ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大工町通り。神奈川県小田原市栄町2-14。2011(平成23)年11月24日

国道255号が小田原銀座通りで西へ曲がるところ(銀座通り交差点)を逆に東へ向かうのが大工町(だいくちょう)通り。写真は国際通り及び新栄通りと交わる大工町通り交差点から大工町通りの北、栄町二丁目を見たもの。商店街になっていてアーケードがある。通りの向かい側(栄町一丁目)は家が取り壊されて駐車所になっているのが目立ち、アーケードもとぎれとぎれだ。
交差点角の家は住宅に改装されているが、その左へ高野古書店、ヘアサロン・ヒール、菊屋仏具店(現在は取り壊された)、川口鉄工、メディアックパソコン教室、佐川急便。


伊正利王爵、家具のかしわ木
小田原市栄町2-14
2013(平成25)年3月13日

大工町通り交差点を北へいってすぐのところ。新栄通りという商店街だが、今は商店より住宅の方が多い感じだ。
伊正利王爵はイタリア料理の店。古い商店を改装したようだ。観光客が立ち寄るといった立地ではないので、主に地元の人がくるような店なのかもしらない。
隣のかしわ木家具店は間口がわりと広い。右半分が本来の店舗で左側は増築した倉庫のような造りらしい。この通りは家具店が何軒か見られる。

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蜂谷ビル。千代田区九段北1-2
1986(昭和61)年9月23日

靖国通りの九段坂の下にあったビル。現在は「九段中央ビル」という10階建てのビルに建て替わっている。両側のビルは、右が「豊平ビル(現・九段北一丁目ビル)」、左は「グランドメソン九段」で、今も変わらない。昭和30年頃の火保図では九段1丁目4-1の住所で「清和会」。実は「峰谷ビル」と「蜂屋ビル」とした地図もあるのだが、後の文章の都合で蜂谷ビルに決める。
期待はしなかったが「蜂谷ビル」をネット検索したら、関連のありそうなサイトが2件あった。まずは『TSUTAYA DISCAS>佐野史郎』。佐野史郎が映画デビュー作の『夢見るように眠りたい』(1986年公開)を語ったなかに、「…今では見られない風景とか、都市のドキュメンタリーとしても良いよね。公開中に取り壊された“仁丹塔”とか、九段にあった探偵事務所の外観の蜂谷ビルとか、…」とあるから、その映画では探偵事務所があるビルとして登場するのだろう。
もう1件は『ウィキペディア>石川光陽(1904-1989)』だが、関連性は不明。石川光陽は「警視庁に所属していた警察官・写真家」で、「警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる」という人。今までそれとは知らずに彼の撮った写真を見ていたのかもしれない。1919(大正8)年から2年間、「東京九段下の蜂谷写真館」で修業したそうだ。その建物は関東大震災で焼失したと思われ、その後建て直したのだかそのまま閉店してしまったのかもわからない。つまりは峰谷写真館と峰谷ビルが同じという保証はなにもない。ビルの外観は写真館だったといってもまあうなずける、という程度なのだが、言っておけば知っている人がなにか知らせてくれるかもしれない。

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都立九段高等学校。千代田区九段北2-2。1986(昭和61)年9月23日

調べてみたら九段高校はなくなって、2006(平成18)年に開校した中高一貫校である千代田区立九段中等教育学校に引き継がれていた。
写真は早稲田通り側の表に対して、裏側である。肝心の表側の校舎だが、撮影時にはすでに現在の校舎に建て替わっていたのかもしれない。上の写真は学校の敷地の西側に並んでいた講堂だか体育館などだったかと思うが、まだ残っていたもの。
YouTubeの『東京都立九段高校校歌』で古い校舎を取り壊している「1984年の夏」の写真が見られる。上の写真の建物を校庭側から撮った写真も載せている。



下見板の洋館。九段北1-15。1982(昭和57)年4月

現在の九段中等教育学校の早稲田通りの向かい側に西洋館のお屋敷がある。『日本近代建築総覧』に「山口万吉邸、建築年=大正14年、構造=RC2階建て、設計=内藤多仲、備考=設計協力木子七郎、今井兼次」とあるスパニッシュ様式の建物だ。その屋敷の敷地の早稲田通りに向いた角は駐車場になっている。写真の家はそこに建っていた。山口邸の塀の外であり、借家として建てたのだろうか。アパートだったのかもしれない。

