ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




旧安島室内装飾。港区三田1-11。2011(平成23)年9月13日

麻布十番のほうから古川に架かる小山橋を渡った住宅街の通り。上の写真が通りの北側、下がその向かい側。商店街と言えなくもないという雰囲気だが、今は商店らしい店は八百屋に豆腐屋にクリーニング店があるくらいだ。戦災に遭わなかったところなので、古い民家が両側に数軒だが、見られる。
goo古地図の航空写真を見ると、三軒長屋および四軒長屋が両側に3棟づつ縦に並んでいたようだ。今残っている古い家はその長屋の一部なのだろう。上の写真で家の前に琵琶の木の鉢植えを置いている家は昭和40年頃に長屋を建て替えたものらしい。


写真左は亀屋豆腐店。コーラの販売機のあるのは八百文。
三田1-11。2012(平成24)年5月16日



民家。三田1-11。2012(平成24)年5月16日

小山橋の通りの裏手にある民家。ほとんどの家が建て替わっているなかで、写真の家は戦前からある家を改修して使っているようだ。
小山橋の名称はかつての「三田小山町」による。住所としての「三田1丁目」は1967(昭和42)年からのもの。現・三田1丁目のほぼ西半分が三田小山町で、江戸期は寺と藩邸が占めていたと思われるが、明治2年には早くも三田小山町が成立している。1947(昭和22)年に芝区と麻布区が合併して港区になると、「芝三田小山町」となった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





東京さぬき倶楽部。港区三田1-11。左:2012(平成24)5月16日、右:2011(平成23)年9月13日

ネットの情報を参照すると、東京さぬき倶楽部はビジネスホテルとレストランを運営している施設で、以前は「東京讃岐会館」の名称で香川県の生協が運営していたという。香川県民の東京での拠点および香川県をPRする物産店といった施設のようだ。1969年の地図では「香川県東京事務所/県職員宿泊所」で、より香川県の出先機関といった性格が出ている。ビルの屋上と門柱はまだ「讃岐会館」の看板のままだ。
建物は大江宏建築事務所が設計したもので、1972年の竣工。ぼくは知らなかったが、大江宏はたいへん有名な人で、香川県文化会館(1965年)、香川県立丸亀高校武道館(1973年)、なども設計しているから香川県とは懇意にしていたのだろう。写真には写っていないが、讃岐会館の12階建てのビルの右に2階建てガラス張りの玄関ホールが付属している。大江の設計になる法政大学55/58年館に付属している会議室棟と似たデザインでる。



東京さぬき倶楽部の蔵とばんげ
2012(平成24)5月16日

東京さぬき倶楽部の土地は元々は個人の邸宅だったと思う。ビルが建つ前まで、その邸宅が香川県職員宿泊所として使われていたのではないだろうか。古い門と蔵は、戦前からあったと思われるその邸宅の遺構と思われる。門を見ると母屋は洋館だったのかとも思えるのだが、昔の航空写真では屋根が見えるだけなので分からない。
「ばんげ」は別館のレストラン。写真では逆光で白く飛んでしまったが、2階建ての日本家屋である。古民家を移築したものらしい。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





日完工芸。港区三田1-10。2011(平成23)年9月14日

古川(上流は渋谷川で、天現寺橋で笄(こうがい)川を合流するところから下流)は一の橋で直角に東へ曲がる。その内側は戦災に遭わなかった地域である。写真の通りは一の橋交差点-赤羽橋南交差点の大通りから南に入る横丁だが江戸期からある古い道路だ。写真はその西側で、今でも関東大震災後に建ったと思われる民家や長屋が残っている。東側は再開発で高層マンションに替わったが、それ以前にはやはり古い家が残っていたと思われる。
日完工芸の建物は切り妻屋根なので、木造で表面をモルタルで洋風に仕上げた事務所だろう。日完工芸は昭和38年の創業ということだが、昭和44年の地図では、この建物は「東京計量工業KK工事部」。
古い航空写真を見ると、1枚目写真右のチャイナクイック、その右は住宅だが、そこに四軒長屋があったようで、その奥にもやはり四軒長屋が並んでいたようである。今でもその一部が残っている。また、日完工芸の裏には同じ間取りと思われる一戸建ての貸家が4棟並んでいたようだが、それらは全て建て替わっている。
1枚目の写真の左手に、瓦屋根の古い民家や讃岐会館の古い門が見えているのだが、そちらに気をとられて、日完工芸横の路地を見てくるのを忘れた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






