ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




オサダ、フロリダキッチン。中央区銀座8-5。1986(昭和61)年5月11日

舶来品の店・オサダがあるのは花椿通りと並木通りとの交差点の角。写真右奥へ行くと外堀通りに出る。花椿通りの両側は空襲での焼失を免れたようなので、写真の低層の店舗は戦前から建っていた可能性がある。正面は戦後の改装になるのだろう。1986年の住宅地図では「オサダ、フロリダキッチン、ジャック&ベティ(写真ではゲームイン)、宝仙堂(写真では「汁八」という店かもしれない)、オサダ(第二号店)」。
オサダ(輸入洋品店)はそのHPによると1971年の開店。フロリダキッチンは洋食屋と言っていい店構えだ。昭和30年頃の火保図に出ている。宝仙堂は建て替わったビルでドラッグストアを営業しているので薬局なのだろう。その隣はソニー通りとの角で、オサダ2号店は1号店と同じ金色?のタイル張りのような外壁の看板建築風の建物。
現在は1989年10月に建った「オサダビル」及び「プラザG8ビル」という8階建てのビルに替わっている。ビルの名称は2つあるようだが同じ建物だ。
「フロリダキッチン」をネット検索したらウィキペディアの「ゾルゲ諜報団」という項目の中にあった。写真の店とは関係ないのかもしれないが気になるので一応述べておく。ゾルゲは1933(昭和8)年に日本に入国する。「会合するための場所として、銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」を指名」とある。その店と思われる画が『懐かしの銀座・浅草』(画=小松崎茂、文:平野威馬雄、毎日新聞社、昭和52年、2000円)にある。全面ガラス張りのレストランである。その明るい店内で情報のやり取りをしたのだろうか。

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銀座ビガロ、たてべ雑貨店。中央区銀座7-6
上:2004(平成16)年2月7日
左:1986(昭和61)年2月2日

歩道があるのが銀座の花椿通りで、西五番街の通りとの角に写真のような古い建物が2005・6年まで残っていた。戦後すぐのバラックなのかもしれないが、『焼跡・都電・40年《下町》』(林順信著、大正出版、昭和62年、2000円)で昭和22年の航空写真を見ると、花椿通りの両側は空襲を免れたらしい家が黒く写っている。たてべ雑貨店のファサードは戦前の看板建築としていいような割と凝った造りだ。ということで、戦前からある建物ではないかと思うのだが……。
ビガロは看板の文字が読めなくてなんの店なのか判らない。西五番街側の隣は「銀座チャンピオン靴店」。
現在は「アソルティ銀座花椿通りビル」(2007年10月築、11階地下1階建)という1-3階にブランドショップが入ったビルに替わった。


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東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)。文京区湯島1-5。1938(昭和13)年

母のアルバムにあった駿河台で撮った写真。日付は記載がないが昭和13年と思われる。右の写真に写っているのが母らしいが、当時18歳ということになる。元の写真が直焼きと思われる小さなものなのでスキャンしても解像度は低い。左の写真は本郷通りの聖橋の南で撮っている。学生らしいのが二人写っている。通行人がたまたま写ってしまったようではなく、二人を立ち止まらせて写したように見える。母とその妹を学生二人が駿河台辺りを案内して歩いた時の写真かと推測してみたが、はたしてどんなものだろう?
聖橋の対岸に写っているビルが今の東京医科歯科大学で、1935(昭和10)年8月に竣工した校舎・病棟である。当時は「東京高等歯科医学校」で、「東京医科歯科大学(旧制)」となるのが1946(昭和21)年8月。
コの字型平面の建物だったのを、戦後、ゆがんだロの字型平面になるように増築している。現在、最初に建った中央部分が「2号館」として残されている。ぼくはこの稿を書くまで国立大学だとは知らなかった。
落合道人>島峰徹もビックリの地下式横穴古墳群。』に、建設現場から地下式横穴の古墳群が出現したことが紹介されている。1934(昭和9)年4月のことだったという。後に調査報告書にまとめられている。また、「同校の設計・建設を指揮していた大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦」という一節があり、設計者が記されている。

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第一金森ビル(病院会館)。文京区湯島1-5。1987(昭和61)年5月

