ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東仲通りの二軒長屋。中央区月島2-9、8。2008(平成20)年10月7日

清澄通りの初見橋交差点の南、月島2-3~12は、通り沿いは商店や家内工業所もあるが、その裏手は工場労働者が住む長屋が連なっていた。今はかつて月島や勝どきにあった工場はマンションに替わり、続いて長屋の街区もマンションに替わっていっている。清澄通り沿いの月島2-10~12はすでに再開発されてタワーマンションと月島保健センターになった。そろそろその裏手も、という感じだ。
清澄通りの東に清澄通りと並行している通りが東仲通り。上の写真はその通り沿いに残っている古い建物を並べた。左写真は通りに向いて二軒長屋の家が立ち、その左の1軒は前面を看板建築に改装している。その家の後ろには二軒長屋が3棟残っていてちゃんと使われている様子だ。右の空き地にあった家の写真が『東京ダウンタウンストリート1980's>中央区月島』に載っている。入母屋屋根の日本家屋のアパートだったようだ。空地の右には東湯があったが、現在はセコムのビル。
右の写真は二軒長屋のうちの1軒がビルに建て替わっている。その後ろの一帯に四軒長屋が建ち並んでいたが、今でも5棟くらいが残っている様子だ。
下の写真は清澄通りと東仲通り間の裏通りに残っている四軒長屋。二軒長屋が2棟くっついているのかもしれない。


四軒長屋。月島2-8。2008(平成20)年10月7日

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松戸中央公園正門。千葉県松戸市岩瀬。2012(平成24)年2月9日

松戸駅の東にある丘を相模台という。ほぼ斜面の林が取り囲んでいる丘であるが、台地の先端の半島状の地形で、標高は28m。松戸駅から見ると斜面はビルが立ち並んで丘を隠してしまっている。丘の上の中央公園や聖徳大学に出るには階段や坂道もあるが、もっぱらイトーヨーカドーのエスカレータが利用される。
相模台一帯は戦前は、陸軍工兵学校だった。写真の古い門はその正門だったもので、当時のままの場所に残されている。工兵学校の設立は1919(大正8)年12月で、煉瓦の正門はそのときに造られた。コンクリートの歩哨哨舎は昭和になってからのもの。
工兵学校の学生は一般から募集しているわけではなく、「全国の部隊から選抜派遣され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育期間を経て、原隊に復帰し、工兵として各種任務に従事した」(『陸軍工兵学校と松戸』)。
ネット上での工兵学校の絵はがきや地図などの資料は、『表の家』が充実している。



goo古地図>正和38年航空写真より。建物名は陸軍工兵学校だったときのもの。

戦後は陸軍工兵学校の施設は無傷で、1949年(昭和24年)に新制大学として創立された千葉大学工学部に受け継がれた。千葉大工学部が1964(昭和39)年7月に西千葉に移転した後、跡地は公園、聖徳短大、市立第一中学校、国家公務員宿舎などになった。松戸中央公園の開園は昭和41年3月1日。
ぼくは昭和38・39年に千葉大工学部に進もうとして、松戸の校舎で試験を受けた。自分の実力を顧みない無謀なたくらみだったが、高校を出たくらいでは世間のことはなにも知らないからしかたない。上の航空写真が受験した頃の工学部である。50年も前のことで憶えていることはほとんどない。陸軍工兵学校のことなどは知らなかった。地獄坂を上って行って正門から入ったはずだが、本部の建物のことなどは記憶にない。試験場は正門右の東西に長い校舎に間違いない。校舎の横に広いグラウンドがあったのを記憶している。グラウンドの向こうに兵舎だった建物を見たはずだが、あやふやである。現在は聖徳大学の南の駐車場になっている場所に当たる。

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千葉大園芸学部のフランス式庭園。千葉県松戸市松戸648。2008(平成20)年3月30日

