ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




小山樋門橋。千葉県松戸市小山25。2003(平成15)年9月28日

流山街道(千葉県道5号松戸野田線)の坂川に架かる橋で、1898(明治31)年に水門(小山樋門)として造られたレンガ造りの橋。通称、レンガ橋とかめがね橋というそうだが、3連アーチだからめがね橋というのはどうかと思う。今は流山街道になっているが、昔は松戸―市川の松戸街道といったと思う。現在の松戸街道(千葉県道1号市川松戸線)は、国道6号を越えた先からをいう。松戸―市川の主要な往還で、たぶん江戸期からあった街道だと思う。そこに頑丈な橋を架けるついでに水門を設けたのかもしれない。
坂川は江戸川への排水がスムーズにいかず、簡単に洪水を起こした。小山樋門のところは1836(天保7)年に国府台下まで掘削したもので、水門は江戸川から逆流する水から松戸市街を守るためである。水門から下流の矢切の住民からは建設反対の声があがり、殺傷事件まで起きたという。1904(明治37)年に坂川河口(松戸市下矢切)に柳原水閘 (やなぎはらすいこう)が建設されて小山樋門の役目は終わったのだと思う。



小山樋門橋。2012(平成24)年4月18日

現在は小山樋門のすぐ下流の小山ポンプ場からふれあい松戸川の水をくみ上げて坂川に落としている。その水の一部は上流へも流していて小山樋門のところでは水は上流に流れるようになった。坂川を浄化するための工事の一環で、1994年から初めている。上左写真では護岸工事が進められている。
水門の扉は下流側にあったはずで、右写真の2本の柱のようなでっぱりの付け根に溝があるが、そこに扉が差し込まれていたのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





望月米店。千葉県松戸市小山24。2006(平成18)年5月25日

写真手前が三叉路の角町交差点。左方向が市川へ向かう流山街道(千葉県道5号松戸野田線)、右方向が江戸川の葛西橋へ向かう葛西橋通り。葛西橋が昭和2年に架けられて、そこから水戸街道につなげる道路として通されたのが葛西橋通りだ。昭和40年に現在の国道6号が開通して、葛西橋通りは旧水戸街道に含まれることになった。
角町交差点付近には古い商家の建物のまま商売を続けている店とかつての商家と判る古い家が5・6軒残っていて旧街道の俤が感じられる場所だ。望月米店は昭和初期の地図にすでに載っている店。2006年に廃業したがしばらくは写真の店構えのまま残っていた。今は住居に改装された。写真では隣の家は電柱に「喫茶カトウ」の看板が残っているが今はない。建物の裏は坂川で、下写真の右端が望月米店。その右に流山街道が明治31年に造られた小山桶門橋の上を通っている。



望月米店の裏。1989(平成1)年4月1日



葛飾家そば店。松戸市小山24。2003(平成15)年9月28日

望月米店の並び。葛飾家も昭和初期の地図にある古い店だ。『昭和12年松井天山鳥瞰図』(本町自治会>本町歴史資料)の裏の広告には「西洋料理/生そば」とあり、戦前は洋食も出したらしい。現在は廃業して、建物の1階は住居に改装されている。隣の古い家は、『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)では、昭和12年で「梅富士金物店」。1994年の調査では「安孫子に移転」となっている。その家の横を坂川に下ると橋が架かっている。



葛飾家の裏。2003(平成15)年9月28日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





赤圦樋門(あかいりひもん)。松戸市松戸。2012(平成24)年4月18日

坂川から別れる派川坂川が江戸川に流入するところにある水門。一般には赤圦水門と言われているかもしれない。水門についているプレートによれば昭和32年3月に竣工したもので、清水建設の施工である。かなり古い水門で、それだけに最近のものにはない重厚な感じがする。
坂川からの水は直接江戸川に入るわけではない。江戸川河川敷を掘ってだか埋め立ててだかして造られた「ふれあい松戸川」に入り、1km足らず下流の小山ポンプ場で再び坂川に揚げられる。そこからは下流の矢切方向へ行くわけだが、一部は上流に逆流して再び赤圦樋門に戻って循環する。川の水を浄化するための処置で、1999年から始めている。
坂川といえば、高度成長に合わせるように生活排水で汚染された水が問題になった。江戸川から水を取り入れている金町浄水場からはやかましく改善を迫られたらしい。その方は下水の整備でほぼ解決しているようで、ふれあい松戸川は坂川を水遊びができるところまできれいにしようという試みである。




赤圦樋門、赤圦橋。2012(平成24)年4月18日

赤圦橋は水門のすぐ内側にある。かつての納屋河岸のメインストリートに架かっている。現在の橋は昭和33年2月の架橋。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