写真手前は本郷通りで、信号は湯島1丁目交差点。蔵前橋通りが分岐する地点で、本郷通りを横断している車は外堀通りから順天堂医院と東京医科歯科大の間を来て春日通りの方向へ向かっている。本郷通りには王子駅-通三丁目(日本橋)の19番の都電が走っていて、「湯島二丁目」電停があった交差点だ。昭和46年3月17日で廃止された。
角のビルは昭和22年の航空写真に写っているビルのようなので戦前に建てられたものと思える。1986年の住宅地図では「第一金森ビル」だが、1969年の地図では「病院会館」で、東京医科歯科大附属病院と関係があるのだろうか。白いタイル張りの壁、押上窓の階段室が塔屋になっていて、ビルの後ろは2階建て。
湯島1-5は東京医科歯科大とその附属病院がほとんどを占める。その北西の角に一般のビルが数棟、本郷通り沿いに並んでいた。1986年の地図では第一金森ビルから左へ「エルマ㈱/東洋炭素、伊藤伊ビル」、写真には写っていないが「大和建設㈱/大和産業」。現在は第一金森ビルと東洋炭素が取り壊されて駐車所になっていて、その左は「ミリオンプラザお茶の水」(2004年1月築、13階建て47戸)というマンションと「お茶の水医学会館」(2014年5月竣工)に替わっている。

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廣和ビル。文京区本郷2-17。1988(昭和63)年10月16日

壱岐坂の通りの壱岐坂通り交差点の北側のすぐ西に「廣和紙業」という会社が入る廣和ビルという4階建ての小さなビルがある。写真の3階建てのビルはたぶんその旧ビルだと思う。現在、写真左の看板建築が残っているようなのだが、写真では黒くつぶれていて同じ建物かどうか分からない。写真に写っているビルはみな建て替えられていて、廣和ビルだという決め手はないのだが、他に思いつく場所もない。昭和22年の航空写真ではではその存在がはっきりしない。どうもまだ建っていないようだ。
1986年の住宅地図では、左から「茂木商会」、横丁が入っているように見えるのは奥に「江戸製版印刷」「広和ビル、壱岐坂平和マンション」、看板建築のような建物は無視されていてネジの看板が「神戸ビル」。神戸ビルの右が弓町本郷教会のある横丁である。

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借家。文京区本郷2-35。2007(平成19)年2月16日

弓町本郷教会の前を南へ行ってすぐのところに同じ木造の民家が2軒並んでいた。戦前に借家として建てられたものだろう。この辺りの古い航空写真を見ると、広い庭付きの、お屋敷と思われる家が点在している。そういう屋敷の敷地に建てられたものではないかと思う。右の家の方が原形に近いようで、それを見ると全体に日本家屋の造りだが、正面1階はモルタル壁に洋風の窓を2つ開けている。玄関の脇に洋館風の一室を設ける文化住宅の変形だろうか。
現在は2軒とも、またその裏の住宅も取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。2013年7月撮影のストリートビューにはまだ右の家が瓦屋根に網をかぶせた状態で残っている。


借家。1989(平成1)年5月5日



大谷石の塀。本郷2-35。2007(平成19)年2月16日

1・2枚目写真の右の家の横は路地が東へ入っている。昔の航空写真を見ると、その路地に4軒の、同じ造りの借家が並んでいたようだ。1・2枚目写真の借家と外観はほぼ同じ造りだったようで、南の路地側に小さな庭があり、写真の石塀がそれらの借家と路地を区切っていたのだろう。石塀には出入り口がないようなので、玄関は北側の路地にあったらしい。

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民家。文京区本郷2-37。1989(平成1)年5月5日

弓町本郷教会の横を東へ春日通りと平行にいくとすぐ三叉路にぶつかる。その角にあった長屋風の家。写真右奥が春日通りで、春日通りに面して裏側を見せているビルは野口米店。写真の家は現在、5階建てのビルに替わっている。
春日通りとのもう一方の角はアライ理髪店のビル。アライビルというらしい。ぼくは見たわけではないが、ビルに建て替わる前は出桁造りの商家の前面を看板建築風にした建物だった。この辺りの春日通りは昭和60年頃に拡幅されたので、アライ理髪店の正面は横丁の側にあった。この床屋がかつて「喜之床(きのとこ)」といって、石川啄木が住んだことで有名な店である。
現在の店の入り口脇の壁に、平成4年に文京区教育委員会が設置した「啄木ゆかりの喜之床旧跡」のプレートがある。そこに「……喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年(1978)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている……」とある。明治村の喜之床は明治大正期の店構えを復元したものらしい。

