ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





門前長屋。台東区元浅草2-7
2013(平成25)年8月3日

「門前長屋」という言葉は『旧浅草区まちの記憶』(森まゆみ著、平凡社、2008年、1600円)という本で知った。お寺の門の前にある長屋のことだろうが、寺の家作でもあることを意味しているのかもしれない。写真は願寿寺というお寺の門の横に建っている四軒長屋と二軒長屋が並ぶ景観。清洲橋通りから横丁を入ってすぐのところだ。
四軒長屋の中央には裏側への通路が開いている。入ってみたい誘惑にかられるが、さすがにできない。その通路の左の家の玄関がちょっと凝った和風の造りで、長屋とは思えない佇まいである。既出の本によると、大和家八千義という安来節の師匠の家で、木馬亭で公演もしている人だそうだ。こういうブログでは個人名は出さないのルールだが、ここの師匠の場合は森氏が取材していたときに呼びかけて家に上げて話をしているから、かまわないだろう。「入ると右が二畳ほどの玄関、左に二畳、上がった四畳半が茶の間兼稽古場」ということで、若い女性に三味線の稽古をつけている写真も載せている。師匠がセーターにズボン姿なのがなんだか変な感じがする。


2006(平成18)年11月29日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





古賀青果店。台東区元浅草2-2。2013(平成25)年8月3日

斉藤燃料店の長屋の向かいにある二軒長屋。正面は2階が後退し、1階の屋根の上に物干し台を置いた、割とよく見る長屋なのだが、奥行きが深いのが特徴。長屋の右側はまだ開いていないが八百屋である。左はしもた屋らしいが、1986年の地図では「永寿不動産」。角の明治牛乳販売所は戦後の建築だろう。



二軒長屋。元浅草2-5。2013(平成25)年8月3日

浅草通りの裏通りにある看板建築風のしもた屋と二軒長屋。右写真左のマンションは日の出湯があるビルで、二軒長屋の隣にあるが、通りから引っ込んで建ててある。日の出湯の入り口はマンションの真ん中にあるが、湯船洗い場などの本体は長屋の裏側にあるのではないかと思う。

元浅草の町名は昭和39年10月から使うようになったが、あまり評判がよくない町名である。浅草という地名の発祥の地というわけでもなく、「元」の意味が不明なのである。ぼくは「元は浅草区」ということかと無理に当てはめている。旧町名は永住町(ながすみちょう)。寺町といっていいだろうか。永六輔の実家は最尊寺というお寺で、元浅草3丁目にある。住職が「永」という名前の人が他にも住んでいられるようで、永さんが住む町でもある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





四軒長屋。台東区元浅草2-5。2013(平成25)年8月3日

元浅草2丁目の中心辺りに妙経寺(みょうきょうじ)という寺がある。その山門の左右に写真の長屋が建っている。寺の家作ではないかと思う。四軒長屋の角は斉藤燃料店だった家だが、あきらかに空き家だ。屋根にネットをかぶせ、開口部はベニヤ板で塞がれている。前面の1階の屋根もなくなっている。『 東京ダウンタウンストリート1980's>東上野、元浅草(2012.05.02)』の写真では、まだベニヤ板の処置はしていなくて、建物の角に張り出していた、「斉藤商店」の看板が残っている。


酒井タバコ店。元浅草2-5
2013(平成25)年8月3日

妙経寺山門の左側は改修された二軒長屋のように見えるが、屋根の高さが異なるので別個の家かもしれない。タバコ屋は自販機のみの営業。親切に灰皿を置いている。隣は1986年の地図では「山口製作所」だが、今は住居のようだ。
『近代建築総覧』に「妙経寺・納骨堂、元浅草2-5-13、建築年=昭和14年、構造=RC、設計・施工=大林組、聞込みによる」というのがある。山門からまっすぐ奥に見えるお堂のことだろうか。この寺で古い建物はそのお堂だけのようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





