ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




箱根板橋駅。神奈川県小田原市板橋。2012(平成24)年4月7日

箱根登山電車の箱根板橋駅の開業は1935(昭和10)年10月1日で、そのときに建てられた駅舎が今も使われているものだろうと思う。箱根登山電車は1919(大正8)年6月に箱根湯本―強羅間が開通しており、小田原―箱根湯本は「小田原電気鉄道→小田原市内線」という軌道線(路面電車)が運行していた。ほぼ現在の国道1号線を単線で走っていたのである。その軌道線にも箱根板橋駅(停留所)があったが路上に停車するだけのことで、駅舎はなかった。
箱根登山電車が1935年に小田原―箱根湯本間が開通したした後も、軌道線は国道1号から登山電車の駅まで線路を引いて箱根板橋駅へ乗り入れ、小田原―箱根板橋間で営業を続けていた。戦後間もなく国道1号線改修計画が持ちあがり、神奈川県も出費して軌道を撤去、1956(昭和31)年5月31日で営業を終了した。


Google地図-ストリートビュー

現在も国道1号から箱根板橋駅への軌道跡が駐車場になって残っている。『 神奈川県>公文書館だより第26号』に「専用軌道と併用軌道(道路上の線路)の境目を写した写真」が載っている。その写真の左に写っている家は、今の秋山商店(タバコ店)だろう。建物は当時のままである。

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国立病院機構箱根病院旧本館。神奈川県小田原市風祭。2011(平成23)年11月23日

箱根登山電車に乗って小田原から2つ目が箱根風祭(かざまつり)駅。そこから北へ向かえばすぐ旧東海道で、箱根病院のある山の麓である。その病院に古い木造の洋館が残されている。『 神奈川の近代建築探訪>箱根病院会議室及び講堂』によると「傷兵院」の本館だった建物で、「設計:内務省営繕管財局、建築年:昭和11年」。今は会議室や休憩室に使われているということである。まだあるかと一応期待していた「講堂」は取り壊されていた。


『ウィキペディア>国立病院機構箱根病院』によると、政策医療分野における神経・筋疾患の専門医療施設で、1975年から2004年まで「国立療養所箱根病院」を称していた。
1907(明治40)年に、陸軍省所管廃兵院が東京予備病院渋谷分院を設置したのが始まりである。「廃兵院」とは実態を表すものなのかもしれないが、すさまじい名称で、今なら考えられない。1908年には北豊島郡巣鴨町に移転している。1923(大正12)年に内務省へ移管され、1934(昭和9)年に「傷兵院」と改称した。現在地に移転したのは1936(昭和11)年。1940(昭和15)年には「傷痍軍人箱根療養所」が併設されている。


敷地南の崖っぷちに石垣を築いて造ったコンクリートの円形ベンチがあった。2007年にリニューアルオープンした「鈴廣かまぼこの里」が眺められる。

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日東美術印刷。文京区向丘2-4
1986(昭和61)年5月

本郷通りの東大農学部の少し北にあった関東大震災復興期のものと思えるビル。1986年の住宅地図に「北上ビル」とあり、それがビルの名称らしい。1974年の地図では「有限会社北上印刷/平和光学/日東美術印刷KK」。『日本近代建築総覧』に載っているが、「日東美術印刷K.K.他、向丘2-6-2、構造=RC3」だけで詳細は不明。ビルには共用部分がないらしくて、郵便受けと電気メータが1階の壁に並べられている。
いつからか緑色のネットで覆われ、取り壊しになるのかと思わせたが、そのままで2010年頃まで残っていた。ビルの左の家は「やよい文具店」だった家。2007年撮影の写真には「麻雀/文京ゴルフ」の袖看板と2階への入り口の上に「麻雀」のネオンサインが写っている。ストリートビューではまだネットで覆われたビルとやよい文具店の建物が見られる。現在は文京学院大学の建物に替わった。

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洋館。文京区向丘2-2。1986(昭和61)年5月

本郷通りの第六中学の向かい側に、東大農学部の敷地に沿って東に入っている横丁がある。入るとすぐ左に曲がって、やはり農学部の敷地に沿って北に向かっている。車両は南への一方通行の道である。根津裏門坂の通りを超えて日本医科大病院の西に沿って団子坂の通りに出るまでの道筋は江戸期からある古道である。
写真の洋館は本郷通りからその道に入ってすぐのところにあった。玄関のアーチ、スクラッチタイルの本格的な洋館かと見えるが、右後ろに日本家屋のようなものが写っている。正面だけが洋館になっているのかもしれない。



