ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




日の出運輸。荒川区荒川1-39。1989(平成1)年2月19日

前の通りは明治通りで、荒川一丁目交差点の辺り。右(南東)へ175mで常磐線のガードをくぐるという場所だ。関東大震災後に建てられた看板建築が並んでいる。明治通りは大震災後に整備されたが、この辺りでは昭和5-7年頃の工事になるらしい。写真の建物もその頃に建てられたのだろう。
上の写真の右に続くのが下の写真で、「板橋タイヤ商会、布施金網、つり具河野、星電気」の看板が読める。
現在、この辺りは明治通りの両側ともマンションが立ち並んでしまった。写真の看板建築や長屋が立ち並んでいた一画は「東京アルパタワー」(2002年1月築、31階建171戸)というひときわ高層のマンションが建っている。



板橋タイヤ商会。荒川1-39。1989(平成1)年2月19日

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二軒長屋。荒川区南千住1-39。2013(平成25)年11月6日

写真奥で突き当りになる道路は、ジョイフル三ノ輪商店街の2本北の裏通り。まっすぐな道なので近年整備されたもののようにも見えるが、江戸期からある田圃と武家地(江戸切絵図の右上に見える「百姓地」と「石川日向守」の屋敷)の境の道かもしれない。この裏通りに北から斜めに入ってくる道は昔の農道の名残なのだろう。写真の古い長屋の向かい側も、2本の路地が左右からぶつかって「K」形の交差点になっている。
写真の長屋は、外装は替えられているが、形はそう変わっていないように見える。屋根に瓦を戻してトタン葺きの壁を下見板にすれば原形に復するような感じがする。防火用水は戦時中から同じ位置に置かれていたものだろうか。



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左:魚常。荒川区南千住1-34
右:雪印牛乳三ノ輪販売所。南千住1-33。2013(平成25)年11月6日

当ブログ前回と同様に、ジョイフル三ノ輪商店街の北に接する住宅街を見ていく。東京大空襲では焼けなかった区域で、ところどころに戦前築と思われる家や長屋が見受けられる。改装されてそれとは見えなくなっている家もあると思う。当然、建て替えられた家が多いが、まとめて大きなビルに替わってはいない。
上の写真はジョイフル三ノ輪の北の裏通りとみまつや(三松屋製麺)の横丁との四つ角にある魚屋と牛乳屋(小山牛乳店)だった家。



左:三軒長屋。南千住1-33
右:中村工業所。南千住1-34。2013(平成25)年11月6日

左写真は魚常と小山牛乳店と間の路地。トタン葺きの家は古い三軒長屋、モルタル壁の家は二軒長屋だ。その路地を北に抜けると、魚常の裏通りのさらに北の裏通りに出る。そこに出桁造りの民家が残っていた。1969年の地図に「中村工業所」となっている。

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左:みまつや。荒川区南千住1-30
右:平屋の四軒長屋。南千住1-31。2013(平成25)年11月6日

みまつや(三松屋製麺)はジョイフル三ノ輪商店街を東から入ってすぐの路地を北へ入ったところ。「三松ソバ」で1969年の地図に載っている。
右写真はみまつやの路地の東の、さらに細い路地に残っている平屋の四軒長屋である。Google Mapで見ると、写真の四軒長屋の斜め向かいにもやはり平屋の四軒長屋の端の1軒だけが残っている。



鈴木工業所。南千住1-30。2013(平成25)年11月6日

ジョイフル三ノ輪の北の裏通りにある出桁造りの民家。モルタル壁の家は、「認可工場」の表札があるので民家に接して建てられた工業所らしい。「鈴木工業所」としたのは推定。

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フェリス女学院1号館。神奈川県横浜市中区山手町178。1993(平成5)年5月5日