坂川分岐点。千葉県松戸市松戸1802。2007(平成19)年3 月28日

左に流れるのが坂川本流。その奥に青い欄干のきつね橋が見える。その先は旧水戸街道(千葉県道5号松戸野田線)の春雨橋。右へいく流れが派川坂川。奥に赤圦(あかいり)橋が見え、その先はすぐ江戸川堤防で赤圦水門がある。かつての松戸町の住所はこれらの川が境界になっていた。すなわち、写真左が「二丁目」、右が「納屋河岸」、中央が「三丁目」。
坂川は元々もっと上流で江戸川に流れ込んでいた。現在の国府台辺りの合流点までは江戸期の開削による。洪水対策のため赤圦水門のところで江戸川に放流するようにしたのは1813(文化10)年だという。思ったような効果が得られなかったとして、放流点をもっと南へ移す工事を1835(天保6)年に開始し、翌年には完成する。スムーズに水を排出するためには、より標高の低い地点に水を誘導する必要があったということだろうか。

本町自治会江戸川のすたるじあ』は平野正(遠州屋薬局)という方が小学校4~6年生だった頃(昭和26~28年)の思い出を綴ったもので、当時の江戸川や坂川のことが分かって興味深い。そこに上写真の左の道から分岐点の先端に渡る橋があったことが書かれている。「水面から1mの高さで20cmくらいの幅のコンクリートで出来た平均台様の代用橋」だったという。下の写真は分岐点にあるコンクリートの構築物。先端部分を水の浸食から保護するための護岸のようなものかとも思っていたが、どうやら橋の遺構のようである。


分岐点先端。左:坂川本流側、2008(平成20)年3月30日
右:派川坂川側、2008(平成20)年4月6日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






堤防際の民家。千葉県松戸市松戸2110
上左:2005(平成17)年1月25日
上右: 2006(平成18)年3月11日
左:2006(平成18)年9月3日

3枚目写真の右が江戸川の堤防で、その内側に流山街道のバイパス、その下に一般道が通っていて、写真の民家はそれらに挟まれる位置に建っている。2棟が並んでいて、両方ともほぼ同じような造りである。昔の航空写真を見ると元は5棟あったようだ。2列に並んでいたが、堤防の工事で1列はなくなった。今なら建売住宅だろうが、戦前の建築と思われるので借家として建てられたのかもしれない。3枚目の写真は堤防の上から撮ったので屋根の形が分かる。まったく同じには造っていない。
現在は1枚目写真の左の家は4階建てのマンションに建て替わってしまった。残った家は「天理教東善里分教会」の看板をあげている。



洋館付き住宅。松戸市松戸1774。2006(平成18)年3月11日

堤防際の民家の前の下道を南へ行くと坂川支流に架かる赤圦(あかいり)橋を渡って竹田接骨院(現在は取り壊された)の前を通る。その数軒先に写真の民家があった。今はアパートに建て替わっている。
玄関脇の洋間を洋館風に造る住宅は今でもあちこちで見かけるものだが、いずれは消滅してしまうだろう。「和洋折衷」とか「文化住宅」ともいう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





竹田接骨院。千葉県松戸市松戸1797。2008(平成20)年2月28日

JR松戸駅付近の江戸川の堤防の内側は流山街道のバイパスの道路が通っている。その下道になる道路はかつての納屋河岸といった町域を貫通する主要道路だったらしい。昭和30年ごろの堤防工事でバイパスにしたりして、納屋河岸の町域はその半ばが失われた。写真の建物は下道に入り口を向けていた富士見湯という銭湯だった建物。堤防に向いている入り口は、かつての商圏だった納屋河岸のメインストリートに向いていたわけだろう。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)によると、富士見湯は浅草から来て開業したが戦時中に廃業し、今(1994年調査)は接骨院に貸している、ということだ。
2011年のストリートビューではまだ見られるから、2・3年前に取り壊されたらしい。



竹田接骨院(旧富士見湯)。2006(平成18)年3月11日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





本町ビル。神奈川県横浜市中区本町5-49。1986(昭和61)年?

まだあるとばかり思っていたが2010年には取り壊されて、すでに2013年2月には新本町ビルが竣工して営業を開始しているということだ。写真の旧ビルは『日本近代建築総覧』に「本町ビル(旧帝国火災支店)、中区本町5-49、建築年=昭和4年、構造=RC5階建て」とある建物。タイルで煉瓦造り風に見せ、1階部分は石張りにして大正期のビルのようにも見える。1階の柱に三角形を積み重ねたような装飾があるが、かなり地味な外観である。八楠(やなん)という港湾運送の会社の本社ビルで、たぶんビルの持ち主でもあるようだ。
上の写真では八幡回漕店の看板である。『八楠』によると、株式会社八楠は1986(昭和61)年に港湾運送事業者「株式会社八幡回漕店」と倉庫業者「楠原倉庫株式会社」が合併し発足した。ということは、上の写真は八楠が発足する前の写真らしい。八幡回漕店がいつ頃このビルに入ったのかは分からない。帝国火災保険は、今は日本興亜損保になっているようだ。



