎は一戸建て住宅で、12戸ほどがあった。



竹平寮2号棟。1990(平成2)年5月27日

『都市の体温』は昭和60年頃の取材で書かれている。「竹平アパート」の章には、中島氏(税理士、74歳、昭和20年12月に入居、夫婦の二人暮らし)の部屋が、「6畳、4.5畳、玄関の間2畳、台所2畳で、全120戸のうちの12戸の間取りになる。風呂はなく神保町の銭湯(梅の湯?)へ出かけた。住んでいるのは61戸」としている。



竹平寮4号棟、3号棟。1986(昭和61)年9月23日

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ジェクツ。神奈川県横須賀市深田台41
2014(平成26)年2月28日

上町(うわまち)銀座商店街になっている県道26号(三崎街道)の西に、上町と深田台(ふかだだい)の町境になっている裏通りが、県道と平行に伸びている。写真の家はその裏通りにある家で、みどり屋呉服店の裏の向かい側になる。
側面が石積みの防火壁で、平坂の釜屋金物店と同じである。間口は釜屋の方が広いが、形は同じで商家の造りである。こちらの方は塗り屋造りになるのだろうか。釜屋は大正初期に建てられたものというが、ジェクツも同じ時期の建築なのだろうか? だとするとかなり貴重な建物である。
今は外観に合わないが「ITサポートセンター」「パソコン個人教授」の看板を出している。

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スペース三季。神奈川県横須賀市上町2-1。2014(平成26)年2月28日

みどり屋呉服店から南へ数軒行った並びに、みどり屋と共に上町(うわまち)銀座商店街に残る銅板貼り看板建築を代表するもう1軒の家がある。「スペース三季(さんき)」というアンティークショップに、「F.ROUTE」という貸しギャラリー、カフェの「FOREST」を併設している。
建物は昭和初期に建てられた木造3階建ての看板建築で、「蓬莱屋」という旅館だった。戦前は「海軍指定旅館」で、いわゆる軍人旅館と言われたらしい。入隊する兵隊との面会や見送りに来る家族が利用した(東京湾要塞の軍事施設>関連施設>海軍指定旅館)。いつ頃まで旅館をやっていたのだろう? 三季になったのは1975年頃のことらしい。
ほぼ総3階建てだが、3階の右が引っ込んでいるのは後ろ側を基準にして長方形に造っているからで、正面の1・2階の右側が前に出ているようだ。屋根の庇が前に出ているので、看板建築らしくない感じもするが、とにかく旅館としては珍しい造りである。



スペース三季。横須賀市上町2-1。2014(平成26)年2月28日

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みどり屋呉服店。神奈川県横須賀市上町2-1。2014(平成26)年2月28日

県道26号(三崎街道)沿いに南北に伸びている上町(うわまち)銀座商店街に残る銅板貼り看板建築といえば、まずこの建物があげられる。昭和5・6年に建てられた時の外観がよく残されていると思われる見事な看板建築である。1970年頃から祭礼用の関連商品の専門店になったというが、間口の広い店舗をすべて1軒で使っている。横須賀の人はお祭り好きなのだろうか。
1階両端のショーウインドウの裾のタイル。欄間の格子模様の色ガラス。6枚のガラスの引き戸はよく磨かれている。2階の正面は縦長の窓を並べた洋風の外観。元は上げ下げ窓だったようだ。また、パラペットが手の込んだ造りだ。

みどり屋の左は小さな看板建築の家で「うわまちギャラリー」という貸しギャラリー。以前は化粧品店だったのを改装して開店した。

みどり屋の右は駐車場だが、ここにも看板建築が建っていた。『神奈川の近代建築探訪>横須賀の看板建築(上町その2)』や『アクトデザイン凛太郎のブログ>横須賀散策④(2012.03.03)』に記録されている。



うわまちギャラリー、みどり屋呉服店。2014(平成26)年2月28日



みどり屋呉服店。2014(平成26)年2月28日

みどり屋呉服店を裏から見ると2棟の家からなっているように見える。右側の方が古そうだから、左側は店舗の裏に増築した部分なのかもしれない。

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小田原呉服店、風呂敷屋。神奈川県横須賀市上町1-46。2014(平成26)年2月28日

じゅりあん美容室の南に続く街区で、そこを南から撮っているので、じゅりあん美容室は写真右奥である。東栄不動産柳屋衣料品店の向かい側になる。
写真左の建物は古い日本家屋の表を看板建築風に板で囲ったもの。横丁との角は「小田原呉服店」で、写真でも営業しているかどうか心もとない感じだがアーケードに下がっている看板は残っている。同じ建物の隣は「風呂敷屋」で、着物の古着や着付けのチェーン店の横須賀店。その右は「横浜家系逗子家」というラーメン屋。2階には「喜多方ラーメン麺ロード」の看板が残っているが、アーケードで隠されているから問題ないのだろう。今、ストリートビューを見ると、やはりラーメン屋だが「横浜家系工藤家」に替わっている。また、アーケードに吊るされていた各店の看板は今は取り外されている。



テーラーたかなし、花久。横須賀市上町1-46。2014(平成26)年2月28日

3階建てのビルの鯛幸というたい焼き屋の隣は瓦屋根の日本家屋で、「テーラーたかなし」。店のHPには昭和29年5月創立とある。その隣は銅板張りの看板建築で、「花久生花店」。その右は2階建ての長屋風の簡単な造りの店舗が並ぶ。看板を見ていくと「高城食品、島森企画(読売新聞売店?)、田村物産、空家?、だるま八百屋、アサイホーム(不動産)」。



島森企画、田村物産。横須賀市上町1-46。2014(平成26)年2月28日

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じゅりあん美容室、ファミリー電気商会。神奈川県横須賀市上町1-54。2014(平成26)年2月28日