『日本近代建築総覧』は「フェリス女学院、中区山手町178、建築年=昭和4年、構造=RC3階建、設計=森山伊望(松之助)、施工=宮内建築事務、他に平家建1棟」という記載。
フェリス女学院の歩み>関東大震災の頃』には、「1929年6月13日新校舎の献堂式がおこなわれました。新校舎は地上2階地下1階の鉄筋コンクリート造り、外壁は長野県産の鉄平石で覆われ、荘重な雰囲気を醸し出す建造物でした。博物室、理科その他の特別教室が完備し、……」とある。3階部分は増築ということになるが、2階までできた時点で献堂式をやってしまったということだろう。通りに向いた側は先頭アーチ窓が並んでいる。その内部がカイパー記念講堂なのかもしれない。ゴシック様式の教会を連想させ、ミッション系の学校であることをアピールしたデザインかと思う。
設計者の森山伊望についてはなにも分からない。『かながわの近代建築』(河合正一著、かもめ文庫、神奈川合同出版、昭和58年、630円)には、「設計者は森山伊望で、アメリカ人建築家・ボーリーズの助力もあったといわれる」と記されている。たぶんヴォーリズのことだろう。



フェリス女学院1号館。1993(平成5)年5月5日



建て替えられた1号館。2016(平成28)年12月23日

1号館は2000年に取り壊され、2002年9月に改築されて現在の建物に替わった。通りから見える部分は旧校舎のファサードが復元された。景観は確かに旧のままで、一応は評価していいかと思う。当然かもしれないが、鉄平石の貼り方までは同じではない。

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旧アイリン・ヴェロス邸。神奈川県横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

山手本通りのフェリス女学院1号館の向かいにある洋館。上と下の写真は約25年前のものだが、今も周囲の様子も含めてほとんど変わらない。建物は前に出た玄関を中心にした左右対称に近いが、左側に平屋の部分が伸びていて、屋根の勾配がゆるいので、全体に横に長い印象を与える。通りに合わせたカーブした低いコンクリートの塀と外灯を乗せた柱は、建物鑑賞の邪魔をしない。
現在はBB Studioという会社が「YOKOHAMA HILL」というスタジオとして使っている。家の内外でモデル撮影や物の撮影をするらしい。個人の家ではないので、遠慮なく家を撮ることができる。横の路地を抜けて裏側に回ることができ、そこには塀はなくて、家の裏庭に入ってしまったような感じである。
『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007)では「旧アイリン・ヴェロス邸、建築年=1930(昭和5)年、設計・施工=不詳」。



旧アイリン・ヴェロス邸。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日



旧アイリン・ヴェロス邸裏側。2016(平成28)年12月23日

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山手46-4番館。神奈川県横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

山手本通りの汐汲坂交差点の南西角にあった洋館。現在は塀と門はそのまま残っているが、建物は3階建てのビルに建て替わって、表札は「有限会社岡田倉庫」と「BLUFF46」とがある。
『日本近代建築総覧』には「46岡田邸、中区山手町46B、建築年=昭和、木造2階建て」となっている。壁面や煙突が2本あるところなど、『細田邸、岡田邸』に似ている。



山手46-4番館。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

汐汲坂交差点から西へ行って46-4番館の西側を撮った写真。写真左奥にオレンジ色の屋根の家が写っている。汐汲坂交差点南東角にあった家らしい。そこは現在、駐車場になっている。写真では古い洋館のようにも見えるが、撮影していないので割と新しい普通の住宅だったのかもしれない。
写真右のガレージは、現在は46-4番館の裏の家への通路のようになっているから、撮影時でも裏の家の通路兼車庫だったのだろう。現在は車庫は取り払われて門ができており、そこに「Rique’s Garden」とある。造園業者で、鉄格子の扉から覗いたのが下右写真。庭造りのヒントになるような物を展示したような空間になっている。



左:山手46-4番館。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日
右:Rique’s Garden(リークズガーデン)。横浜市中区山手町46。2016(平成28)年12月23日

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61番H邸。神奈川県横浜市中区山手町61。1997(平成9)年6月2日

