ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




清和荘。品川区東大井2-25。2017(平成29)年6月24日

京浜急行立会川駅付近で、京急の高架線と旧東海道との間の、小さな製作所も多く混じる住宅街にあるアパート。何だか知れないが「清和荘」という名前がしっくりとくる。左写真右奥のアパートは「藤ハウス」、左裏は「三喜荘」。



看板建築の民家。東大井2-19。2015(平成27)年5月30日

前の通りは第一京浜と旧東海道を結んでいる通りで、写真右へいくと旧東海道沿いの大石電機工業の前に出る。建物はモルタル仕上げの看板建築で、なにかの製作所の事務所兼住居だったような感じだ。裏は平屋でそこが工場だったのではないかと思う。
下の写真は看板建築の横を入ったところにある平屋の製作所。地図には「殿塚工芸所」と出てくる。看板の文字の製作をしているようだ。


殿塚工芸所。東大井2-19。2015(平成27)年5月30日

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立会川橋。品川区東大井2-23・3-28
2015(平成27)年5月30日

立会川橋は第一京浜(国道15号線)の、立会川に架けられた橋。一応、親柱と欄干があるのだが、橋長、つまり川の幅は10mしかないので、車で通行する場合は橋を渡っているという認識する間もなく通過してしまうだろう。
『ウィキペディア>国道15号』によると、第一京浜は1885年(明治18年)に国道指定にされた「1號國道」がもとになっている。大正期になると交通量の増大で改築が必要になり、神奈川県が1918年(大正7年)に工事に着手、東京府も1920年(大正9年)に八ツ山橋から六郷橋までの工事に着手する。東京側の工事は1927年(昭和2年)11月28日に完成した。なお、1919年(大正8年)と1921年(大正10年)に幅員を広くする工事変更を行っている。「一級国道15号」に指定されたのは1952年(昭和27年)12月4日。



立会川橋。左:2015(平成27)年5月30日、右:2017(平成29)年6月24日

「1号国道」に架かる橋ではあるが、ごく短い橋のせいか、「大正十三年八月竣工」の銘板がある親柱も、コンクリート板のような欄干もごく簡単な造りだ。

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浜川橋。品川区東大井2-27・28。2015(平成27)年5月30日

浜川橋は旧東海道が立会川を渡している橋。浜川とはこの辺りの地名だったもので、浜川小学校、浜川中学校、浜川公園、新浜川公園、浜川ポンプ所、などが立会川の両岸に点在している。
天祖諏訪神社>東京あれこれ』で『大正風俗スケッチ 東京あれこれ』(竹内茂雄 画/文、1987年、国書刊行会)という本の、立会川に関係した6作品を見ることができる。大正3年の日付のある「なみだ橋と立会川河岸の魚市」の絵があり、その文章には「歴史的背景を知ってか知らぬでか大正時代に大井町役場は橋標を「はまかわばし」に代えてしまった。なみだ橋では昔の暗い史実を忌み嫌ったのかもしれないが残念な事である。」として、「それから五十年経っても「はまかわばし」といっても知る人は少ない「なみだ橋」といえば知らない人は無いくらい、庶民に馴染み深く溶け込んでいる。」のだそうだ。
欄干はコンクリート製で三連アーチを並べた低いもので、かさ上げしている。「昭和九年十二月竣工」のプレートが親柱にはまっている。親柱の上の街灯は複製されたもので、平成19年3月末に設置された。


浜川橋。2015(平成27)年5月30日



弁天橋。大井2-28・24。2015(平成27)年5月30日

浜川橋の一つ上流に架かるのが弁天橋。南に渡ると(上の写真は北を見ている)天祖諏訪神社があり、境内には厳島神社も祭られていて、そこからの命名らしい。親柱に「昭和六年八月竣工」のプレートがはめられている。欄干は浜川橋と同様に低いので、四角い鉄パイプでかさ上げしている。欄干の柱の間に鉄枠をはめているのが珍しい。


弁天橋。2015(平成27)年5月30日

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日増屋。台東区池之端2-7
1986(昭和62)年4月18日

