ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




八百久商店。築地6-25。1989(平成1)年11月5日

晴海通りの、かつて築地川に架かっていた門跡橋のすぐ東を南に入ったところ。晴海通りの裏通りとの三叉路。現在は晴海通り沿いに「築地センタービル」(1993年6月竣工、11階建て)というオフィスビルが建って、写真の背景の空がよく見えなくなったが、手前の木造家屋は全部がまだ残っている。つきじ寿司、中常(各地名産珍味食料品)、角の八百久も健在。中常は、今は写真で「八百久商店、丸家」の看板の家に移った。
下の写真は1枚目写真の右に続く裏通りで、撮影以来30年近くが建ったが、この家並みも変わっていない。「コマツ」を含む4軒は四軒長屋になるらしい。



コマツ。築地6-25。1986(昭和61)年6月


海老の大丸。築地6-21。1991(平成3)年5月5日

2枚目写真の奥に写っている看板建築の「海老の大丸」の販売センター。写真では右の家が別の店のように見えるが、看板は「EBI NO DAIMARU」だ。現在は普通の看板がかかっている。この家は昭和25年頃の火保図では「秋山トコヤ」。

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左:カットハウス松原、右:キツネ洋品店。中央区築地6-21。1991(平成3)年5月5日

右の銅板貼り看板建築は、晴海通りの築地6丁目交差点から築地市場へ向かう横町と晴海通りのすぐ裏通りとの角の男性洋品店。左の床屋はその裏通り側の隣。これらの建物は写真のままの姿で今も残っている。キツネは今はマルサン三軒家(削り節)という店に替わっている。
床屋のほうは昭和初年の築地市場開設とともに開業したという古い店で、建物もたぶん開業時のものだろう。『中央区>文化観光>近代建築物調査>カットハウス松原』には「…3階建てマンサード屋根の看板建築…内部はメゾネット形式の長屋…ベルギー製の鏡など、歴史を感じさせる床屋の佇まいが残っている…隣の看板建築と並んで群としてよく残り、歴史的な景観を形成している」とある。

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角山本店。中央区築地6-21。左:1991(平成3)年5月5日、右:1989(平成1)年11月5日

晴海通りの築地6丁目交差点のすぐ南にある生麩と湯葉の専門店。出桁造りの家は、現在はビルに建て替わっているが、1階の店舗には写真の看板が磨きなおされてかかっている。角山(かくやま)本店は築地場外の店といっていいのだろうが、創業は大正13年で、築地市場の開設より前。
『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)に、三代目主人の婦人の談として、「初代は新潟の出身で日本橋にあった湯葉の店で修業した。看板の木は新潟の山に自分でさがしてきて彫らせた。TBSテレビで湯葉をテーマにしたドラマを作った時に、古い道具は寄贈してしまった」とある。

左写真の右に写っている銅板貼り看板建築は焼き鳥丼の「ととや」。建物は改修されてはいるが残っている。1969(昭和44)年の住宅地図に「ととや食堂」となっている50年続いている店。店名からすると魚料理の店として始まったのかもしれない。

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北原ビル。千代田区神田岩本町15。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ってすぐのところ。『日本近代建築総覧』に「北原プレス機械K.K.、神田岩本町15、建築年=昭和4年、RC3階建て、設計・施工=清水組」とあるビル。「北原プレス機械」というとメーカーのような感じだが、ビルの横に「北原商店」の文字の跡が残っていて、卸売業だったのかもしれない。
壁のスクラッチタイルが建築時のものなら、相当いい保存状態といえる建物だ。コンクリートがむき出しになっている壁面は剥落する前にタイルをはがしてしまったのだろうか。
喫茶店の「アカシヤ(明石屋)」はレポートしているサイトが幾つかあり、それによると創業は1973(昭和48)年。内部は開業当時のままのようで、テーブルに砂糖壺が置いてあり、モーニングサービスもやっている。
3階に袖看板を出している「産業資材新聞社」の創立は1968(昭和43)年。創立時から北原ビルに入ったかどうかは知らないが、アカシヤよりは先だったのかもしれない。