千葉大園芸学部がある台地は、徳川昭武が建てた戸定邸とつながっていて、戸定が丘と言われる。キャンパス内には大正の初期に造園された洋式庭園が残されている。かつての正門だった門柱は千葉県立園芸専門学校のときのもので明治末のもの。その他に古いものというと、農園の温室に戦前からあるものがあるかもしれない。使われているかどうか怪しいプールはどうだろう? 戦前の校舎は木造ばかりだったようで残っていない。
フランス式庭園は「サンクガーデン」と言われていたらしい。写真奥の建物は研究A棟。大正6年に建てられた講堂があった場所に、そのイメージを模して昭和58年に建てられた。
A棟の前に円形に配置された扇形の池が造られていて、その中心に円筒形の記念碑が置かれている。彫が浅くてはっきりしないが「大禮記念 昭和三年十一月十日/等園芸學校職員/生徒建立」と書かれているようだ。昭和天皇の即位の礼を記念したもの。



左:大礼記念の碑。右:イタリア式庭園。2004(平成16)年11月24日



旧正門。2012(平成24)年2月15日

千葉大園芸学部の前身は明治42年に設立された千葉県立園芸専門学校。写真の門はそのときの建造かと思われる。園芸専門学校は大正3年に千葉県立高等園芸学校と改称した。戦後、千葉大学に併合された後も正門として扱われていたが、今は松戸駅に近いほうに変わった。
旧門があるのはキャンパスの台地の西の麓で、松戸駅からだと戸定邸の丘を回り込んで来るか、流山街道の小山バス停から常磐線の歩道橋を渡ってこなければならない。しかし、昔は門の前の道が県道で、にぎやかな商店街から北総台地の奥へ向かう往還へ入る地点で、人の行き来もけっこうあったのだろう。今はこの門を通る人は日に10人いるかどうかではないだろうか。

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流山街道旧道。千葉県松戸市小山。2012(平成24)年2月27日

現在の流山街道は常磐線を越すのに路線橋を渡るが、その橋が造られる以前は少し北側で踏切を渡っていたことは前回の記事で述べた。その踏み切り跡から流山街道の起点である二中前交差点の間の旧県道がほぼそのままの形で残されている。浅間(せんげん)神社の麓を通っている道路だ。旧道は常磐線とJRの松戸車庫への引き込み線に挟まれた区域にあり、浅間神社と高橋製粉の工場、住宅数十戸が周囲とは切り離された感じで存在している。ここへのアクセスは北の端の線路をまたぐ歩道橋と、車は二中前交差点から入る旧県道だけ。そんな道路にしては割と立派なのは、昔は松戸―市川の幹線道路だったからだ。高橋製粉へ出入りするトラックが止まっていても邪魔にならない。
浅間神社の山は「小山」の地名の起因になった標高28mの小さい山だ。江戸川の沖積平野にあるはずだが独立峰である。台地の先端が太日川(江戸川)の浸食作用で切り離されたもの、というがかなり珍しい地形ではないかと思う。山の植生は「浅間神社の極相林」として県の天然記念物である。



市制記念の国旗掲揚台。松戸市小山639
左:2004(平成16)年11月21日、右:2012(平成24)年2月12日

浅間神社の入り口の向かい側に「国威宣揚」の国旗掲揚台がある。たぶん全国にまだけっこう残っていると思うが、この掲揚台の裏側は「松戸市制記念」。松戸市になったのは昭和18年4月1日で、そのときに建てられたものらしい。たいていは建てた団体名と年が書かれるものだが、この国旗掲揚台には見当たらない。建てられた当時は台地の上を通る主要県道とそこから別れて台地の裾を通る脇道との分岐点という、一応は妥当な立地である。

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小山浅間橋。千葉県松戸市小山。2007(平成19)年9月9日