看板建築の二軒長屋。向丘2-2。2007(平成19)年12月15日

1枚目写真の家の右は西教寺というお寺で、その角で横丁は北へ曲がって本郷通りの裏道のようになる。上の写真はその道路を少し行った願行寺の山門前から振り返ってみた家並み。ふたつのお寺の間に古い家が固まって残っている。
下の写真は上写真の左、腰折れ屋根の家の左の家。横に玄関がふたつあるから2世帯で使う借家だろうか。腰折れ屋根の家は元は商店だったと思われる。トタン波板の看板建築の二軒長屋はしもた屋になって永いようだ。
長屋の裏には四軒長屋があり、さらにその裏に看板の「旅館更新館」がある。『 やど日本>更新館』によると、部屋数27、創業は1948年10月。『goo地図>航空写真』では中庭がある「ロ」の字形の平面の家で、戦前は学生相手の下宿屋だったのを、戦後に旅館を始めたのだと思う。現在は中庭を屋根で覆っている。大浴場をそこに造ったのかもしれない。



日本家屋の借家。向丘2-1。2007(平成19)年12月15日

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八百福商店。文京区向丘1-6。1988(昭和63)年3月13日

前の通りは本郷通りを東大農学部前から分れた国道17号で、白山上交差点までの間の中間あたり。写真左の二軒長屋は「チャームサロン・ワクモト(和久本)」と「木村タバコ店」。昔は四軒長屋だったようだ。八百福商店はほとんど改修の手が入っていないように見える出桁造りの商店。「誠実/新鮮/野菜/果実」と看板に書き入れている。その右は「塩沢洋服店」。看板建築にしているが八百福と同じ出桁造りの建物だろう。
現在は二軒長屋が残っている。ワクモトのほうは正面を改修して「鮨 癸生川(けぶかわ)」に、木村タバコ店のほうは廃業しているが店舗の構えはそのまま。



大口ガラス店。向丘1-6。2007(平成19)年2月24日

癸生川から数軒北へ行ったところで、写真の家並みは今も変わらない。このあたりでは目にすることが少ないと思われる銅板貼り看板建築とモルタル塗に洋風の飾りがある看板建築。銅板の家が大口ガラス店だが、右の家も大口ガラス店が車庫として使っている。
写真左は横丁が入っていて、そのもうひとつの角は「かさい動物病院」と「カフェ・ギャラリー 美雲」が入っている木造の割と大きい建物である。1986年の地図では「石塚アパート」で、たぶん戦前築の古い下宿屋だと思う。

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スペックス報文堂。文京区向丘1-3。1988(昭和63)年3月13日

前の通りは本郷通りを東大農学部前から分れて、白山上で旧白山通りつながる国道17号で、旧中山道の道筋。西片町教会のはす向かいだ。写真左端のたんめんの看板が「来集軒」、その右の2軒はしもた屋のようだが、シャッターの下りている家が1974年の住宅地図では「名糖牛乳」、出桁造りの家が1986の地図で「スペックス報文堂」。ブロック塀の家は住宅。その右は重松商店(業種不明)だった家。看板建築の2軒は「本郷米店」と「松本電気商会」。後ろのマンションは「メゾン文京」(1974年12月竣工、9階建て37戸)で、マンションが建つ前は「本郷病院」があった。
現在は来集軒とその隣の2軒が残っている。来集軒は料理屋の「しなのや」に、日本家屋の2軒は住宅に改修されている。ブロック塀の家と重松商店は取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。本郷米店は間口の狭いマンションに、松本電気商会は4階建てのビルに建て替わった。


重松商店。向丘1-3。1988(昭和63)年3月13日

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本郷通りの四軒長屋。文京区向丘1-19。1989(平成1)年5月5日

本郷通りの第六中学校の少し北にあった長屋と看板建築の商店。奥のビルは「文京女子短期大学」。写真の範囲は現在では文京学院大学の本郷キャンパスになっている。文京女子短期大学は1924年に開校した「本郷女学院」が元で、1964年に開学した。2004年に「文京学院短期大学」に改称した(ウィキペディア>文京学院短期大学)。文京学院大学は1991年に「文京女子大学」の名称で設置され、2002年「文京学院大学」へ改称したということだ。
写真の四軒長屋は左から、ヤギ美容室、空き家、有限会社三商(各種工業用ゴム)、小林米店。形や大きさは、1軒が看板建築風にしていることも含めて、棚沢書店の長屋(本郷6)によく似ている。同時期の建築だとすると明治後期だが……。
下の写真は上の写真の右奥に写っている高尾肉店と明治牛乳追分販売所。写真左の鉄柵の看板は「文京女子短期大学」。



