ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





若松飲食店街。横須賀市若松町3
上左:スナック イーグル。2007(平成19)年11月16日
上右:パブ・スナック ハッピー。2014(平成26)年2月28日
左:錨、赤レンガ、ふれんず。2014(平成26)年2月28日

京急・横須賀中央駅東口からすぐの若松飲食店街を知ったのは2007年のことで、飲屋街にしては割と広い通りの両側にぎっしりとバーやスナックが建ち並んでいるのにびっくりした。これらの店の全部に客が来るのだろうかと心配になったが、来るから店があるわけだろう。ぼくは飲まない人だから自宅で飲めば安く上がるだろうに、と思わないでもないのだが、そういう次元の話ではない。
駅前の飲屋街のゲートは現在「若松マーケット」の名称になっている。何年か前までは「若松飲食店街」だったという。以前からマーケットの名称は使われていたのかもしれないが、昭和レトロを前面に打ち出して活性化させようという商店街の戦略があるようである。この飲屋街の成立の過程などは知らないが、見たところ1960年代のものか思われる一戸建てのバラック建築に近い建物に2・3軒の店が入っているのが標準のようである。

最近の写真しかないわけだが、2007年と2014年の写真を比べて6年間でどう変化しているか検証してみよう、というのが当記事の趣旨である。
1・2枚目の写真は駅前のゲートを入って、道なりにクランク状に曲がってきて振り返ったところ。2007年には、鍵形に曲がる前のところに古本屋(堀川書店)があり、その横の路地の中(写真奥のイーグルの裏側)にも売り場があったはずだが、気が付かなかったらしく、覚えがない(『写真撮っけど,さすけねがい?>横須賀市若松町の飲食店街を彷徨う(2008.03.15)』)。



左:ひよこ、ヤング。2007(平成19)年11月16日
右:玉来、お喜代。2014(平成26)年2月28日

右の写真ではラーメン屋の玉来は廃業している。玉来が開店したのは1960年より前のことらしく、あるいは飲屋街では一番の老舗だったのかもしれない(『Y’s Café>路地裏のラーメン専門店(玉来)』)。営業時間はまわりの店と合わせてるのか思っていたが夕方には閉店していたらしい。
「食いしん坊 みと」と「やすらぎの店 柏」が「ひざし」と「スナック 花織」に替わっている。

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居酒屋 おっちょこちょい。横須賀市若松町3。2002(平成14)年2月9日

米が浜通りの北部、水島洋品店の向かい側。現在はアーケードが設置されて建物がよく見えなくなった。写真左端の建物はビルに建て直された竹山仏具店らしい。入母屋屋根の居酒屋は取り壊されて今は仮建築のような店舗が2棟建っている。長屋風の家は鮮魚店の魚朝。建物とも健在だ。
下の写真は上写真右の交差点から南と横丁を見たもの。角の建物は今も居酒屋中心の飲食店が入っているが、写真の店は残っていないようだ。カシワデンキの建物はビルに建て替えられ、美容外科、保育所、法律事務所などが入っている。


とり万、くすのき。若松町3。2002(平成14)年2月9日

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上:居酒屋 桂、左:水島洋品店
横須賀市若松町3。2002(平成14)年2月9日

米が浜通りから北の米が浜通り入口交差点の方向を撮ったもの。角の家は、今は取り壊されて駐車場になっているのと、その隣の家(互楽亭? 現在は大野米穀店)が建て替わった。また、通りにアーケードが出来たという変化がある。
角の日本家屋はスナックが4・5軒入っていたようだ。飲み屋街といっていい横丁側の店は「桂」と「眉」の店名が読める。通りの側は看板の文字が読めないが、後に設置された「若松栄和会商店街」のアーケードに下げられた「スナックNAO」の看板が残っている。
水島洋品店は1枚目写真の右奥に写っている。3階建ての看板建築で、青く塗っているが銅板貼りだろうか? 窓の正方形の桟が珍しいかもしれない。2階の窓の上の店名の字がかすれているが、今はオレンジ色に塗り直されている。

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田中屋呉服店。神奈川県横須賀市若松町3。2007(平成19)年11月16日