小山浅間橋(こやませんげんばし)は流山街道(県道5号線)が常磐線を越えるための跨線橋。写真右方向が市川方面で、100mもいかないうちに国道6号(水戸街道)と立体交差する松戸二中(松戸市立第二中学校)前交差点に出る。流山街道はそこが起点である。その先は県道1号線(松戸街道、市川松戸線)になる。写真左方向は葛飾橋の方向で、橋の向こうから県道54号線(松戸草加線)が始まるのだと思う。松戸市街は橋を渡ってから右へ、常磐線に沿って下っていく道だ。
写真の橋は今の橋(平成23年3月竣工)に架け替えられる前の橋である。架け替えのため、写真左枠外に仮橋が出来ていて、古い橋はすでに交通止め。この橋の竣工年は写真奥の親柱に銘板がはまっていてその写真も撮ったのだが、遠くに小さく写っていただけでよく読み取れない。無理やり「昭和三十一年二月竣工」と読んで話を進める。
1961(昭和36)年に松戸バイパスが完成している。新葛飾橋の完成は遅れて1964(昭和39)年で、松戸バイパスは葛飾橋から松戸二中前交差点で現在の国道6号につながったのだろう。小山浅間橋が昭和31年に架けられたのなら、葛飾橋―小山浅間橋の間の現県道54号もそのときに開通していたのかもしれない。
流山街道が小山浅間橋で常磐線を越えるようになる前は、少し松戸駅側にあった踏切を渡った。今の道路が跨線橋に出るために坂を上るが、その坂の下である。



小山浅間橋。2007(平成19)年9月9日

写真奥に立体交差している国道6号線、その下が松戸二中前交差点。正面奥の大きなアパートは国鉄の寮だった建物。今はマンション(リビオ松戸ヒルズフィールド、11階建て、151戸、2014年2月築)に建て替わっている。


小山橋。松戸市小山
2003(平成15)年12月2日

県道54号線は葛飾橋と小山浅間橋の間で坂川を渡る。そこに架けられた橋。写真の橋は今は架け替えられている。この橋の上流にも小山橋という橋がある。

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渡辺商店。千葉県松戸市小山56。1989(平成1)年4月1日

流山街道の小山地区にはまだいくらか旧街道の俤を感じられる建物が残っている。流山街道とは言っても松戸―市川の松戸街道につながっていて、その認識が強いかもしれない。松戸駅―市川駅の京成バスが頻繁に行き来している。戦前は南の台地や矢切からの作物を野菜市場に運んでくる農家を相手に商店が並んだらしい。
渡辺商店はナショナルの看板があって電機店のように見えるが荒物雑貨屋である。建物は二軒長屋で右側の「みちくさ」というお好み焼き屋は廃業しているようにも見える。
現在は写真右端のイシカワ理髪店が家を建て直して商売は続いている。魚浦鮮魚店は同じ建物で健在。みちくさは壁などを改装して住居として使われている。渡辺商店もそのまま残っているが見たところ空家で、ナショナルの看板は折れ曲がってしまって廃墟にしか見えない。



秋本木工。松戸市小山73。1989(平成1)年4月1日

渡辺商店の南に隣接して、やはり渡辺商店の建物と同じような建物が残っている。『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房出版、2005年)の昭和12年の街並図では「藪崎板金」。その隣が写真右端の看板建築のような建物で、これが「秋本木工」。『昭和の松戸誌』では「秋本棒屋」で、解説では「秋本棒屋は三代目。現在は数少ない職業。健在」。秋本木工は今もそのままだが、写真の古い2棟の家は建て替わった。

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民家、四軒長屋。台東区浅草橋3-9。2013(平成25)年4月29日

左衛門橋通りから横丁を入った裏通りとの四つ角。和風下見板の住居が四つ角の角にあるのが珍しい。その右にモルタル壁の看板建築がある。住居として改装されているが、二階の窓の上の角に洋風の小さなレリーフと軒下にロンバルディア帯を模した飾帯が残っている。角の民家の左は看板建築にした四軒長屋。


三洋商会。浅草橋3-9
1988(昭和63)年4月10日

1枚目写真の左端がPKビル、その隣が今はナカバヤシという印刷・事務用品の会社のビル。三洋商会の建物はそのビルが建つ以前にあった建物で、写真ではよく分からないが、大きい木造建築の前面を看板建築にしたもの。三階の窓の上に屋根の軒が見えている。総3階建てに見えるが3階の窓は高さがなく、屋根裏部屋の明り取りのようである。古い航空写真を見ると、ひときわ大きい切り妻屋根が目立っている。

