ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




二軒長屋。中央区勝どき3-8。2008(平成20)年10月3日(4枚とも)

清澄通りの新島橋の近くに建つ住友不動産勝どきビル(2002年2月築、8階建)の横、および裏手に古い二軒長屋が10数棟残っている。上の写真は清澄通りから裏の通りへ抜ける路地沿いに並んでいる二軒長屋。写真左の青いビルが住友不動産勝どきビル。写真では縦に並んだ3棟の長屋が写っているが画面左にもう1棟あり、これら4棟の長屋の両端の押さえの位置、表通りと裏通りに面して横向きに二軒長屋がある。
清澄通りの側は魚勝という魚屋と浜焼き居酒屋。2010年11月の開店で、それ以前は「てるてる小僧」という居酒屋だったらしい。もっと以前は平和青果という店があったが、瓦屋根ではなくなったり大きい看板をつけたりしているので同じ建物とは思えない。




左:民家、勝どき3-8。右上:二軒長屋、勝どき3-10。右下:路地の長屋、勝どき3-10

左写真の民家は1枚目写真に横の壁が写っている家。二軒長屋の左側が残っているようだ。右写真の2枚は民家の斜め向かい、裏通り沿いとそこから入る路地に残っている長屋。

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3棟の二軒長屋。中央区勝どき3-4。1989(平成1)年11月26日

現在の勝どきビュータワーの南の横丁で、月島第二児童公園の向かい側。同じ造りの看板建築風の二軒長屋が3棟並んでいる。昭和22年の航空写真に写っているので戦前からあるものだろうが、戦前の火保図(昭和9年頃)では勝どき3-4の街区は工場ばかりだから、写真の長屋は昭和10年代の建築らしい。
現在も残っているのは3棟の長屋のうち、両端の2棟の各1軒。



中村水産。勝どき3-4。1989(平成1)年11月26日

中村水産としたがほんとうは推定である。中村水産だとすると信号の交差点は月島第二小学校の南東の角になり、写真で右へまがると1枚目写真の長屋の前を通って清澄通りに出る。建物はいかにも工場の事務所棟のような感じだ。現在は「エスポアール勝どき」(2012年6月築、7階建て16戸)というマンションになっている。
左奥の白い壁の建物は1986年の地図では「区立勝どき敬老会館/勝どき児童園」で、「都立水上小学校付属学寮」があった場所だ。

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永田屋履物店、吉田屋酒店。中央区勝どき3-5。1989(平成1)年11月26日

写真右の道路は清澄通りの歩道。今は都営大江戸線勝どき駅(2000年12月開業)の南端辺りになった。写真右奥の横丁の角の家は小田島理髪店
永田屋は下駄や草履を売っていたのだろうが実質的にはたばこ屋だったと思われる。ハイライトと下駄を描いた看板は自家製のようだ。同じ建物の左の店は昭和25年頃の火保図では「清次郎浮具」。角の吉田屋平野商店は戦前から続く酒屋らしい。
出桁造りの2棟の商家は、現在は平野ビル(1994年2月築、6階建て)というオフィスビルに建て替わった。

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大丸屋米店。千代田区神田神保町3-4。2007(平成19)年4月14日

靖国通りにあった九段下ビルの裏。九段下ビルが解体されたのは2012年1月だという。現在では九段下ビルがあった街区(4番地)は2棟のビルの他は建物は撤去されて広い空き地になっている。専修大学が進出してくるのかもしれない。
この辺りは空襲の被害を免れているので木造の古い家は戦前からあったと思われる。大丸屋米店の建物はわりときれいだが、戦前の家を改修して使っているのかもしれない。大丸屋のホームページには「文久元年「つきや惣助」の屋号にて商いを始める…」とあるから東京でも有数の老舗だ。現在はひとつ北の街区(6番地)に移って健在。
大丸屋米店の並びに2棟のトタン貼りの家があった。下の写真左は1969年の地図で「原青果店」、右は「東進商会」。


旧原青果店。神田神保町3-4。2007(平成19)年4月14日

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左:中教出版。千代田区西神田2-3。1987(昭和62)年11月8日
右:蔵。西神田2-1。2006(平成18)年3月31日

中教出版のビルは白山通りと専大通りとの間の通りにあった。写真右奥の建物は区立西神田小学校の体育館で、中教出版の裏は西神田公園。現在のビルは「セントラルユニ東京支社」となっている。
中教出版は『ウィキペディア>教科用図書』の「かつて存在した主な教科書発行者」に入っている出版社だろう。また「主な教科書発行者」に「日本文教出版(美術、図画工作でトップシェア。1996年以降は中教出版(東京)の版権を継承)」ともあるので1996年に廃業したのかもしれない。
右写真の蔵は白山通りの裏手にあった。今はビルに建て替わっている。

2015.05.02追記
『日本近代建築総覧』に次の記載があるのに気が付いた。
「山崎邸倉庫、西神田2-1、建築年=大正5年、2階建、自家設計」
「中教出版(旧東京看護学校)、西神田2-3-16、建築年=昭和12年、構造=RC4階建、設計=山下寿郎、施工=竹田組、地下1階」
写真の蔵が『総覧』の「倉庫」なのか? と疑問ではあるが可能性はある。
中教出版は写真では3階建てに見える。4階は引っ込んでいて見えないのだろうか? 学校だったと言われれば、なるほど、という感じだ。