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和洋女子大附属九段女子中・高校
千代田区富士見1-2。1986(昭和61)年9月23日

手前の道は冬青木(もちのき)坂で、上りきった辺りから正面を写したもの。右の塀はフィリピン大使館、左のビルはこれも和洋女子大附属九段女子中学校・高等学校。1992(平成4)年に「大附属」をとりさって「和洋九段女子中学校高等学校」と校名を変更している。大学は市川の国府台にあるが、実質は別の学校だと思い決したのだろうか。
写真の校舎は昭和22年の航空写真に写っている建物と思われる。もう何枚か撮影しないとどんな建物だったのか判らないのだが、撮影時はあまり興味を引かなかったらしく、この1枚しか撮っていない。

下の2枚は九段高校の早稲田通り向かいにあった隣り合った民家。右写真の右の塀は暁星学園。現在は三階建ての日本家屋は建て替わっているが看板建築の家の方は改装して使い続けているように見える。



九段高校前の民家。富士見1-2。左:1986(昭和61)年9月23日、右:1982(昭和57)年4月

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千代田区立富士見小学校。千代田区富士見1-10。2004(平成16)年1月3日

1877(明治10)年創立で、創立100周年がもうだいぶ昔の昭和52年だったという歴史のある小学校だ。富士見小のホームページの沿革では、現在の小学校の開設を1993(平成5)年としていて「学校設置条例の改正に伴い、東京都千代田区立千代田富士見小学校となる」時からと決めている。なにを意味しているのか分からない。
写真は早稲田通りから見えていた旧校舎の外観。戦後すぐは木造の仮校舎のような建物で始まったようで、写真の校舎は昭和30年代に建ったものかと思う。現在は2010(平成22)から、建て替わった「富士見みらい館」という複合施設の中に入っている。



鹿楼。富士見1-9。2004(平成16)年1月3日

日本歯科大学の早稲田通り沿いの北東角のところ。今は右奥で建設中のビルが前まで伸びているが、写真ではまだ古い建物が2棟残っている。右の看板建築は1階が飲食店風の造りで出入り口がないので、隣の鹿楼が使っているのではないかと思う。鹿楼は看板からエスニック料理の店だろう。鹿楼の左の薄いビルは武井ビル。
写真右の空き地は田中歯科器械店と仁木電気商会が取り壊された跡だ。田中歯科器械店は日本歯科大とも取引があり、業績も順調のようで、今は旧店舗の向かいの星和ビルを取得して田中ビルとしている。そのホームページの「会社概要」に看板建築の旧店舗の写真が載っていて、沿革に「昭和4年 現在の日本歯科大学脇の角地へ移転」とある。

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日本歯科大学。千代田区富士見1-9。1986(昭和61)年9月23日

写真のビルは日本歯科大学の校舎であるが、詳細はしれない。敷地の東北に建っていたもの。昭和22年の航空写真に写っているので戦前に建てられたもので4階建てらしい。現在の日本歯科大学生命歯学キャンパスには2棟のビル(本館と100周年記念館?)が建っていて、2004~6年の完成らしいが、1990年の航空写真では古い建物は取り壊されて工事が始まっているように見える。

日本歯科大といえば附属病院の建物が有名だ。『日本近代建築総覧』には「日本歯科大病院、建築年=昭和9年、構造=SRC5、設計=山口文象、施工=清水組」。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)では、竣工時の写真のキャプションに「日本歯科医学専門学校、現存、昭和9年/山口蚊象/富士見1-9-20 昭和戦前のインターナショナル・スタイルの代表的建築として喧伝された。…」とある。山口蚊象となっているが、1942年に文象と改名している。名称も建築時のもので、日本歯科大学になったのは1947年。著者は当書を執筆する際に現物を見て「…現況は、肌は黒ずみ、さまざまな改変の手を加えられ、今では見る影もない。…」と書いている。
下の写真左の工事用のボードで囲まれているのが附属病院だ。上の写真を撮ったときにはまだ外観が見えていたはずだ。ぼくは下の写真を撮ったときも、そんな歴史的建築物があるとはまったく気が付かなかった。


日本歯科大学。1988(昭和63)年1月15日

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栗林邸。千代田区富士見1-2。1989(平成1)年5月5日