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三河屋貸衣裳店。台東区浅草橋3-34。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りと左衛門橋通りが交わる鳥越二交差点角のモルタル壁の洋風看板建築。現在は看板を下ろしてしまったが、2010年撮影のストリートビューには縦長の看板はないが、横長のほうはまだ架かっている。割と最近廃業したのかもしれない。この建物で最近注目されるのがホーローの右から書きの「蔵前橋通/東京日日新聞」の標示板だ(むにゅ’sのぉと>東京日日新聞と書いてある琺瑯看板)。




三五屋商店
台東区浅草橋3-9
1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りの鳥越二交差点から南へ、左衛門橋通りの浅草消防署浅草橋出張所の先に今もあるモルタル壁の洋風看板建築。1966年の地図に「三五屋商店」となっている。上の写真の左手前は旧消防署を取り壊した跡。

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左:リボルト、右:池田工芸。台東区浅草橋3-11。2013(平成25)年4月29日

忍岡高校の北の通りの裏通り。同じ路地を挟んで並んでいる建物。左の白い壁の三階建ての家は割と新しい建物にも見えるが、前面の壁は銅板かトタン板を貼ったもののようで、横の壁は波トタンが使われている。寄棟屋根であり、戦前の木造家屋なのかもしれない。現在はなんの看板もないので空家かもしれないが、1986年の地図では「リボルト」、1966年では「三和工業所」。
池田工芸は、着物の残り切れなどからバッグなどに加工する工房。平成7年の創業という。



森下印材店とその裏。浅草橋3-11
左:2011(平成23)年12月18日、右:2013(平成25)年4月29日

池田工芸の裏になるが、蔵前橋通りの南の裏通り。森下印材店の裏側に右写真の家がある。壁はトタン板で石積み風に見せて、洋風な感じがする住居だ。屋上に瓦屋根の小屋を載せたように見える。屋上の物干し場への出入り口だろうか? 手前の空き地は池田工芸の建物の横を入ったところで、二軒長屋を取り壊した跡。石積み風の家の前を左に、甚内神社の横を通って横丁に出られる。


ダイトータイプ。浅草橋3-12
1988(昭和63)年4月10日

蔵前橋通りの浅草橋三丁目交差点から南へ入ったところ。写真左は洋食の一新亭。現在も写真のままの建物で盛業中だ。「洋食」と書かれた白い暖簾が出ているとうまそうに思えるのだが、ぼくの歳になるともう少しくつろげる構えの店に入りたい。店を紹介しているサイトに「創業100年以上…建物は昭和3年築」というのがあり、ご主人の秋山武雄氏のことを知った。YouTubeの『写真家 秋山武雄』で、写真とのかかわりを自ら語っていられる。
ダイトータイプ(1966年の地図では「ユリ美容室」)は、現在では取り壊されて空地だ。

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マリンカ、中根商店。台東区浅草橋3-8。1988(昭和63)年4月10日

忍岡高校の北の通りに、現在「シティーコープ浅草橋Ⅲ」(10階建て、59戸、1993年3月築)というマンションになっているが、それが建つ前の家並み。角にトタン張りの看板建築にした二軒長屋。その左側は純喫茶マリンカ、角の右側は木の表札がかかっていて家内工業所のように見える。この建物は昭和40年代の地図では「やなぎや」となっている。
マリンカの左のモルタル壁の看板建築は中根商店(帽子製造業)。前面は戦後の改装だろうか。現在のマンションに今も店を構えている。昭和40年代の地図では「萩原ボタン」。



八木無線電気、太郎。1987(昭和62)年8月2日

1枚目写真の別方向からの写真。写真左の「テレビ」の看板が残っている店は八木無線電気。どうみても廃業している。同じ建物の右側は「太郎」という居酒屋らしい。1枚目写真では、同じ看板の裏側だと思うのだが「居酒屋藤英」となっている。

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