平野製作所。港区芝5-24。2009(平成21)年6月8日

慶應仲通り商店街の狭い通りから、同じように狭い通りへ入ったところにある洋風の建物。戦前に建てられたものとみて間違いない物件である。会社の事務所として建てられたものだろうか。銅板の枠で囲まれた縦長の窓が左右対称に並んだファサードがかっこいい。窓の桟が古いままで残されている。
Googleの航空写真で上から見ると建物前面の三分の一ほどが平らな屋上である。その後ろは寄棟屋根だが、右端に出入り口を設けている。Goo地図の昔の航空地図も参照すると、それには普通の寄棟屋根で写っている。その前の部分を改修したようで、建物は木造とみていいようだ。
写真ではドアに表札が出ていて、木の方が「平野製作所」なのかもしれない。この会社はネット検索しても出てこないので、廃業して建物は住居に使われているのだろう。外に置かれた鉢植えはきれいに手入れされている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:小金塗装工業所。港区芝5-31
左:吉川屋文具店。芝5-29
1990(平成2)年2月11日

掲載した2枚の写真は芝・三田で撮ったものだが、くわしい場所は覚えていない。プリントに番号が印字されているので、当ブログ前回の昭和電線商事を撮影する前に撮っていると分かる。するとたぶん芝5丁目だろう。「文具の吉川屋」と店名が判っている建物について、ネット検索したら簡単に住所が出た。区立三田図書館の向かいで、ストリートビューで見たら、店も建物もそのままで現存していた。
上の写真は右のビルがおそらく「内田重蔵商店」で、そのビルだけは替わっていない。だとすると、木造の家のところは、現在「勝文館ビル」が建っているところだ。
吉川屋は看板建築に見えるが、日本建築の前面に衝立状のものを立てたものではなさそうで、建った時期も戦後のように見える。
1枚目の写真は、1995年の住宅地図では、下見板の二階建ての家が「㈲小金塗装工業所」その右は見た目通りで「車庫」だが1970年の地図では「三田運輸」。さらに右の家は空き家らしい。

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )





昭和電線商事。港区芝5-14。1990(平成2)年2月11日

桜田通りの三田二丁目交差点。中央の青い屋根の建物が昭和電線商事。その右にアーチのある路地が「慶應仲通り商店街」で、地下鉄浅草線・三田線の三田駅とJR田町駅への近道だ。写真右端は富士銀行三田支店を建て替えているところらしい。その左へ、中村屋(化粧品)、まつや時計店、昭和電線、朝日屋(そば)、吉野家。
昭和電線は『日本近代建築総覧』では「昭和電線商事(旧豊国銀行)、建築年=明治41年以前、構造=2階建て」の記載で、明治40年頃に豊国銀行として建てられたものか? ということくらしか分からない。
建築士から見た…>旧昭和電線商事ビル』には1970年代の撮影と思われる写真が載っている。それを見ると正面左右と横の壁面はタイル張りで、上にペディメント風の飾りがある窓の下の壁面にメダリオンの飾りがついている。また、その本文では『 豊国銀行京橋支店』が曾禰中條建築事務所の設計で大正3年に建てられていることから、曾禰逹蔵の設計になるものではないかと推定している。なお、豊国銀行の設立は明治40年という。


昭和電線商事。1990(平成2)年2月11日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





理容ロダン。墨田区東向島1-4。1989(平成1)年6月25日

25年も前の写真だから撮影場所が分からなくなってしまっていた。ロダンという理髪店が写っているから、期待はしなかったがその店名でネット検索したら、今も営業されていて住所が判明した。地蔵坂通りの、区立第一寺島小学校の北の横丁を西へ入ったところだ。その道は微妙にくねりながら鳩の街商店街の北端とつながっている昔からの道である。
写っている建物では、ロダンの手前の住居と左奥の看板建築(永和紙工)が現存している。写真右の家は地蔵坂通りとの角にある「池田屋」という店で、現在はビルに替わって「諏佐工務店」などが入っている。



美容室エリカ。東向島1-13。1989(平成1)年6月25日

1枚目写真の横丁をさらに西(写真左)へ行ったところ。現在では手前の日本家屋とトタン貼り看板建築がなくなって駐車場になっている。さらに奥にも看板建築が並んでいるが、それらの向かい側に区立露伴児童遊園がある。看板が出ている店は「エリカ美容室」と「ベーカリー新道」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:仲井歯科医院。墨田区東向島1-32.2008(平成20)年12月3日
右:足立屋細井商店。東向島1-31.2013(平成25)年8月3日