近影。2008(平成20)年3月18日

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ミネギシ。千代田区神田岩本町1。1986(昭和61)年12月30日
右上:カンノ。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ると北原ビルという昭和2年に建てられたビルがある。そのビルの向かい側にあったビルと看板建築である。
1階に紳士服のミネギシが入っているビルは1989年9月に現在のビルに建て替わった。『日本近代建築総覧』に「ストック・アンド・ゼノックス第4別館、神田岩本町1-9、建築年=昭和4年、RC4階建て、設計=鉄道省技師」で載っている。元はどういう会社が建てたものか判らないが、戦後まもなくの地図では「株式会社井上商店」。ストック・アンド・ゼノックスという会社は、念のためネット検索してみると、1971(昭和46)年の創立で1993(平成3)年に倒産したようだ。

角の看板建築の家は「㈱カンノ/東京カッティング神田営業所」と「エーゼット」の袖看板があるが、下写真のシャッターの張り紙は「店舗募集」だろうか。
東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区岩本町~その三(2011.06.05)』で1982年に撮られた営業中の写真が見られる。店内に既製服が吊るされていて、「カッティング」とは布地の裁断のことらしい。

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黒田栄次郎商店、海老原商店。千代田区神田須田町2-13。1983(昭和58)年8月

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入って万世橋の方を見た昭和の家並み。
写真左の黒田栄次郎商店は1987年撮影の下の写真では取り壊されている。『看板建築』(藤森照信/増田彰久、三省堂、1988年、1500円)には「…海老原商店の左側はここ数年の〈地上げ〉狂騒の中で放火され焼失した。」とある。海老原商店も被害を受けたが、すぐ修復したという。それが下の写真で、上部の銅板の飾りは作り直したばかりなので緑青の色には至っていない。現在のYKS黒田ビル(黒田機器KK )は1992年の完成だから何年間かは駐車場にしていたのかもしれない。
海老原商店とその右の「高山松蔵」は『日本近代建築総覧』に「海老原商店、建築年=昭和3年、木造3階建、設計=黒沢画伯(正面デザイン)、施工=鴻池組、看板建築」「高山巌宅、建築年=大正12年」と記載されている。この2棟の建物については『看板建築』に内部の写真や間取りとともに解説されている。海老原商店は明治20年に海老原利八が、古着の商店街として栄えていた柳原の一画に店を構えたのが始まり、とあり古着商から始まったらしいが、現在の商売はわざと伏せたのだろうか、書かれていない。
『看板建築』では「高山家」は仕舞屋の造り、としている。この家は2、3階の窓の雨戸が銅板貼りだ。銅板を貼るのは防火のためだから、雨戸も銅板貼りにすることは当然のことかもしれないと改めて気が付いた。2階窓の手すりの下に「高山松蔵」の銅板の表札がある。




上:にんべん洋服店。神田須田町2-13
1987(昭和62)年9月13日
左:源商店。1987(昭和62)年2月1日

高山家の右は銅板貼り看板建築の二軒長屋だろう。左の家の上部の壁に書かれている字は右から「ナラ洋服店」。二軒長屋と高山家の2棟3軒の銅板貼り看板建築はつい最近まで残っていたが、2014年5月に取り壊されて現在はTimesの駐車場になっている。
出桁造りの源商店と車庫として使われているらしい角の看板建築の家は、現在マンションに替わっている。その「アーバイル神田イースト」(10階建て34戸)は2004年2月の完成。写真の右枠外には横町を介して伊関電気

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舘ネーム店。千代田区神田須田町2-15。1987(昭和62)年9月13日