栗田板金。台東区元浅草2-9。2013(平成25)年8月3日

おおまかに言って元浅草2丁目の北半分は、空襲での焼失をなんとか免れた区域である。今でも戦前築の木造家屋が20軒程残っている。『東京ダウンタウンストリート1980's>東上野、元浅草(2012.05.01)(2012.05.02)』に触発されて、つい最近歩いてきた。
上の写真は浅草通りの松ヶ谷1交差点で交わる南北に通っている左衛門橋通り。その浅草通りの裏通りとの角にあるのが栗田板金という町工場。その左は立派な出桁造りの商家だがしもた屋のようだ。1970年頃の地図になんの商売だか判らないが「三河屋」となっている。写真左のモルタル塗の家は戦後に建て直したものだろうか。1970年頃の地図では「台東自動車部品」。



堀田建工。元浅草2-9。2013(平成25)年8月3日

浅草通りの裏に残っていた長屋風の家。空き家だろうと思ったが裏から二階の部屋に服が干してあるのが見えた。隣は1階にシャッターが取り付けられ、二階はサイディングで塞がれている。「堀田建工」の文字が残っているが使われてはいないようだ。さらに三軒長屋が並ぶ。この長屋はきちんとリフォームされて使われている。
この古い家並みの裏は栄蔵寺で、写真右端に写っているドーム屋根は昭和初期に造られた納骨堂。『近代建築総覧』に「芝山仁王尊出張所栄蔵寺・納骨堂、建築年=昭和初期、構造=RC1階建、設計者=(大工)」の記載がある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






永寿総合病院。台東区元浅草2-11
上:1986(昭和61)年10月26日
左:1985(昭和60)年10月27日

浅草通りと清洲橋通りが交わる稲荷町交差点の角にあった病院。2002(平成14)年2月に、東上野2丁目の区立西町小学校の跡地にビルを新築して移転した。解体されたのはその後らしい。永寿総合病院のHPによると、1956(昭和31)年2月に160床の病院として開院。「永寿総合病院」の名称は1965(昭和40)年11月から、ということだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「永寿医院、建築年=昭和3・4年、構造=RC6、竣工時アパート。昭和31、35年増改築。地下1階」。6階部分は増築したものだろう。空襲での焼失から免れた地域にあるので、内部も焼けずに済んだビルと思われる。『 昭和16年の台東区』の「西町」の地図に「古澤ビル」(南稲荷町114)と記載されている。
下の写真は解体前の病院の外観。病院らしく壁を白く塗って明るく見せている。6階の窓が5階以下の窓に合わせたデザインに造り直されている。
このビルはぼくにはおなじみの以下のサイトでも取り上げられている。
廃景録>消えた近代建築>永寿総合病院
建築・都市徘徊>Tokyo Lost Architecture>永寿総合病院



永寿総合病院。1988(昭和63)年5月1日

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





四軒長屋。墨田区京島3-64。2009(平成21)年1月19日

当ブログ前回と同じ、区立第四吾嬬小学校の西を南北に通っている横丁で、校門から南にも2棟の四軒長屋が並んでいる。横丁は写真奥で十間橋通りに出るが、そこを超えて文花3丁目に抜けている。この横丁は橘銀座商店街から始まり、曳舟たから通りに出ていたが、今は東武亀戸線で分断されている。明治期からあった道が元になっている古い道ではないかと思う。
校門の横はかつて二軒長屋だったものが建て替わった住宅が2軒。その南に続いて、写真の四軒長屋である。
下の写真は十間橋通りの手前まで進んで振り返った見た写真。手前の家は「小林ベルト」の看板代わりの紙がガラス戸に貼ってある。皮のキーホルダーなどを作っているようだ。


小林ベルト。京島3-64。2009(平成21)年1月19日

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )