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弓町本郷教会。文京区本郷2-35。1988(昭和63)年2月21日

春日通りの真砂坂上交差点から横丁を南へ入るとすぐ見えるのが日本基督教団に属する弓町本郷教会。『日本近代建築総覧』では「弓町本郷教会、本郷2-35-14、建築年=大正15年、構造=RC4階建、設計=中村鎮〈まもる〉、施工=不明、「中央美術」S2-10による」。
RC造とはいえ、正確には中村が考案した「中村式鉄筋コンクリートブロック」通称「鎮ブロック」による工法で、コンクリートブロック(塀などに使われる箱型ではなく平面がL型のものを組み合わせる)を積んで外壁を造り、ところどころに鉄筋を入れてコンクリートを流し込んで柱の代わりにするといった工法らしい。安上がりにでき工期も早かったと思われる。素人考えにも本格的な大きな建物はできそうもないが、119棟を函館や福岡に建てたようである(中村鎮による「中村式鉄筋コンクリート」の考案とその実際例[池辺絢子])。



弓町本郷教会。左:2007(平成19)2月16日、右:1988(昭和63)年2月21日

正面右に手前に出ている部分はタイルが新しそうで増築したものらしい。赤く塗られた屋根は葺きなおされているようにも見える。『本郷の回覧板『昔空間散歩の薦め』 ②楠木・弓町本郷教会・女子美弓町校舎コース』に「昭和43年頃の教会付近」を見下ろした写真が載っている。その写真では教会の屋根はフラットで屋上がある。赤い屋根は昭和43年以降に増築された3階部分だった。通りの方に出ている部分があるが、幅も高さも現在のものより短く、やはり改修されている。当サイトには弓町本郷教会の設立時からの歴史が述べられている。

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横浜地方気象台。神奈川県横浜市中区山手町99。2013(平成25)年4月18日

横浜地方気象台は2009(平成21)年に安藤忠雄の設計による新庁舎(第二庁舎)を建設し、写真の旧庁舎は補修と耐震補強が施されて内部も一般に公開された。ついでにだと思うが、気象台の南の通り沿いの土地(横浜税関職員宿舎の専用プールがあったという)に「ブラフ99ガーデン」という庭園風の公園を造った。
下の写真は気象台が増築補修される前の外国人墓地正門前からの光景。コンクリートの護岸の上に石垣がめぐっていて、その塀沿いを歩いていては気象台は見えない。今は公園の斜面と階段に替わって、気象台を眺める前景になっている。


横浜地方気象台。1997(平成9)年6月2日







横浜地方気象台。1997(平成9)年6月2日

横浜地方気象台の前身は1896(明治29)年に設立された「神奈川県測候所」。海岸通一丁目にあった。それが関東大震災で焼失、場所を現在地に変えて1927(昭和2)に完成した建物。設計したのは神奈川県営繕管財課の繁野繁造というまだ20代の若い技師。施工は出水組、構造はRC3階地下1階。


気象台裏の「公務員山手宿舎」の敷地にちょっと入って撮影した庁舎の裏。1997(平成9)年6月2日

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101吉田邸。神奈川県横浜市中区山手町101。1993(平成5)年5月5日

谷戸坂を上がり切った辺りにあった洋館。現在「オープンレジデンシア山手101壱番館」(2013年8月築、3階建て20戸)という低層のマンションが建っている場所だったと思う。『日本近代建築総覧』に「101吉田邸、中区山手町101、建築年=昭和初年、木造2階建」というのがあるので、とりあえずその建物ということにしておく。
神奈川の近代建築探訪』に「池袋28番館」という洋館が紹介されていて、それだと思って安心していたのだが、所在地からして異なっていた。

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