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サンテ・オレ、丸沼書店。千代田区三崎町2-8。1985(昭和60)年9月15日

白山通りの水道橋駅近くの西側の街並み。現在は写真右の鳳ビル(ハンバーガーのサンテ・オレ)と丸沼書店、その隣の夕文堂古書店が変わらない。鳳ビルは今はメガネスーパーが入っている。写真中央のサンテ・オレから左はビルが2棟建った。日本大学経済学部7号館(2002年竣工)と東京歯科大水道橋校舎新館(2013年7月竣工)だ。
写真の家並みを1986年の住宅地図で見ると、左から写真中央のハンバーグ店まで「むら田(コクヨの看板)、大文堂、路地、日照堂、石井スポーツ、全国学生協会、ニシムラ文具店、サンテ・オレ」。

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桜門ビル。千代田区三崎町2-2
左:1992(平成4)5月4日、右:1983(昭和58)年9月

日本大学法学部図書館の向かい側にある日大通信教育部の先代のビル。建て替わったビルは6階建て、1階は石張り2階以上の壁には茶系の渋い色のタイルを貼って古風に見せた外観だ。あまり階数も高くしないで、先代のビルの面影を伝えようということなのだろうか。
『日本近代建築総覧』では「桜門ビル、建築年=昭和初期、構造=RC4階建」としかない。日大が建てたものなのかどうかも分からない。日大が建てたとすれば、元から校舎ではなく、事務所や校友会―日大の校友会の下部組織を桜友会というらしい―が使うための建物だろう。
この建物を取り上げたサイトに、『廃景録>消えた近代建築>桜門ビル』と『Site Y.M. 建築・都市徘徊>失われた近代建築 in Tokyo >桜門ビル』がある。解体されたのは2002(平成14)年で、現在のビルは2003年12月の竣工という。



桜門ビルの玄関と裏口
左:1995(平成7)年6月25日、右:1992(平成4)年5月4日

玄関に架かっている看板は「桜門ビル」「日本大学法学部校友会」「日本大学通信教育部校友会」と「通信教育部学習センター」の張り紙。



左:1985(昭和60)年8月4日
上:1985(昭和60)年9月15日

桜門ビルの隣は、今のビル(加藤ビル、1987年築、7階建て)が建つ前はキッチン南海と加藤洋服店(テーラー・カトウ)があった。その右の駐車場は1986年の地図で「日照堂専用駐車場」。桜門ビルの1階角が日照堂で、看板に「カレジアンショップ」とある。大学の購買部だろうか。加藤洋服店の正面は戦前の看板建築のようにも見えるが、三崎町は空襲で木造家屋は焼失した区域だ。

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少年画報社ビル。千代田区三崎町3-3。1992(平成4)年6月28日

写真のビルはアパートだろう。ベランダに洗濯物を干している部屋がある。それでも1986年の住宅地図では「少年画報社ビル」。現在の少年画報社ビルとは外観が異なるが、同じ5階建てであり、写真のビルを改装して今でも使っているのではないかと思う。
少年画報社の創業は1945(昭和20)年10月、終戦直後でやはり英会話の本も出したようである。『少年画報』の発行は1948(昭和23)年(8月号)で、1958(昭和33)年が絶頂期で80万部を売ったという。ビルを建てたのは1960年頃だったのかもしれない。
ぼくは少年雑誌は友達に見せてもらうだけだったが、見るのは『少年』が多かった。『少年画報』はたまに見るだけだったと思う。それでも「サボテン君」(手塚治虫)」や「赤胴鈴之介」(武内つなよし)は確かに見ている。

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森田接骨療院。品川区南品川2-9。2013(平成25)年9月22日

当ブログ前々回のアオイ雑貨店の向かいの家並み。二軒長屋などの戦前築の建物が5棟並んで残っている。現在は営業しているのは「大すい」という焼鳥の居酒屋と小山道具店だけのようだ。
写真右の看板建築風の家には「森田接骨療院」の表札が残っている。石張りの壁は戦後の改修のように思えるが、それをさらにトタンで囲ったのだろうか? その左に二軒長屋が3棟並ぶ。


小山道具店。南品川2-9。2009(平成21)年4月12日



大すい(大翠)。南品川2-9。2009(平成21)年4月12日

小山道具店の二軒長屋の左は銅板貼り看板建築の三軒長屋。1981年の住宅地図では左から「鳥幸、長島化粧品店、中村畳店」。現在は右の二軒分が改修されて普通の住宅にしか見えなくなってしまった。

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御厨碁盤店。品川区南品川1-1。2009(平成21)年4月12日

第一京浜の南品川四丁目交差点から東へ入った南馬場通り。写真左端のビルが第一京浜の交差点に面している。古い家並みではあるが戦前の建物ではなさそうで、戦後まもなく建てられたような感じである。昭和22年の航空写真に写っている建物とは別のように見える。
今、2014年8月撮影のストリートビューを見ると早くも多少変化している。写真左の平屋の白い看板の家がなくなっている。看板建築の家(SNACK KATSUMI)は建て替わってDACOTA(スナックらしい)という店になった。「焼酎楽園 菜花」から御厨(みくりや)碁盤店までは変わらない。1981年の住宅地図からは「バーかつみ、養老ノ滝、メガネ…」の店名が見える。

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