上:大日向作業所。墨田区京島3-64
2004(平成16)年1月24日
左:踏み石の路地。京島3-61
2013(平成25)年5月5日

区立第四吾嬬小学校(この辺りは昭和40年まで、旧町名で吾嬬町(あづままち)西四丁目)のすぐ西を南北に通っている横丁がある。橘銀座商店街から十間橋通りまで通じている。この横丁の第四吾嬬小の辺りは両側とも古い長屋や住宅がかなり残っている。上の写真は橘銀座商店街と十間橋通りの間をほぼ平行に通っている通りから南に入って前方を見た写真。左(東側)に四軒長屋と二軒長屋が並んでいる。長屋の裏は小学校だ。10年位前の写真だが現在もまったく変わっていない。
1枚目写真右手前に、裏の家に入るための路地がある。地べたむき出しの路地は平屋の長屋の間なんかにもありそうだが、やはりつくづくとみてしまう。突き当りの向こうは大熊硝子裏の六軒長屋
1枚目の写真の一番奥は家並みが途切れて小学校の校門になっている。下の写真はそこまでいって振り返ってみた写真で、1枚目写真奥の長屋を逆方向からみたもの。


小学校校門横の長屋。京島3-64。2009(平成21)年1月19日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





五軒長屋。墨田区京島3-45。2013(平成25)年5月5日

長屋群の向かいにある五軒長屋。長屋の左の二軒が阿部製作所と川上木型製作所という家内工業所だ。写真右のトラックが入っているところは長屋の右端の一軒が取り壊されたところで、元は六軒長屋だった。その右は、今は「京島三丁目ぐるぐる広場」(平成12年4月開園)という児童公園があるが、以前は四軒長屋があったところ。



ねぎし質店。墨田区京島3-44。2009(平成21)年1月19日

二階建て長屋が並ぶ通りと曳舟たから通りとの交差点の角にあった質店。その交差点の側は駐車場で、家がどういう配置で建っていたのか説明しづらいが、中心になる家と蔵と「DISCOUNTねぎし」の店の3棟が建っていたようだ。洋風の蔵(鈴木質店/千住5)がこんなところにもあったわけだが、昭和22年の航空写真にはこの蔵は確認できず、戦後に建てたものらしい。
現在は5棟の住宅や店舗に建て替わった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:四軒長屋。墨田区京島3-50
2009(平成21)年1月19日
左:横丁の住宅。京島3-51
2013(平成25)年5月5日

上の写真は明治通りと曳舟たから通りを結ぶ通りで、明治通りの京島三丁目交差点のほうに寄った辺りに残っている四軒長屋。だいぶ改修が進んでいて、1階のガラス戸や物干し台などは交換されており、屋根瓦も新建材で葺き直されている。
長屋の右に横丁が入っていて橘銀座商店街に通じている。 五福家そば店のところに出る。左の写真はその横丁に入ってすぐのところ。古い一戸建ての家が4・5軒並んで残っている。水色のトタン屋根の家は平屋だが屋根に明り取りの窓を設けている。鋸屋根の工場を連想するが、家内工業を営んでいた家なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





平野東処堂。千代田区飯田橋1-12。1985(昭和60)年8月4日

東京大神宮通りと、東京ルーテルセンター教会の前を目白通りへ下りていく通りとの交差点角にあった家。日名タバコ店の向かいになる。写真右奥に教会、角の家の後ろの白いビルは太陽神戸銀行九段寮、その左は暁星学園国際部日仏科らしい。現在では写されている建物は教会が残っているだけだ。
建物の真ん中に「印舗 平野東処堂」の表札が下がっているが店舗の正面は右の側面の方のようである。そちらも写せるアングルで撮れば電柱が写り込まない写真になったわけだが、撮り歩いているときは対象物が写っていればいいというか、まあ、なにも考えていないようだ。



一心堂、大野屋。飯田橋1-12。左:1986(昭和61)年9月23日、右:1985(昭和60)年8月4日

1枚目写真の左に続く大神宮通り沿いの家並み。看板建築が並んでいるが、現在は全てビルに建て替わっている。東処堂の隣は住居だが東処堂とよく似た建物。大野屋菓子店はモルタル壁の看板建築、銅板貼りと洋風石造建築に見せた看板建築を「一心堂クリーニング総本店」が使っている。「伊藤パン」の看板はムラタパン店。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