不忍通りの池之端二丁目交差点の北、千代田線根津駅の手前にあった和菓子屋の「日増や」とラーメンの「日増屋」。上の写真を撮った時は、向かい側にみのぶ印刷もあって、特異な建物が向き合っていた。
江戸東京たてもの園へ移築されて公開されたのが1999(平成11)年11月なので、解体されたのは1998年だろうか。その直前、1996年に撮られた写真を『Tokyo Lost Architecture>日増や(村上精華堂)』で見られる。また、『東京ダウンタウンストリート1980's >台東区池之端』には1982年撮影の写真が載っている。その写真ではベランダの柵が松の形にくりぬかれた壁のコンクリート製。江戸東京たてもの園では「村上精華堂」として展示しているので、根津駅付近の日増屋と結び付けているサイトはこの二つだけかもしれない。現在は増渕ビル(1999年1月築、5階建てマンション)に建て替わって、1階でラーメン屋は続いている。
『日本近代建築総覧』では「日増屋、設計者・施工者=不詳、建築年=昭和3年、構造=木造3階建、備考=いわゆる看板建築、香料屋(ビンツケ油)と云う」。
史跡写真集村上精華堂』によると、村上精華堂の創業者は村上直三郎で、化粧品の製造・卸し・小売りを行っていた。ファサードのデザインは彼のものではないかという。台東区浅草向柳原に支店があり、1942年からはそちらが本店になり、戦後の1955年から池之端の店は化粧品店はやめている。1967年に2代目に引き継がれると、和菓子と中華料理に商売替えしたということらしい。
1966年の地図では、住所変更の前なので「池ノ端七軒町」に「村上精花堂、前田米店、豊田、三神歯科、福田」と並んでいる。1969年の地図では「日増屋、前田米店、豊田、三神歯科、桧山」。


日増屋の並びは、岩瀬米店とびすとろ楽屋(レストラン?)、三神歯科医院と民家。池之端2-7。1989(平成1)年4月29日

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東京電力浅草サービスセンター。台東区西浅草2-27。1992(平成4)年6月7日

国際通りの公園六区入口交差点からかっぱ橋本通りに入ってすぐのところにあった東電の営業所。写真のビルとその後ろの浅草変電所を建て替えたのが現在の、1階にミニストップが入ったビルだ。いつ建て直されたのか分からないが、旧ビルの撮影後まもなくではないかと思う。その新しいビルには「テプコ浅草館」という施設があり、東京電力の文字と大きなマークがついていた。2011年3月の東日本大震災で福島第一原発の事故を起こして以来、東電はPR活動を自粛してしまったらしく、テプコ浅草館も5月には閉館した。今はビルに東電の文字が見当たらないが、Googleマップは「東京電力㈱浅草変電所」としてある。
写真のビルは昭和初期の震災復興期のものと推定がつくが、『日本近代建築総覧』では「東京電力浅草サービスセンター」という建築名と所在地しか記載がない。上の写真で、サービスセンター(SS)の後ろにあるコンクリート壁のビルは「東京電力浅草変電所」で、やはりSSと同じ頃に建てられた建物かもしれない。写真を撮っておかなかったのが残念だ。



東京電力浅草サービスセンター。西浅草2-27。1992(平成4)年6月7日

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浅草今半。台東区西浅草3-1
1992(平成4)年6月7日

国際通りの公園六区入口交差点、かっぱ橋本通りとの角にある「浅草今半」の「国際通り本店」の旧店舗。浅草今半は昭和3年3月に雷門の店から分離独立して、このビルを建てて開店した。
一見してそんな昔の建物には見えないが、左の写真が浅草今半のHPにも出てくる建築当時のもの。すき焼きの店だから和食を意識して、一階は和風に改装している。昭和3年に建てたころは、肉といえば西洋のものという明治の気分が残っていて、洋館の建物にしたのかもしれない。
現在の建物は2008年に建て替えたもので、10月の開店。旧店舗を再現したようなデザインにしている。つくばエクスプレスが2005年8月に開通して、その浅草駅の出入り口が浅草今半の右のYS-2ビル(1999年3月築)に出来た。

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福島クリーニング店。荒川区東日暮里4-24。2006(平成18)年4月9日