神田川の南に沿って、万世橋から柳橋まで東西に通じている通りを柳原通りという。江戸期は神田川の水が増水しても下町にいかないように土手が築かれて「柳原土手」の地名で、古着屋が並んでいたという。それが明治期もうけつがれ、通りには市電も走った。大正期には古着が洋服の既製服に替わってきて、戦後は岩本町を中心に繊維業の密集地になっている。
写真は柳原通りの、昭和通りと山手線ガードの間の辺り。銅板張りの看板建築が並ぶ。中央の同じ形の3軒あるいは4軒は長屋のようだ。店は左の横町の角から「伊関電気、まりっぺ、舘ネーム店、都築商店、215ビル(古畑)」。現在は写真の看板建築はまとめて「クレアール神田」(2004年6月築、13階建て68戸)というマンションに替わった。その1階に伊関電気と舘ネーム店が無事に入っている。

テレビでも取り上げられる「岡昌裏地ボタン店」は215ビルの右にある。『東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区神田須田町(2011.05.22)』には、1982年に撮影した看板建築の町並みが載っている。そこには岡昌裏地ボタン店の左にあった「柴田ミシン商会」の看板建築も記録されている。


伊関電気。神田須田町2-15。1987(昭和62)年2月1日

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ARUN’S。品川区南品川5-11。2015(平成27)年5月30日

東急大井町線の大井町駅前の通り(都道420線)から北東へ入るすずらん通りがゼームス坂通りにぶつかる、その向かい側。ARUN’S(オルンズ)は日よけの看板によると、バングラデシュ料理、および一杯やれるバー。モルタル塗の看板建築の横にバラックの倉庫か店舗がくっついている建物だ。1981(昭和56)年の住宅地図では「日の出寿し」。

下の写真は1枚目写真の右に続く家並み。近年、正面を改装しているようだが、看板建築が並んでいる。左から、石川サイクル、割烹釣り仲間、二軒長屋のマツドコ理容とスナック・ハイマート。1981(昭和56)年の住宅地図では「藤林自転車、立川食堂、リハツマツドコ、バーハイマート」。


釣り仲間。南品川5-11。2015(平成27)年5月30日

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辰巳屋。品川区南品川5-9。2015(平成27)年5月30日

小林自転車店の向かいの焼き鳥・弁当の店。2階の前面に壁を切り取ったようなもので飾っていて、銅板貼り看板建築に見えてしまう商家だ。
辰巳屋から100mほど坂を上ると「秋田ハウス」という3階建てのアパートがある。そこが「ヤオ」という床屋があったところで、『日本近代建築総覧』に「理髪ヤオ、南品川5-10-46、木造2階建て、銅板貼」で載っている。この建物の貴重な写真が『東京レトロ>大井町は良い建築の多い町(失礼)』および『都市徘徊blog>ゼームス坂の理容室』で見ることができる。上端部を切り妻屋根のようにして、その下にロンバルディア帯の飾り、2階の窓の上に3連のアーチの飾りがある。

下の写真はゼームス坂通りの南品川五丁目交差点から第一京浜へ出る方へいった中ほど。二軒長屋と思われる。


幸助(居酒屋)。南品川5-8。2015(平成27)年5月30日

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みの屋海苔店、小林自転車店。品川区南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

ゼームス坂通り南品川五丁目交差点からすぐ南のところ。銅板張りの看板建築が2棟並んで残っている。向かい側には辰巳屋の銅板貼り看板建築が見られて、名所といっていい場所だ。
みの屋海苔店は普通なら2軒長屋に当たる広い幅がある。上部の壁を二分割している柱のようなものが、中央ではなく右に寄っているので、二軒長屋として建ったのではないようだ。2階の窓の間に店名と商標を入れた看板が額縁に入ったような感じで入っている。戸袋を兼ねたものらしい。この看板の銅板のピースが、それを囲む壁のピースの4分の1の大きさで、けっこう力の入った看板だ。
小林自転車店は二軒長屋かと思うのだが、建物自体は左右対称ではない。店舗にしている方が半間ほど広い。幅の狭い方は裾の部分をみの屋の造りにしているから、みの屋が倉庫にでも借りているらしい。
小林商店の右の奥村不動産は古い長屋の正面を看板建築風に改装したもののようである。



みの屋海苔店、小林自転車店。南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

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