当ブログ前回の1枚目写真のヒマラヤスギのある民家。早稲田通りの区立富士見小学校の向かいにあった。今はオフィスビルに替わってしまったから姓だけなら個人名を出してもいいだろう。K邸としてもたいした違いはない。車寄せのような立派な玄関のある洋館である。航空写真では切妻屋根に見え、木造ではないかと思う。
写真ではヒマラヤスギはだいぶ枝を刈りこんであって、割と建物がよく見えている。横丁側の奥に茶色の四角い建物があるが、たぶん倉庫だろう。


栗林邸。1988(昭和63)年1月15日

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河野タバコ店。千代田区富士見1-3。1986(昭和61)年9月23日

JR飯田橋駅西口の前を通る早稲田通りの富士見一丁目に並んでいた看板建築の商店。日本歯科大学と区立富士見小学校の向かい側だ。上の写真ではヒマラヤスギのあるのが栗林邸で、歩道の切れているところは横丁が早稲田通りを横切る四つ角。その角に緑の日よけを出しているのが河野タバコ店。写真手前の2棟の看板建築の家はだいぶ以前からしもた屋になっているらしく、古い住宅地図に当たっても社名や店名は出ていない。
下の写真は栗林邸の南。いずれも商売はやめて、空き家になっている家もありそうな様子だ。撮影時の地図では写真右の自販機を置いているのが「友林堂」その右が「一光」のようだ。1970年頃の地図を参照すると、一光は「一光写真商会」。
現在はもちろんこれらの木造家屋は一掃され、何棟かのビルが並んでいる。


有林堂。富士見1-2。1989(平成1)年5月4日

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根津山荘。文京区弥生1-2。1990(平成2)年5月6日

根津裏門坂の日本医科大学付属病院の向かい側に新坂(S坂)の上に通じている横丁がある。そこを入ってすぐのところにあったアパート。1974年の住宅地図では「根津山荘アパート(渋谷)」で、弥生正緑館の渋谷商事が所有しているものかと想像している。根津神社の西の高台は空襲で焼き払われたが、昭和22年の航空写真には根津山荘と思われる建物が写っている。弥生正緑館も残ったわけで、横丁から根津神社側の東側は焼失を免れたらしい。現在は「サンピア西須賀」(2002年1月築、という5階建ての賃貸マンションに建て替わっている。



民家。弥生1-2。2000(平成12)年5月3日

右写真の奥のビルは日本医科大学付属病院。右奥の切り妻屋根の家は根津山荘。正面の家は、元は右後方に伸びていたわけで3世帯用のアパートだったと思われる。
下の写真は根津山荘の向かい側の辺りにあった木造アパート。写真右に階段があるので、横丁からさらに横に入る路地を撮ったものだろう。戦後まもなくの建築だろう。千代田アパート だとすると、上右の写真の左の2本の庭木があるところ(ラフィネ弥生)が下写真の左の木が写っているところに当たる。


千代田アパート。弥生1-5。1990(平成2)年5月6日

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弥生正緑館。文京区弥生1-2。1989(平成1)年4月29日

根津神社の西の崖上に見えている洋館。時期にはつつじが咲く斜面にある立札には「明治30年頃、輸入生地商を営む初代当主澁谷政吉氏によって建てられた。当時大倉喜八郎・渋沢栄一等の実業家がしばしば訪れている。内部は一階が高い格天井を持つ30畳ほどの洋間、二階は純和風。弥生正緑館の名称は平成10年文化財登録を記念して現当主澁谷鉦吉氏が初代の雅号に因んでつけた」とある。
撮影時の地図では敷地にある何棟もの建物をひっくるめてだろうが「渋谷商事/弥生アパート」。また、『日本近代建築総覧』の記載は「渋谷邸(旧渋谷政吉邸)、建築年=明治39年、木造2階建、設計・施工=宮大工、「東京の明治建築」読売新聞による」。
新坂の上の道路からでは、洋館は敷地の奥にあって間には別棟もあってよく見えない。


弥生正緑館。文京区弥生1-2。2007(平成19)年12月1日



新坂上の下見板の家。弥生1-2
左:2000(平成12)年5月3日、右:1989(平成1)年4月29日

新坂の上、根津神社と接して建っていた下見板の洋風の家。現在は建てなおされたようだが、その新しい家の外見は旧家屋とそっくりで、リフォームしただけのようにも見える。弥生正緑館のある渋谷家の敷地に建っているのかもしれない。

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