1987(昭和62)年8月9日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三菱銀行横浜支店。神奈川県中区本町4。1987(昭和62)年8月9日

なんだかさえない写真だが、三菱銀行横浜支店の写真はこれだけしか撮ってなかった。この写真を撮ってからも10年以上存在していたのに我ながらどうかしている。建物名称は『日本近代建築総覧』では「三菱銀行横浜支社」、1996(平成8)年に東京銀行と合併して「東京三菱銀行横浜中央支店」である。
1934(昭和9)年5月に川崎第百銀行横浜支店として建てられた。設計は横浜生まれの矢部又吉(1888-1941)。川崎財閥の顧問建築家として、川崎財閥系の建築物を多く手がけた人。日本建築学会が出した「保存に関する要望書」(1998年5月)によると、建物の特徴として、「戦前の古典主義様式の銀行建築の一典型であること。即ち、この建物はイオニア式の大オーダーの円柱をもち、ピラスター頂部やコーニス下端に華麗なクラシックの装飾帯を持つなど、正統的な古典主義建築の骨格と細部を有している。また内部もクラシックな意匠を極めて良くとどめている。」とし、立地の重要性にも触れて景観としての保存の必要性をも訴えている。
現在は「D’グラフォート横浜クルージングタワー」(2004年3月竣工、21階建て、135戸)という高層マンションに建て替わり、そのビルにファサードが復元された。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





森永牛乳中居町販売店。足立区千住中居町9。1988(昭和63)年12月11日

足立電話局の南の道路の向かいにあった牛乳店。10年位前まであったのではないかと思うが、今は住宅に建て替えられている。特異な表面の看板建築で、建物上部の壁に「和田」の字と「まるわ」のマークのレリーフがある。つまり、『日本近代建築総覧』の「和田牛乳店(旧和田邸)、建築年=昭和15年頃、木造2階、設計施工=大工」とある建物だ。

『足立風土記稿 地区編1 千住』(編集:足立区教育員会文化課、平成16年)に「和田牧場」の項目がある。牛乳店の建物は「和田牛乳」の牧場がこの地にあったことを示す旧跡といっていいものだった。
当書によると、和田牛乳は徳川慶喜に鷹匠として仕えていた和田半次郎が明治維新後に創業した。店は二長町(現台東区台東)にあった。1897(明治30)にこの地(旧足立電話局のある土地がほぼそれに当たるらしい)3000坪の土地を得て牧場を始める。当時は街道筋の後背地は水田や蓮沼が広がっていた。牧場で絞った牛乳は水戸街道を二長町に運ばれて製品化された。1926(大正15)年、西新井に「和田第一牧場」を開設して移転する。跡地は借家と借地にした。工場や住宅が建ち始めて、牧場などにしておくよりも、ということだった。1927(昭和2)年、牛乳不正問題(結核牛問題)をきっかけに、「牛乳営業取締規則」が改正されると、乳製品の製造に大きい設備が必要になり、個人の家業では経営が難しくなった。大正期には隆盛を極めた和田牛乳も1943(昭和18)年に明治牛乳に買収されてしまう。

写真の建物が昭和15年頃の建築とすると、やはり和田牛乳の販売店兼和田家住居として建てたものとしていいようだ。森永牛乳の販売店になったのは偶然だろうが、店を貸すなら明治乳牛よりも、となったのかもしれないなどという妄想が起こる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






NTT足立電話局。足立区千住中居町15
1988(昭和63)年12月11日

山田守の設計で1929(昭和4)年に建てられた有名な建物だ。施工は大倉土木。RC2階建てで、屋上に会議室を増築している。今もNTT東日本によって現役で使われている。NTTは建物を使いながら保存維持する方針のようで、建物の保存方法としては理想的なやりかただろう。
NTT足立電話局は2002(平成14)年3月で廃止された。以後はNTT東日本東京支店の営業企画部が入って事務所にしている。上と左の写真は、月額350円のキャッチホンを宣伝している頃のもの。上の写真は2枚の写真を合成しているので切れ目に段が入ってしまっている。
建物は逓信省が千住郵便局電話分室として建てたもので、当時逓信省の技師だった山田守の表現派風のデザインが見られる。建物の角に大きくカーブをつけてそこに玄関を置き、二階は水平線の間に縦長の窓と柱のような壁を並べた斬新なデザイン。そこをスクラッチタイルの壁で包んで柔らか味も感じさせる。二階には当初、電話交換機が据え付けられていたという。



電話局でなくなった後は、NTT千住ビルの名称に替わった。2003(平成15)年1月12日



近影。2012(平成24)年1月15日

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