ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




登校橋。千葉県松戸市根本210。1989(平成1)年4月1日

JR松戸駅の西を南北に旧水戸街道(現県道261号)が通っている。駅からそこへ出て北へ1kmほど北へ行くと常磐線と新坂川に挟まれた形になって常磐線を越えるために上がり坂になる。陸橋が作られる前は手前を踏切で渡っていたわけだが、写真の橋はその踏切があった辺りの新坂川に架かる登校橋。
手前に写り込んでいるのはカメラについていた紐だ。失敗写真だが、架け替えられる前の橋がどういうものだったかは判り、昭和12年2月の竣工ということも判る。写真左の二階建ての家は「堀江食堂」、その左「一休」の奥が松戸市立北部小学校。現在は堀江食堂と一休は取り壊されて駐車場になっている。



吉岡文具店。根本212。1989(平成1)年4月1日

登校橋を渡った北部小学校の校庭側の校門の前。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の昭和12年家並み図では、吉岡文具店は旧水戸街道の登校橋への横丁の角にあり「小学生相手の文具や駄菓子を売り、今は小学校前に移転健在」とある。
現在は廃業していて、家も空き家のようである。
表の家>松戸行脚>新坂川と登校橋』に、新坂川と登校橋のことが考察されていて、堀江食堂、吉岡文具店も登場する。当記事の写真は「新坂川と登校橋」を補完する用になっただろうか。

2021.04.03追記
「表の家>昔日の松戸」から堀江食堂と吉岡文具店に関する記事を紹介します。
78 堀江食堂-根本
16 吉岡文具店と北部堂ー松戸市立北部小学校旧正門前

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左:エコファイン。千葉県松戸市根本135。2008(平成20)年3月7日
右:宇田川たばこ店。根本135。2015(平成27)年3月16日

JR松戸駅の北の旧水戸街道(現県道261号)。左写真の日本家屋は現在「㈲エコファイン」の字が窓に書かれているので建物名として使ったが意味のある名称ではない。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)に「八百伊」としてある家と思える。「この年(昭和12年?)…より田久保蹄鉄屋跡へ来る」とあり、蹄鉄屋とは明治期の水戸街道の様子を想像する一要素といえる。
宇田川たばこ店は元は宇田川呉服店。店舗は改装されていて、戦前の建物のように見えないこともないのだがよく分からない。



吉川酒店。根本266。2008(平成20)年3月7日

写真右の2階建てビルの燃料店は『昭和の松戸誌』の昭和12年の家並み図に「松葉屋花沢商店」とある店が続いているもの。「氷屋ともいい、松葉・薪を販売する一方、立場(たてば)として馬方相手に飯屋を兼ねた。今は燃料商」。花沢商店の右は屋根つきの駐車場だが、家並み図では「空地」で、その解説文は「花沢商店の馬繋ぎ場。周囲は松葉の山」。
写真中央の平屋の家は「二葉屋吉川酒店」だった家。

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やの中電気。千葉県松戸市根本12。2015(平成27)年3月16日

常磐線松戸駅付近の旧水戸街道は常磐線の西を南北に通っていて、商店街になっている。上の写真はその旧水戸街道(現県道261号)の根本交差点からすぐ北のところ。この辺りの街灯には「根本商栄会」の表札が付いている。やの中電気は出桁造りの母屋の前面に平屋の店舗を建てたものらしい。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、「(昭和12年は)肥料・雑貨商。後燃料商。現在は電気工事業。健在」。
写真右のゴルフ用品店は、『昭和の松戸誌』に「金子鞍屋」とあり、クリーニング店も昭和12年の街並み図に載っている商家が業種は変わったが、続いている家。



渡辺種苗店。根本420。2008(平成20)年3月7日

通り沿いに店舗と作業場の建物、その裏に住居、さらに奥に蔵という建物の構成が建築時のままに残されている商家。『昭和の松戸誌』には「渡辺農園」で、「タネ屋。現渡辺種苗。健在」。その右の駐車場は「魚力」と2軒のしもた屋があったらしい。『昭和の松戸誌』では魚力は「健在」なのでわりと最近まであったのかもしれない。

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古ヶ崎浄水場。千葉県松戸市古ヶ崎951。2015(平成27)年3月16日
上:坂川沿いの道から本館を遠望。
下左:管理棟?の後ろ側。前面は木立で見えない。
下右:敷地の東南角にある工作室。手前に六角形の土台がある。配水塔の跡だ。この配水塔は昭和38年の航空写真には写っていないので、昭和40年代の建設かもしれない。『千葉県の近代産業遺跡』というサイトに半分だが写っている写真が掲載されている。2011年に解体されたようだ。


