ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





港区役所赤坂支所。港区赤坂4-8
1988(昭和63)年4月17日

青山通りの東宮御所の向かい側に建つ「赤坂コミュニティーぷらざ」の先代の建物。赤坂区役所として建てられ、1947年に芝区、麻布区と合併して港区が成立すると、その支所になった。『日本近代建築総覧』では「港区役所赤坂出張所(旧赤坂区役所)、港区赤坂4-18、建築年=昭和3年頃、構造=RC2階建、設計=東京市」。外観のデザインは震災復興期の折衷主義のようだが、角の正面の単純な平面とそこから左右後方へ伸びる庇の線などが表現派風な感じを受ける。
『1960年代の東京』(写真:池田信、解説:松山巌、毎日新聞社、2008年、2800円)に1965年撮影の写真が載っている。その写真では正面玄関の前の植え込みはなく、玄関上のバルコニーの緑の壁はタイル張りと分かる。そこの文字も「港区役所/赤坂支所」で、後に取り換えられている。また、玄関の左側に「赤坂公会堂」の袖看板が目立つ。
ネットでは『港区>広報みなと2015.08.11写真今昔物語 第15話』に1966年撮影の写真を載せている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三和洋紙店。中央区入船3-4。2008(平成20)年7月14日

新大橋通りの入船橋交差点の北の横町を東へ入った、裏通りとの交差点。角の三和洋紙店とその右の御菓子司三陽の建物は看板建築にした長屋だ。昭和22年の航空写真や火保図を見ると2棟の長屋に見えるが、1棟の五軒長屋かもしれない。看板建築の造りは簡素で、戦後の改装かと思える。
三和洋紙店は1950年頃の火保図にすでに載っている。御菓子司三陽は昭和8年(1933年)の創業という。最初から今の店舗だったのかどうかは知らない。写真左の「中華そば萬金」は1950年頃の火保図では三和洋紙店の横、同じ建物に「中華万金軒」とあるから、戦後すぐはそこでやっていたのを後に移ったのだろう。
現在は三和洋紙店(長屋3軒分)が取り壊されて時間貸し駐車場(三井のリパーク)になっている。他の建物はまだ写真のままだ。



御菓子司 三陽。入船3-4。2004(平成16)年1月1日

1枚目写真の右奥から撮った写真。角の大木産業から右奥へ、だいたいが印刷所だった家が並んでいる。現在もそのままの家並みだが、印刷所として続いている家は減っていると思う。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





八百金。中央区入船3-1。1987(昭和62)年1月15日

新大橋通りの、入船橋交差点と入船二丁目交差点の間の東の裏通り。現在は「グラーサ銀座EAST〈レジデンススクエア〉」(2003年3月築、15階建て148戸)というマンションと「イオタ」の小さいビルが建っている。画面上で現在もあるのは後ろの白い壁の「ライオンズマンション新富町」(1985年8月築、9階建て46戸)だけだ。
写真手前の角に住宅(土屋家)、その右に看板建築が並んでいる。1986年の地図では手前から、「三友(プリントショップ?)、東都印刷、飛田(製本所)、交通安全出版、三平」。三平の横に路地が入っていて、カルピスの看板の左の看板建築が八百金。この店は戦前の火保図に「八百屋」とある店だろう。1969年の地図では「八百柳」になっている。



東信物産。入船3-1。1988(昭和63)年1月4日

1枚目写真の右奥に続く町並みで、写真左の空地は八百金の跡。現在写真の範囲は稲田屋のビルも建て替えられて、同じような大きさの3棟のビルが並んでいる。
下見板の洋館は会社の事務所として建てられたものらしい。現在の「東信入船ビル」(1991年3月築、8階建て)と1950年頃の火保図の「東信物産KK」から、「東信物産」とした。1969年の地図では「土屋児童文庫」となっているが、なんだったのだろう。
稲田屋酒店の右に「矢崎ビル」があってそれが新大橋通りに出る横町との角。画面右端の瓦屋根の家は横町の向かいの「井上内科医院」。矢崎ビルは1950年頃の火保図にすでにある「中華美寿々」があったところ。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )





三上喜一郎商店、文集社印刷。中央区入船2-6。2008(平成20)年7月10日

新大橋通りの入舟町一丁目交差点の一つ南の横町を東へ入ったところ。周りはほとんどがビルに替わった中で、取り残されたように戦前から建っていると思われる古い家がわずかばかり見られる。現在は看板建築の文集社印刷は取り壊され、材木店は廃業したらしく、家は残っているが「電承社資材倉庫」の看板に替わっている。建物の左右の中途半端な位置にある庇はなんだろうと不思議に思う人は、少ないだろう。
写真左手、ビル2棟の先にトタンとモルタルの看板建築(車庫と共正社島佐製本所)が残っている。