水戸街道の東向島二丁目交差点の1本南の横丁を西へ入ったすぐ裏手。戦前に建った民家や長屋がまだポツンポツンとみられるところだ。改修を受けて新しそうに見える家でもよく見ると軒の下に出桁があったりする。
同じ四つ角に足立屋酒店と仲井歯科がある。足立屋はネット検索しても出てこないし、今は営業してないのかもしれない。それにしては看板がまだ古くなっていない。「蜂ブドー酒」の看板はかなり珍しいのではないか。
仲井歯科は戦後の建物だろう。1960年代の風情だ。



四軒長屋。東向島1-31。左:2008(平成20)年12月3日、右:2013(平成25)年8月3日

足立屋の写真で、右奥へいくと四軒長屋がある。「青志寮」の表札が出ている1戸は2階前面を増築していて、各戸ごとに1階は改修しているが、屋根の瓦が残っている。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





支那そば屋。墨田区東向島1-27。2004(平成16)年1月24日

水戸街道沿いの東向島1丁目の範囲にある古い店舗を紹介する。いずれも最近の写真なので現状との違いはあまりない。1枚目の写真は鳩の街商店街の入り口からすぐ北のところ。看板建築の長屋のように見えるが、すべて1戸建ての家で、切り妻屋根の家の前面を看板建築にしている。店は左から、焼肉はだ、車庫(伊林呉服店があった)、旧加藤運動具店、支那そば屋、住宅、㈲神保(製本)、ホシレコード店。レコード店は古くからある店のようで1968年の地図に「星楽器店」で出ている。



榎本洋服店。墨田区東向島1-32。2008(平成20)年12月3日

1枚目の写真から北へ、コモティイイダのさらに先。榎本洋服店の二階の袖看板は「テーラー榎本」。横から見ると瓦葺きの切り妻屋根の日本家屋と判る。看板建築にしたのは戦後のことのように見える。青い洋風の瓦が載った家は「小畑店装」という室内の改装をする会社のようだ。1968年の地図では「小林金物店」。



きちでん。東向島1-34。2008(平成20)年12月3日

2枚目の写真のところからさらに北へ行った東向島2丁目交差点の角。ラーメンの「きちでん」とその隣の家は看板建築にした二軒長屋だ。1985年の地図では写真左から「杉田フォトスタジオ、長五郎、柏屋」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





直峰機材。文京区千駄木2-15。2008(平成20)年9月10日(3枚とも)

不忍通りの裏手、区立汐見小学校の東にあった工場だった建物。「水道衛生機材卸/直峰機材」の看板が出ている。撮影時は解体も間近ではなかったかと思うが、まだ直峰機材が使っていた。現在は10軒ほどの3階建ての建売住宅に建て替わった。直峰機材は根津2丁目に移って存続している。
建物は、1986年の地図では「丸富ブラウス/直峰機材、丸富アパート」、1974年の地図で「チームブラウスKK」。この建物は『Kai-Wai散策』というプロの写真家が運営しているブログで紹介されている。『千駄木の廃墟風路地(2005.02.04)』『千駄木のネオ廃墟(2005.02.05)』『千駄木のネオ廃墟で(2005.02.06)』の3本がそれで、建物の所有者に取材して敷地内の写真を撮ったり、建物の由来を聞いたりしている。それによると、昭和29年(1954年)に縫製工場として建てられたが、20年ほどで廃業、その後はアパートとして使われてきた、ということである。直峰機材はビルの一部を借りているのだろうが、入り口の「東芝住宅設備機器」の看板はだいぶ古くなっている。
建物はRC造2階建ての2棟を渡り廊下が繋いでいるものらしい。やたら凹凸のある複雑な平面をしている。



南側



1986年の地図に「丸富アパート」となっている建物。1階は倉庫だったのではないかと思う。2階も住居とは思えず、事務所か従業員用の食堂でもあったか、という感じだ。
写真左になる向かい側は撮影時は空地になっていた。昭和43年から「横浜テープ工業」という洋服のネームなどの製造販売の会社があるところだ。隣の縫製工場に製品を納入したこともあったかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