千葉県水道局の古ヶ崎浄水場は松戸駅の北約500mほどの江戸川低地にある。今は住宅地といっていいが昔は水田が広がっていたのだろう。1940(昭和15)年の開設で、2007(平成19)年10月に柳原水閘のすぐ横に完成した「ちば野菊の里浄水場」に役目を譲って閉設した。
松戸市南部、江戸川低地を見下ろす北総台地の西端に建つ栗山配水塔は「県営水道創設事業の中で「千葉県水道事務所江戸川水源工場(旧古ヶ崎浄水場)」の付帯施設として1937年に建設され、昭和30年代の第1次拡張事業で栗山浄水場が完成した後は、同浄水場の管理となり現在に至る」(いろいろなサイトでこのフレーズが出てくる)そうである。正確なところはよく分からないが、古ヶ崎浄水場で浄水した水は、全部ではないと思うが、ポンプで約5km離れた栗山配水塔にいったん運び上げてから配水していたらしい。
千葉県の近代産業遺跡>土木>古ヶ崎浄水場』によると、古ヶ崎浄水場は昭和15年5月の運転開始で、施設は昭和11年から14年に建設された。写真のキャプションの建物名称は当サイトによる。


古ヶ崎浄水場本館。この建物は裏側になってしまうが、敷地の北の道から近くに見ることができる。

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柳原水閘
千葉県松戸市下矢切(しもやきり)1397
1983(昭和58)年2月

まだ現役で坂川の水を江戸川に流していた頃の柳原水閘(やなぎはらすいこう)の写真である。左の写真は上に下流側がわずかに写っている。上の上流側の写真も左側が欠けてしまっている。柳原配水場の完成によって、古い水門を残すために親水広場に整備される前の水閘の写真はネットではめったに出ない貴重な写真だと思うが、撮り方がちょっと残念。
坂川は江戸川からの水が逆流して、よく水田に冠水した。その対策として合流部を江戸川の下流へ付け替えて、現在地に樋門を造ったのが1836(天保7)年という。それを1904(明治37)年に煉瓦造で造り直したのが柳原水閘ということになるらしい。
土木学会選奨土木遺産>柳原水閘』によると、起工=1903年11月、竣工=1904年4月、工事費=約1万9千円。水閘の上流側左の壁に銘板がはまっていて、設計者の井上次郎とともに9人の名前が刻まれている。その中に「八木原五右衛門」があるが、「松戸市の治水事業に多大な貢献をした」人で井上の叔父にあたり、この人が井上に設計を頼んだのだろうと推定している。





柳原水閘。2003(平成15)年12月7日

柳原水閘の横に柳原水門が完成したのが1989(平成1)。「1994(平成6)年3月、国分川分水路のトンネル通水を期に現役を退く」(『日本の土木遺産』(土木学会編、講談社ブルーバックス、2012年、1000円)ということだ。国分川は市川市北部を流れて真間川に合流する川で、流域の宅地化によって氾濫するようになり、さばけない水を松戸市の台地を掘りぬいて坂川に流すためにトンネルを掘ったのである。工事中の1991年9月19日、台風の大雨でトンネルに水が流れ込み、作業中の7人が死亡するという事件があった。

レンガ造の水門は1995年に松戸市指定文化財に指定された。2004年100周年記念式典とともに土木学会選奨土木遺産に認定され、2007年には経済産業省によって近代化産業遺産に認定された。上の写真の撮影時にはまだ土木学会と近代化遺産の認定証の碑はない。

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旧鎌倉図書館。神奈川県鎌倉市御成町18。2010(平成22)5月14日

1936(昭和11)年に鎌倉町立図書館として建てられた木造2階建ての建物。建築にあたっては、三井銀行取締役だった間島弟彦という人の寄付が中心になった。間島は1928年に亡くなっているが、遺族によって遺志が実行された。青山学院大学の間島記念館(1928年、設計・施工=清水組)は図書館として建設された建物で、やはり間島弟彦の遺志で資金の寄付があった。
縦長窓が並ぶ外観は洋風であるが「和洋折衷」とされている。屋根は確かに和風で、写真では木に隠れてしまっているが、切り妻屋根の妻側に懸魚(げぎょ)がさがっている。入り口の平屋の部分は戦後の増築という。
1974(昭和49)年に現在の中央図書館が完成すると図書館としての役目は終わった。
入口横の看板は「教育センター相談室」で、1998年に撮った写真では「青少年相談センター」となっていた。主に、問題のある子供の親が相談に来る窓口といった市の施設だったらしい。それも2014年には他所に移転して取り壊す段取りになっていたのを、保存運動が起こって市も迷っている? 