平田建設。入船2-1。1988(昭和63)年1月4日

新大橋通りの入舟町交差点を東へ入ったところ。「平田建設」は1979年の地図にあったもので、1986年の地図では「ソーコ」。右の路地は奥で左へ曲がり、新大橋通りへ出る。
現在、入船2丁目1番地は「住友入船ビル入船ハイツ」(1990年2月築、14階建て地下2階)というビルが建っている。そのビルの敷地かと思えるような新大橋通り沿いには「RICO」という一軒家のカフェがある。古い看板建築が残ってしまったものだが、入船ハイツの平面プランはその家にだいぶ影響されたようである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





佃大橋交差点角の看板建築。中央区湊3-11。1987(昭和62)年12月20日

鉄砲洲通りが佃大橋の通りの下の道路に出る角(佃大橋交差点)にあった銅板貼り看板建築。その左のモルタル壁の看板建築は「湊水産」と「文祥堂製本」。そちらは『岩崎パン店、他/湊3丁目』で紹介している。銅板張りの家は戦前の地図に「カフェー」とあったが、戦後の地図では商店名や会社名では載っていないので数十年前から仕舞屋になっていると思われる。
現在は「日輪」という会社のビルに建て替わっている。そこのHPに「2006年2月、新本社ビル竣工」とあるビルだと思う。写真右のビルも「日輪ビル」。銅板張りの家と湊水産とを含めて建て直したのが現在のビルになるらしい。



左:水野商店。湊3-12。2008(平成20)年7月10日
左:民家。湊3-12。2008(平成20)年7月10日

左写真は1枚目写真の左端の辺りを右へ入ったところ。右奥が鉄砲洲通り。撮影時から20年前の資料だが、1986年の地図では左手前から「水野商店(錦寿しの看板のまま)、蜂谷靴店と小林印刷(現在は三葉企画)、考昌堂印刷所(現在も同じ)」。
家の前に鉢植えをたくさん置いている家は佃大橋の下の通りから横に入ってすぐのところにある。住居として建てられたような感じだ。


三宝山僧信坊。湊3-10
2008(平成20)年7月10日

三宝山僧信坊の看板がかかる家は水野商店と同じ横町で鉄砲洲通りに近いほうの向かい側。左の日本家屋は「光彩社」。印刷あるいは製本関係の会社だろうか。三宝山僧信坊の家は、現在は「観音御光之会」の看板に替わっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





永光印刷。中央区湊3-8。2004(平成20)年1月1日

現在、湊3丁目8番地は「リエトコートアルクスタワー」(2007年3月築、27階建281戸)という高層の賃貸マンションが1棟建っているだけだ。写真はそのマンションを建設する前に8番地にまだ残っていた長屋で、その後ろ(右)に見える2棟(たぶん「中央燃料」と「菅山商店」)も、8番地を東西に二分していた路地に面していた家。写真の木造家屋は1棟の長屋に見えるが、路地に向いた正面を看板建築にしている「永光印刷」と、その家から少し奥へ引っ込んだ位置にある「青木商店湊寮」の二軒長屋との2棟である。
永光印刷が向いている路地は、その斜め向かい側に藤の湯があった路地だ。肝心の永光印刷の正面を撮っていない。『松山自転車…/湊3』の、テーラー安田の写真の右端に「永光印刷株式会社/軽印刷部」の看板が写っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ハリス記念鎌倉幼稚園。神奈川県鎌倉市由比ガ浜2-2。2010(平成22)年5月14日

日本基督教団鎌倉教会の附属幼稚園。由比ガ浜大通りと江ノ電が交差する踏切の脇にあって、その大通りから、あるいは電車の窓から見えるいかにも由緒ありそうな外観の園舎である。建物については『 鎌倉市>景観重要建築物等 >日本基督教団鎌倉教会付属 ハリス記念鎌倉幼稚園』と『新・建築探訪シリーズ :歴史的建造物探訪№11』が詳しい。
幼稚園の設立は1909(明治42)年11月。当初は近くの家で活動していたらしいが、1921(大正10)年に園舎を建てた。やはり八角平面の建物だった。それが2年後の関東大震災で倒壊した後、建て直したのが今の園舎。大正14年3月の完成で、設計者は不明だが工事請負人は幸田八二郎。『…探訪№11』には「幸田氏は日本橋小伝馬上町の人で第二次世界大戦前の日本基督教団浅草教会の設計施工者とも言われている。」とある。
「梅鉢型園舎」と呼ばれる八角形の平面が特徴。中央の遊戯室の周りに教室と舞台を配置している。八角形といっても正方形の角を削り取った感じで、長い辺には窓が3か所、短い方には1か所。その各辺に下屋が出っ張っている。外観は、屋根を隠しているペディメント、二階の尖塔アーチの窓、一、二階の庇のようなコーニスが目立つ。構造は「鉄筋コンクリート造2階建、鉄骨トラス小屋組」。


ハリス記念鎌倉幼稚園。由比ガ浜2-2。2010(平成22)年5月14日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