高尾肉店。向丘1-19。1989(平成1)年5月5日



東京電力駒込独身寮。向丘1-12。1993(平成5)年12月5日

1・2枚目の写真の場所から少し離れるがやはり本郷通り沿いにあった近代建築っぽいビル。昭和22年の空中写真にはそれらしいビルが写っている。左の白いビルが「TS2ビル」で、古いビルは1986年の住宅地図に「東京電力駒込独身寮」となっている建物だ。建て替わって「サンウッド文京東大前エストライフ」というマンションになった。写真右のビルは「都立向丘高校」。写真の校舎は建て替わっている。

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文京区立第六中学校。文京区向丘1-2。1989(平成1)年5月5日

第六中のHP によると、1947(昭和22)4月1日の開設。新制中学校は戦後の学制改革によるので、たいていの公立中学校が1947年の創立になるのだと思う。最初は区立誠之小学校構内に開校し、生徒が増えるにつれ、あちこちに分校が増えたが、1961(昭和36)年4月から写真の校舎を使うようになったということだ。そのときに建てた校舎かと思っても当然の外観なのだが、戦前に建った小学校の建物である。
「追分尋常小学校」及び「本郷高等小学校」として1933(昭和8)年9月に完成したのが写真の校舎である。設計は東京市営繕課。追分小は1952(昭和27)年に「(国立)東京学芸大学附属追分小学校」と改称され、1961年には「東京学芸大学附属竹早小学校」と合併して閉校した。そこに第六中が移ったということだろう。
上の写真は本郷通り沿いの校舎。下の写真は手前のビルがなくなって、震災復興後期のインターナナショナル・スタイルの白い箱に大きな窓といった特徴が判る。
現在は7階建ての校舎に改築中。Ⅰ期工事が終わる頃で、来年には完成する予定だ。



左:2007(平成19)年2月24日
上:Google地図では工事が始まっているが、まだ西側の校舎と体育館(昭和48年築)が見られる。

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高崎屋酒店。文京区向丘1-1。1989(平成1)年5月5日

本郷通りは東大農学部前で国道17号を分離する。中山道が日光御成道(旧岩槻街道)と分れる、本郷追分と言われたところだ。偶然なのかどうか知らないが、中山道の起点、日本橋から1里のところで、一里塚が設けられた。牧山とんかつ店の右にその案内板がある。古くなったためか、現在は江戸期の立札のような形のものに替えられた。
そこに昔からあったのが高崎屋酒店で、そのHPによると、創業は宝暦年間(1751~64)ということで、現在の日よけのテントに「SINCE 1751」の字を入れている。
国道17号(旧白山通りにつながる)側の家並みは今もあまり変わらない。牧山はなくなったが、隣のチェルティ(喫茶店)は健在で、「東大前一丁目Café Cerruti」の看板を出している。この2軒は高崎屋の借家かもしれない。




左:高崎屋の倉庫。1989(平成1)年5月5日
右上:高崎屋酒店。右下:河合電機、FEN。1988(昭和63)年10月23日

高崎屋の本郷通り側には洋風の建物があった。大震災前には蔵があったところではないかと思うから、それを建て直したのだとするとRC造の倉庫かもしれない。現在は高崎屋ビルに替わった。その隣は朝日堂パン店で、ビルに替わったが存続している。
朝日堂から数軒北へ行ったところが右下の写真。左から河合電機、FEN、圭雪会(いけばな・茶道)で、今は圭雪会が建物ともそのまま。

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エンドウ質店。墨田区向島5-41。2013(平成23)年8月3日

墨田区立言問小学校のすぐ北に戦前築の長屋や商家、民家が残っている。言問小も1937年に開校した時の校舎がいまだに使われていて、墨田区では唯一の戦前築の校舎だ。エンドウ質店は平屋の民家に蔵を建てて開業したかのような感じだ。エンドウ質店の前は一応は四つ角だが、どの道も路地といっていいような細い道で、しかも直角には交わらず、道自体も微妙に曲がっている。昔の農道が整備されずに残っているのだろう。
下の写真はエンドウ質店の裏にある四軒長屋。左の交差点は五叉路である。左手に行けばすぐ鳩の街商店街。


四軒長屋。向島5-41。2013(平成23)年8月3日


旧正盛堂。向島5-45
2008(平成20)年12月3日

四軒長屋の写真の手前は空地だが、そこに建っていた家。取り壊されたのはごく最近である。1968年の地図では「KK正盛堂」、1985年では「パリドール」。商売の業種は判らないない。

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