旧鎌倉図書館。2010(平成22)5月14日

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鎌倉市立御成小学校講堂。鎌倉市御成町19。2010(平成22)5月14日

御成(おなり)小学校の創立は1933(昭和8)年12月で、写真の建物は10月に完成した講堂である。明治期の木造校舎かと思っていたが案外新しいものだった。当時の名称は「鎌倉郡立御成尋常高等小学校」。平屋の講堂なら屋根の上の2基の塔のようなものは換気口の屋根ではではないかと思う。
小学校が建つ以前は鎌倉御用邸があった。1931(昭和6)年8月にそれが廃止されて鎌倉郡鎌倉町に払い下げられた。現在の校門は御用邸の正門だった冠木門。御成町(おなりまち)という町名も御用邸に因むもので、1965(昭和40)年の住所表示変更のときの起立だから新しい地名だ。古くは「大町蔵屋敷」といったらしい。



鎌倉市立御成小学校講堂。2010(平成22)5月14日

現在、この旧講堂はほったらかしで、倉庫として使われているようだが、たぶん不用品を放り込んでいるだけと思われる。市の景観重要建築には指定されていないのは取り壊しを考えてのことと疑われている。勿論、古都鎌倉としては残せるものなら残したいのだろうが、維持管理の費用をだれが出すかとなると難しいところだ。そんなものに金を使わず福祉を充実させろという市民も多いだろう。鎌倉の世界遺産への登録も、静かに暮らしたいから観光客が増えるのは困ると反対する人もいる。

1937(昭和12)年にヘレン・ケラーが来日して、全国を回って講演した時に、この講堂でも行った。5月2日のことで、横須賀での講演を済ませてから鎌倉を訪問したようだ。名所を観光したとは思えないからいったん東京に戻ったのだろうか。
7月7日盧溝橋事件が勃発するが、女史はその直後、日本の植民地だった朝鮮・満州を回っている。このときの日本滞在は約4カ月にわたった。

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ホテルニューカマクラ
神奈川県鎌倉市御成町(おなりまち)13
1999(平成11)年1月16日

建物は1924(大正13)年に「山縣ホテル」として建てられたもの。設計者などの詳細は不明である。2004年に鎌倉市の景観重要建築物に指定された。市のホームページによれば、構造は「木造2階建、和小屋組、屋根/銅板瓦棒葺き寄棟、外壁/モルタル塗り大壁リシン仕上げ(ドイツ壁)」。
ホテルの沿革は『はまれぽ.com>2014.04.08』が参考になる。ホテルの建つ場所は、京都の料亭・平野屋の支店があった。大震災前には貸別荘になっていたが、大震災で倒壊するか焼失して再開することなく山縣ホテルに売却されたのだろう。鎌倉初のホテルだった。現在のホテルの所有になったのは昭和初期で、山縣ホテルだった時代は5・6年しかなかったのかもしれない。現在の素泊りの形態でホテルとしての営業を始めたのは1985年頃らしい。屋根の上の看板は、2004・5年にアールヌーボー風の書体の「HOTEL NEW KAMAKURA」に替わった。


ホテル駐車場にある「かの子と龍之介」の案内板
2011(平成23)年11月29日

岡本かの子と太郎(念のためにいうと、歌人・小説家の岡本かの子の子どもが画家の岡本太郎)は平野屋に滞在中に関東大震災に遭う。芥川龍之介はその数日前に東京に帰っていた。瀬戸内晴美の『かの子繚乱』にそのときのことが書いてあったと思うが、その文庫本が見当たらず、確認ができない。
ホテルの絵があって、その屋根の看板が「素泊り駐車場」。意味は分かるからこれでいいように思うが、日本語にうるさい人に、車で寝るのか? とでも言われて「素泊りホテル」に直した?

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日本聖公会鎌倉聖ミカエル教会聖堂。神奈川県鎌倉市小町2-7。2001(平成13)年11月4日

写真の教会は小町通りの中程から西へ入ったところにあるが、教会の敷地は小町通りまであってそちら側には牧師館と庭がある。
この建物は1995年に鎌倉市の景観重要建築物に指定されていて、市のホームページにわりと詳しい解説が載っている。1933(昭和8)年の建築で、その後増改築がなされて(写真の建物以外にも建物があり、主にそういう建物を言っている)創建当時の姿をとどめているのは聖堂部(写真の後方部分?)のみという。その内部は、天井・家具・照明器具などが創建当初のまま残されているそうだ。市のHPに載っている写真は玄関のある前の部分が改装前のもので、以前の玄関や屋根が判って興味深い。
『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)には「設計施工・後藤徳太郎+井沢新三郎」とある。教会に記録があったのかと思われるが、牧師あるいは信者と大工だろうか?

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成和堂、東シャツ。台東区浅草橋5-22・23。2013(平成25)年4月29日

蔵前橋通りの、清洲橋通りに近い辺りの裏通り。向かい側は浅草カトリック教会を再開発したCSタワーの高層マンション。看板建築が並んでいるが戦後の改装になるものもありそうだ。右写真の「東シャツ」の看板の後ろに隠れている家は、出桁造りのような和風の長屋の1軒で、原形に近い姿で残っている。
左写真のトタン貼り看板建築は右写真の左奥にも写っている。「フナショクパン」の看板の店は、その看板に「成和堂」の文字が残っている。最近はあまり見ないフナショクパンの看板だが、製造していた会社が2005年で製パン業から撤退したという。



路地。浅草橋5-22・23。2013(平成25)年4月29日

1枚目写真の家の横を入ったところで、蔵前橋通へ抜ける路地。かつてはこの辺りでなら普通に見られた路地の光景がかろうじて残っている。

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