根岸の御行の松不動尊の近くである。割と広い通りが東西に通っていて、写真右(西)へいけば尾竹橋通りに出る。左はすぐ信号のある交差点で、そこを南へ曲がるとすぐ御行の松で、すなわちかつて音無川が流れていて台東区との境である。写真の通りの北側は、街区が東西と南北の道路によってきちんと整備されている。1925(大正14)年3月18日の日暮里大火後の土地区画整理事業によるものかもしれない。昭和22年の航空写真を見ると、写真の通りを境に、南側が空襲では焼かれずに済んだ地域だ。
写真の長屋は、福島クリーニング店の三軒長屋とみどりや調剤薬局の三軒長屋とが接するように建っている。左端の壁は窓がないので、もう1軒あったものを取り壊して駐車場にしたものだろう。各戸ごとに改装されている。
わりと最近まで残っていたが現在は同じデザインの3階建てのアパート2棟に建て替わっている。そのうちの1棟が不動産のサイトに載っている。「コンフォートヒロ」というマンションで、2014年5月築、3階建6戸。



みどり調剤薬局。東日暮里4-24。2006(平成18)年4月9日

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四軒長屋。荒川区南千住1-57。2007(平成19)年8月3日

円通寺の裏手の風見酒店(現在は住宅に建て替わった)の向かい側。二階が後退した切妻屋根の、よく見るタイプの四軒長屋である。南側の端の家には「荒川区議会議員浅川喜文後援会事務所」の字が硝子戸に貼ってある。北の端の1軒だけが総二階建てのようになっているのは、二階の前面に増築したのかもしれない。
四軒長屋の北隣はモルタル壁の看板建築で「川又」という居酒屋。
現在、川又は住宅に建て替わっている。四軒長屋は最近取り壊されて、2016年12月撮影のストリートビューでは更地になっていて、裏にある古い民家が見えている。


四軒長屋。南千住1-57。2007(平成19)年8月3日



三叉路。南千住1-57。2005(平成17)年7月31日

1枚目写真の奥に茶色の鉄板で補修された家が見えるが、三軒長屋である。その先にあったのが三叉路角の上の写真の家。二軒長屋ではなかったかと思う。今は2棟とも住宅に建て替わっている。

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風見酒店。荒川区南千住1-55。2007(平成19)年8月3日

日光街道(国道4号)沿いに円通寺がある。彰義隊士の墓や黒門、それに吉展ちゃん事件で有名だが、その裏手の路地のような裏道に風見酒店があった。長屋風の家の1階の屋根がベランダになっていて、その下の壁をモルタルで凝った看板にしている。それも2棟の家にめぐらしてあるようだ。銅板を貼って作った文字で「和洋酒食料品」「風見本店」「電話浅草七七七五番」と右から読むように貼られている。上端には雷紋。
隣はミナミという美容院だか床屋。「本日は閉店…」として以来開店したことがあったのだろうか? ドアに斜めに渡した取っ手がとにかくレトロ。
現在は2棟の住宅に建て替わっている。



ミナミ美容院。南千住1-55。2007(平成19)年8月3日



四軒長屋。南千住1-52。2007(平成19)年8月3日

区立瑞光小学校の南の路地に残っている四軒長屋。玄関などは改装されているが、瓦屋根や2階の壁や戸袋の下見板が見られる。

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田森文具店。荒川区南千住1-32。2005(平成17)年7月23日

日光街道(国道4号)の、常磐線のガードの少し北にあった看板建築の家並み。左から「青木薬局、田森文具店、松島商店、明治洋行(電器店?)、しもた屋」。看板建築の長屋に見えるが、昔の航空写真からは右の2軒は二軒長屋だが左の3軒は独立した建物のように見える。現在は「ライオンズ東京三ノ輪レジデンス」(2015年2月築、15階建56戸)というマンションに替わった。



看板建築の三軒長屋。南千住1-32。2005(平成17)年7月23日

1枚目写真の街道の裏通りにあった銅板張り看板建築の三軒長屋。長屋の裏(1枚目写真の裏でもある)は「公春院」という寺で、長屋は公春院の家作だったのかもしれない。現在は跡地にスチールの倉庫が置かれている。
長屋から右へ行くとすぐジョイフル三ノ輪商店街の入り口になる。この裏通りはその辺りでゆるくS字状にくねっていて、川の跡か思える感じだ。そのまま南へ延長すると常磐線のガードをくぐって荒川区と台東区の境の通りに続く。その通りは音無川(石神井用水)の跡で、その川は山谷堀へ落ちていた。山谷堀は江戸時代初期の開削のようで、それ以前は90度曲がらずに、そのまま北へ向かっていたとすれば、写真の裏通りがその流域かと思えるのだが。

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