京急横須賀中央駅の西のガードをくぐって南へ上っていく平坂とそれに続く県道沿いの商店街が「上町(うわまち)銀座商店街」。両側にアーケードを架けた歩道が延々と続くような感じである。平坂を登り切った辺りが上町1丁目交番交差点。そこから東へ「中里通り」が分岐している。写真はその交差点の南の東側の街並み。写真右のビルが交差点の角にある。
銅板貼りとモルタル壁の看板建築に平屋の日本家屋の店舗が並んでいる。「じゅりあん美容室」の右の空き店舗はアーケードに吊るされた看板では「加藤商店」だろうか? ファミリー電気商会の建物には「有限會社根岸綿寝具店」の文字が残っている。「KⅡ」は2012年11月にオープンした「渋谷系アパレルブランド専門店」ということだが、アーケードに吊るされた看板では「たこ焼」と読める。



じゅりあん美容室、ファミリー電気商会、KⅡ

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三幸倉庫。中央区新川1-4。1987(昭和62)年12月20日

亀島川に架かる新亀島橋から北の方角を撮った写真で、左端に永代通りの霊岸橋が写っている。3棟の倉庫は三幸倉庫(三幸株式会社京橋倉庫)。現在は「新川三幸ビル」(1990年3月築、10階地下1階建)というオフィスとマンションのビルに建て替わっている。写真撮影後、1・2年で倉庫は取り壊されたのだろう。
戦前の火保図では「渋沢倉庫」で、やはり3棟が並んでいる。それが空襲で焼失し、戦後すぐは焼け出された住民用にバラックの仮住宅が建てられたらしい。昭和25年頃の火保図には13戸の木造トタン葺きの家が記されている。三幸倉庫が建ったのは昭和30年頃かと思う。


串八珍新川店。新川1-3
2010(平成22)年7月20日

1枚目写真の左奥に柳と木造の家が見える。「割烹増田屋」で、戦前からある料理屋。建物は戦後間もなくのものだろう。その手前が新川と亀島川との合流地点だったところで、新川は昭和23年から24年にかけて埋め立てられた。増田屋の横の新川の跡は今も広場のような空地で、資材置場・駐車場に使われている。増田屋は酒問屋や倉庫業を背景に繁盛したと思うのだが、今はいつのまにか「串八珍新川店」に替わっている。

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三協鋼鉄。中央区新川1-3。1987(昭和62)年5月31日

永代通りの霊岸橋から撮った写真で、石垣の下は亀島川、緑地は霊岸橋袂の小公園。写真左の小屋はトイレかと思う。三協鋼鉄の建物は昭和22年の航空写真に写っているもののようだ。昭和7-11年の火保図にはないからそれ以降に建てられている。昭和27年頃の火保図ではコンクリート造で「木下商店」。写真からはごく小さいビルに見えるが、写真右のビルと接する側面は裏の通りまで延びているので、見た目の倍くらいの面積がある。
「三協鋼鐵株式会社」のHPによると、航空機用の部品を制作する会社へ鋼材などを納品している会社で、沿革に「1968年5月|東京営業所を東京都中央区新川1丁目3番2号に土地建物を購入・移転。」とある。
現在は同じ敷地のままで建て直されていて、沿革には「1990年1月|東京営業所所在地、……に地下1階地上9階のNAXビル(延1120㎡)を建設。地下1階より地上3階までを当社本社業務及び東京営業所として使用、4階以上を賃貸とし営業を開始。」とあるから、写真の建物は撮影後1・2年で取り壊されたと思われる。

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湊橋。中央区新川1。1987(昭和62)年5月31日

日本橋川が隅田川に出る河口付近、日本橋箱崎町と新川1丁目を結んでいる橋。最初に架けられたのは1679(延宝7)年という歴史ある橋だ。写真の橋は震災復興橋梁で、1928(昭和3)年に竣工した3径間鉄筋コンクリート製アーチ橋。
三連アーチの橋だからかなり珍しいと思うが、路上からでは親柱がなく、ごく地味である。下流の豊海橋(とよみばし、1927年)の方が、形の面白さで注目度は高いようだ。
1989(平成1)年度の整備で綺麗になったのが下の写真。コンクリート打ちっぱなしの側面にタイルを貼りレリーフの飾りをつけた。手すりも作り替えている。


湊橋。2010(平成22)年7月20日

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丸玉ビル。中央区新川1-18。1987(昭和62)年5月31日

日本橋川が隅田川に出る河口に架かるのが豊海橋(とよみばし)で、その一つ上流に架かるのが湊橋。日本橋箱崎町と新川1丁目を結んでいる。その袂にあったのが写真のビルで、写真左端は橋の袂の小公園。下の写真が湊橋から撮った日本橋川に向いた裏側。古い倉庫の横と上に増築したビルと思える。



丸玉ビル。新川1-18。1987(昭和62)年5月31日



多奈加。新川1-18。1987(昭和62)年5月31日

丸玉ビルの隣の古い倉庫。居酒屋の「多奈加」が看板を出している。いつの間にか取り壊されて駐車場に替わってしまったが、5年位前にはあったように思う。



中央区立図書館>地域資料』より、昭和43(1968)年5月に京橋図書館が撮影した写真。左は「湊橋から新川一丁目を望む」、右は「新川1丁目付近」
右写真で「牧原」の倉庫が3枚目写真の多奈加。その右の倉庫は「森六商事」の倉庫。左写真にはミツカン酢の倉庫が写っている。『日本近代建築総覧』に「ミツカン酢倉庫群、新川1-18、建設年=大正13年?、構造=RC」で載っている。

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