京急・横須賀中央駅東口から大通りを東へ、「若松中央通り」と書かれた統一された看板がアーケードの天井から吊るされた商店街をいくと、すぐ米が浜通り入り口交差点で、その角が田中屋呉服店。2階の壁と窓がアーケードで隠されて見えないが、西洋古典様式風なコーニスの飾りが特徴の看板建築だ。
店は創業100年で店主はすでに4代目だという。とすると大正初期の開業である。日本が第一次大戦に参戦したのが1914(大正3)年。第一次大戦は新兵器の登場で戦争のやり方が一変したと言われる。横須賀でも1912(明治45)年に、後に横須賀航空隊になる海軍航空術研究会が創設され、追浜(おっぱま)に飛行場(現日産自動車追浜工場)の建設が始まった。1914(大正3)年9月4日から始まった青島(チンタオ)航空作戦には横須賀工廠造兵部で製造されたアンリ・ファルマン水上機が飛んだらしい。



西村釣具店。若松町3。2007(平成19)年11月16日

田中屋の右は銅板だかトタン貼りの看板建築で、三軒長屋だろうか。右端の「若松屋」という大衆酒場はかなり昔からやっている居酒屋らしい。西村釣具店は日本家屋の瓦屋根が見えている。明治22年に漁具の店として開業したとするサイトがあった。



西岡商店。若松町3-10。2002(平成14)年2月9日

田中屋呉服店を曲がって米が浜通りに入ると、隣が西岡商店だった。商店街も「若松栄和会商店街」と変わる。現在は建物はそのままだが「UniCut 1000」という床屋に替わった。西岡商店は敷物の店。古い看板の文字は右から書いてあって「畳表花蓙上敷行李/近江屋」。

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横須賀ベーカリー。神奈川県横須賀市若松町3。2007(平成19)年11月16日

横須賀中央駅東口から大通りを東へ、すぐのところ。駅前の大通りの商店街だが、今でも戦前の建築と思われる木造の商店が、小さなビルに替わった間に残っている。ストリートビュー(2014年3月)で現状をチェックしてみたら、横須賀ベーカリーはビルに建て替えの工事中だった。ネットの情報によれば、2013年12月から工事が始まり、2014年7月8日に新築なったビルで店は再開されたという。
店の看板に「創業昭和3年」とある。関東大震災の復興がかなり進んだ時期かと思うが、横須賀ベーカリーの洋風な看板建築も、その年にパン屋を開店するために建てたものだろう。創建時の造作がどのくらい残っているのか分からないが、2階正面の両脇に洋風のレリーフが見られる。
アーケドの天井からつるされた看板は「特製フランスパン/横須賀ベーカー本店」。主力商品のフランスパンはこの店独自の、あるいは横須賀独自のものらしい。「ベーカー」は「ベーカリー」を略したのかと思ったらbeker(パン屋、パン焼き職人)という単語があった。支店があるのだろうか? この店の看板は表現方法を複数使うようにしているらしく、フランスパンは「特製」「元祖」「焼きたての」があり、昭和3年は「創業」と「開業」だ。



2002(平成14)年2月9日

1枚目写真からわずか5年前の写真だが、隣のビル(右は「明輪ビル」左は「平成中央ビル」)のテナントが今のとは異なる。

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旧区立愛宕中学校。港区西新橋3-25。1990(平成2)年1月15日

愛宕中学校は1969(昭和44)年に北芝中学校(芝公園3丁目→虎ノ門4丁目、現在空地)と統合して御成門中学校となった。写真は現在の御成門中のあるところにあった校舎だが、撮影時はなんに使っていたのだか知らない。なんだか工事中のような感じで、使われているようには見えなかった。当時、御成門中は向かい側の、現在の御成門小学校(芝公園3丁目)のところにあったのではないかと考えている。現在の校舎は1993(平成7)年2月の竣工である。どうも、写真の校舎は御成門中としては使われなかったように思える。
愛宕中は戦後の学制改革によって1947(昭和22)年頃新設されたものだろうから、校舎もそのときに建てたものかもしれない。あるいは昭和22年の航空写真にはすでに写っているから、小学校の校舎を転用して使ったのだろうか? 御成門中のHPの沿革では、1969年の設立された年の7月に「新校舎へ移転」しているが、その校舎は芝公園にあったものではないだろうか。校舎を建てる前は国鉄官舎の平屋の二軒長屋が建ち並んでいたようだ。

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幸橋税務署。港区西新橋3-25。1990(平成2)年1月15日