山手本通りの代官坂上交差点の南東角に横浜ユニオン教会がある。その横の南に下がる坂道の向かい側に写真の家があったと思う。
『日本近代建築総覧』に「61H(個人名)邸、建築年=昭和9年、木造1階建て、設計・施工=前山作次」で載っている。改めて写真で見ると、わりと最近の普通の住宅のようにも見えるのは、屋根の形と瓦がそんな感じだからだろうか。実際に見ると、玄関の大谷石の柱や上げ下げ窓と見える縦長の窓に目にいくので、疑いもなく洋館と認識できた。
横浜市の近代建築>H邸』には「洋と和が溶け合うことなく、摩訶不思議に同居し」とあり、平成15・16年には解体されたという。下の写真では上の写真にはない植木が残っていて、上の写真はすでに取り壊しが決まって整理に入っていたのだろうか。



61番H邸。横浜市中区山手町61。1993(平成5)年5月5日

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横浜ユニオン教会グリーンハウス。神奈川県横浜市中区山手町66。1993(平成5)年5月5日

山手本通りの代官坂上交差点の南東角に横浜ユニオン教会がある。その教会堂の後ろにある建物が写真の「グリーンハウス」という「青少年のための施設」。建築的にどうという建物ではないようで、取り上げられているサイトは見かけない。山手本通り側にある教会堂は2003年11月に完成したものなので、それまではこの建物が教会堂として使われてきたらしい。「グリーンハウス」の名称も新教会堂ができた後から付けられたのだと思う。
横浜ユニオン教会のHPには「1910年に500人収容の教会堂が山手に建築されましたが、関東大震災で壊滅し、その後の会堂も第2次大戦の横浜大空襲で焼失」とあり現在の教会堂が「3度目の新会堂」とあるから、戦後から2003年までは今の教会堂のところには建物はなにも建っていなかったのだろうか? 1枚目の写真の左端に民家のようなものが写っているが、それがどういう家だったのかは当然憶えていない。



横浜ユニオン教会グリーンハウス。横浜市中区山手町66。1993(平成5)年5月5日



近影。2016(平成28)年12月23日

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左:南千住砂場、南千住1-27。右:藤野青果店、南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

南千住砂場はジョイフル三ノ輪商店街の中ほどにある日本蕎麦屋で、ウィキペデイアにも項目がある老舗であるが、ネットの情報では店そのものはごく普通の日本蕎麦屋らしい。ウィキペデイアには「現在の店舗は1954年(昭和29年)の普請で、東京の昔のそば屋を偲ばせる、風情ある木造建築である」とある。「荒川区の重要文化財の指定を受けた建物」としているサイトが多いが、荒川区のホームページにはそのような記述は見当たらない。普通に考えても区の重要文化財になるとは思えない。
藤野青果店は砂場の横の路地の向かい。『テレビ東京>旅グルメ>【6位】ジョイフル三ノ輪(南千住) 』には「大正10年創業。名物は、年間70樽は作るというぬか漬け。ラインアップはおよそ15種類もある」とある。



左:旧みよし鮨、右:兵之助刃物店。南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

藤野青果店の建物は3軒の店が入る長屋形式のもので、戦前に建てられたものと思われる。上左写真はその右側の店で、空き店舗だろうか。「みよし鮨」は1969年の住宅地図から。
その隣が兵之助刃物店。この店の建物もやはり戦前からのものかと思われ、店名もなにやら老舗のような感じを受ける。藤野青果店も同様だが、看板を取り付けている1階上の梁のような壁面が下向きに傾けていて、両端に丸みをつけて上部に段をつけている。このような造りは、みのや米店や大津屋(総菜屋)にも見られる。この商店街の店舗の標準仕様だったかのような感じだ。



左:相州屋(和菓子)、右:大津屋(総菜)。南千住1-20。2013(平成25)年11月6日

「RAZZA」と書かれた店の横に路地があって、そこを左へ行けば荒川線の線路。逆に右にも路地があって、その方は路地の片側が家1軒分くらいの幅の公園になっている。「瑞光公園」という児童公園だ。開園は昭和32年12月。昭和22年の航空写真と『戦災焼失区域表示帝都近傍図』を見比べると、公園になっている線は建物疎開で建物が取り払われた跡のようだ。

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