日本基督教団鎌倉教会
神奈川県鎌倉市由比ガ浜2-2。
2010(平成22)年5月14日

この建物については『鎌倉市>景観重要建築物等>日本基督教団鎌倉教会会堂』に、わりと詳しい解説があるので、以下、それに基づく。
日本基督教団鎌倉教会の始まりは明治30年頃に伝道が開始されたときに遡る。木造の教会が建てられたのは明治40年5月で、それが関東大震災で倒壊し、建て直されたのが現在の教会堂。当時の名称は「ハリス記念鎌倉メソヂスト教会」。ハリスとは、アメリカ・メソジスト派の宣教師で、夫婦で教会堂の建設や附属幼稚園の設立に尽力した人らしい。竣工は大正15年10月10日。設計は吉武長一、施工者は不詳。『近代建築写真館>吉武長一』には「吉武 長一(よしたけ ちょういち 生年月日・出身地など不詳)米国ペンシルバニア・テクニカルカレッジで建築を学び、明治のたばこ王、村井吉兵衛のお抱え建築家として村井銀行本店を始め、京都市に現存する村井銀行の各支店を手掛けた。……」とある。東京では安藤記念教会(元麻布、1917年)が現存する。
全体的にゴシック様式のデザインである。外観ですぐゴシックと感じられる塔屋だが、これは昭和60年頃の増築。設計図を元に新たに建て増しした。『はまれぽ.com>インタビュー>雪ノ下教会川崎牧師』で、「ハリス記念日本メソヂスト鎌倉教会」の塔屋がない写真がみられる。塔屋がないとやはりバランスが悪いだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





内山愛鳥園。神奈川県鎌倉市御成町(おなりまち)11。2011(平成23)年11月29日

御成通りの鎌倉駅に近い辺りの路地を入ったところにあるペットショップ。民家を改装して店舗にしたものだろう。内山愛鳥園の奥に似たような民家が並んでいるが、そちらは内山愛鳥園の倍くらいの大きさがある。

60年も前の話だが、アーモンドグリコの点数カードを集めると熱帯魚がもらえるというキャンペーンがあって、その賞品をもらいにいった店ではないかと思う。ウィキペディアによると、アーモンドグリコは1955年に大阪で売り出され、1956年に全国発売に拡大、1957年、当たり券で本物の小鳥(オウムなど)がもらえる「幸福の小鳥探し」キャンペーンを開始。その後、切手やワッペン等のキャンペーンを開始した、とある。そうすると、熱帯魚をもらいにいったのは1957年―ぼくは中学1年生―の夏か秋だったようだ。その店名も正確な場所も覚えていないが、御成通りの方だったのは間違いなく、当時も内山愛鳥園が写真のままで営業していたのなら、この店だった確率が高い。
エンジェルフィッシュ2尾を小さなガラスの水槽に入れてくれて、水草も少し入れてくれた。ちゃんと飼うには水槽や器具が必要なのは知っていたが、そこまでの熱意はなかった。寒くなって死んでしまったが、案外長生きしたような覚えがある。当時ぼくの家は鵠沼海岸にあり、すでに江ノ電のバスは鎌倉駅―辻堂駅の路線が運行していたのでそれで往復した。


内山愛鳥園。御成町11。2011(平成23)年11月29日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





陶器処加満久良、八万堂。鎌倉市雪ノ下1-8。2001(平成13)年11月4日

若宮大路の鶴岡八幡宮前交差点のすぐ南に、古い店舗で商売をしている店が並んで残っている。骨董の「八万堂」、一軒置いた「陶器処加満久良」と「そば処峯本」の出桁造りの家の3棟だ。それに続く「邦栄堂書店」の洋風看板建築は、2015年4月撮影のストリートビューでは取り壊されて更地になっている。『鎌倉のたから探し>邦栄堂書店さん、ありがとう!(2014.11.26)』によると2014年11月27日に閉店したそうだ。その後まもなく取り壊されたらしい。
八万堂は店のHPによると、大正14年の創業で変わらぬ店構えで営業しているという。つまり関東大震災後すぐに建てた家である。店舗は平屋だが奥の住居は二階建て。


八万堂。雪ノ下1-8。2010(平成22)年11月4日



陽古堂。雪ノ下1-12。2010(平成22)年5月14日

そば処峯本の前の段葛を越えた向かい側にあった骨董店。関東大震災後に建てたものなのか、もしかすると戦後すぐに建てたバラック建築かとも思える。こういう店構えの店が、おうおうにして掘り出し物が見つかるのだ、と覗いてみる人がいそうである。骨董が趣味という人は、モノよりそういう行為自体が好きなのかもしれない。
下の写真右の瓦屋根の家は鈴木表具店。上の写真では更地になっているところに「鳩ポッポ」という喫茶店があったことが分かる。2015年5月撮影のストリートビューでは陽古堂の建物は解体工事中だ。


鳩ポッポ。雪ノ下1-12。2001(平成13)年11月4日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