現在の慈恵医大付属病院の中央棟(2000年5月竣工)の正面前の広場にあった。『廃景録幸橋税務署』によると、「建築年:昭和8年、設計:大蔵省」で平成10年頃に解体されたようだ。幸橋税務署は戦後、芝税務署として使われた期間がある。「幸橋税務署」が戦後「芝税務署」に名称変更されたのかもしれないがよく分からない。『新東京案内1958』(毎日新聞社、昭和33年)には「芝税務署:愛宕町2の103」(所在地は旧町名)とある。1971(昭和46)年の区分地図にはあるが1975(昭和50)年のではない。これだけでは決められないが、芝税務署は1975年頃に他の場所に移ったのかもしれない。



幸橋税務署。1990(平成2)年1月15日

「幸橋」の名称は、少し遠いような気がするが江戸城の外堀に架かっていた幸橋御門の橋に由来するようである。内幸町や新幸橋が同じ由来である。幸橋の東に架かっていた新橋が駅名や町名で広く知られているが、ストレートに「新橋税務署」とせずに少しひねったのだろうか?

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東京慈恵会医科大学本館。港区西新橋3-25。2009(平成21)年6月8日

『日本近代建築総覧』では「慈恵医大、建築年=昭和7年、構造=RC3、設計=野村茂治・赤石真・奥村精一郎、施工=橋本工業」。『東日本 近代建築万華鏡』では設計者を「野村茂治/赤石建築事務所(赤石眞/奥村清一郎(精一郎?))」としている。
学校法人 慈恵大学>歴史』によると、昭和8年1月21日の竣工で、同年6月に創立50周年記念式と合わせて大学本館新築落成式が行われている。H形の平面をしていて2つの建物をつなぐような中央部分が大講堂になっているらしい。
スクラッチタイル貼りの壁、各階の張り出した庇、大きい窓といったところが特徴のモダン系の建物だろうか。なんだかくすんだ感でこれといって惹かれるものがない。正面玄関の右にガラス張りの部分が突き出ているが、増築したものではなく最初からあったもの。玄関の左に伸びていた部分は、現在は病院のE棟に替わった。そのため、ほぼ左右対称に伸びていた正面がいびつになってしまったという気がする。



看護婦寄宿舎。西新橋3-25。1990(平成2)年1月15日

現在、中央棟の高層ビルが建ったが、それが建つ前の状況。写真右に現在の付属病院のF棟。左が同窓会館。中央が看護婦寄宿舎(恵和寮)。その後ろは慈恵看護専門学校。写真左奥が病院の本館(現・B棟)。

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慈恵医大付属病院。港区西新橋3-25。1990(平成2)年1月15日

中庭を2つ持つ「日」形の平面の4階建ての病棟の前面に、階段状に中央部分を前に突き出させた診療室などの棟をくっつけた形ではないかと思う。今は高層ビルに囲まれてこじんまりした感じがする。代表的な震災復興期のデザインだと思うが、左右対称の正面は見て心地いい。同愛記念病院に似ているかもしれない。『日本近代建築総覧』では「慈恵医大付属病院、建築年=昭和5(1930)年、構造=SRC4、設計=慈恵会建築部、施工=間組」。「東京慈恵会医院本館」というのが建設時の名称だったらしい。現在は正確には「東京慈恵会医科大学付属病院」のF棟であるが、高層の中央棟が建つ前は2号館といった。





慈恵医大付属病院。1990(平成2)年1月15日

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金龍製作所。中央区月島2-20。1989(平成1)年11月26日

東仲通りの東の裏通り。今も写真に写っている建物はほぼ残っている。写真右の二軒長屋の1軒が1986年の地図に「金龍製作」となっているが、ネット検索ではヒットしない。路地をはさんで看板建築風にした二軒長屋が並んでいる。裏通りであっても通り沿いの家は商店でなければ会社や家内工業所なのだろうと思うが、今は住居になっている場合が多いようだ。路地を入ると朝汐運河の堤防で突き当りなので入りづらいが、まだ戦前築の二軒長屋などが残っているようだ。



民家、パシフィック検査。月島2-19。左:1991(平成3)年1月20日、右:2008(平成20)年10月7日

左写真の民家は1枚目写真の左奥に写っている。二軒長屋の1軒が残っているもの。右の路地をはさんで右写真の白く塗ったタイル貼りの看板建築の家がある。超音波深傷検査器などを取り扱っている会社のようだ。1枚目写真のときは薄茶のような色だった。壁がたぶんスクラッチタイルを貼っているようで、その色に戸袋や軒の飾帯を塗っていたのだろう。

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