ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田中家。台東区東上野3-34
左:1986(昭和61)年頃、右:2006(平成18)年11月29日

数ある看板建築の中でもデザインがとびぬけて秀逸とされて有名な建物。『日本近代建築総覧』には「田中忠次郎宅、建築年=昭和4年、木造3階建、自家設計、自家施工、備考=左官業を営む、いわゆる看板建築」と記載されている。左官職人だった田中忠次郎氏が、自分の家を建てるに際して、自分でデザインして、建物本体は大工を入れたのだろうが、表面は自分で仕上げたのである。『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)には、「…デザインは大正期以後日本に導入されたウィーンなぞのセセッション様式を取り入れている。3階のマンサール屋根をアーチ形に収めたところは心にくいし、また、1階入り口の唐破風も面白い…」と解説されている。
1階の唐破風は唐突でなんとなく異様である。左側を長くして左右非対称のところや丸窓がぽっかりと空いているところは、和風のデザインにしたわけでもないという気がする。シュールな感じすらする。
隣の日本家屋は二軒長屋のように見えるが、正面の造りが異なり、屋根の稜線が切れているようなので、二軒の家がくっついて建っているらしい。


聖山洞(大森仏具店)。東上野3-34
1986(昭和61)年頃

田中家と同番地だが浅草通りに面した仏具店。浅草通りの南側には上野駅前から稲荷町交差点の先まで、仏具店が点々と並んでいる。聖山洞はネット検索では出てこないので廃業したのだろう。建物はビルに建て替わったから不動産業に転業したのかもしれない。
写真右は不二製作所で、やはりビルに建て替わり、ネットでは会社は見当たらない。写真左は「仏壇のなかた」と看板にある店で、今も同じ建物で商売をしている。隣はビルの「中田仏具店」で、同じ店かと思ったが、『上野・浅草通り神仏具専門店会』のサイトを見ると別の店である。「仏壇のなかた」は店名だった。

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福山商会、田中双輪社。千代田区飯田橋2-9
左:1986(昭和61)年9月23日、右:2004(平成16)年1月3日

目白通りのJR飯田橋駅から南の飯田橋2丁目交差点辺りまでは戦災の焼失を免れた場所で、今はほとんどがビルに替わっているが、戦前の看板建築が何軒か残っている。上の写真では3階建て看板建築が2軒並んで残っている。クリーニング店は今も営業中。自転車・バイク店はJYOTIというインド料理の店になっている。


ライオンクリーニング。飯田橋2-8
2013(平成21)年5月23日

福山クリーニング店の一つ南の街区。昔の航空写真を見るとライオンの左には横丁の角まで看板建築の四軒長屋があったらしい。1986年の住宅地図では「細江、山田、テスタ、冨里屋」である。ビルに建て替わる前の家並みが『加藤嶺夫写真全集・昭和の東京3千代田区』(株式会社デコ、2013年、1800円)の写真にある。目白通りを走る都電が写っていて、ライオンはなんの店だか判らないが、その右から、そばやの増田屋、床屋、純喫茶白鳳、西洋料理の花菱軒で、いずれも看板建築である。現在も増田屋はビルに入ったが盛業のようだし、花菱軒が建て替わったビルは花菱軒ビルという。

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飯田町変電所。千代田区飯田橋3-8。1988(昭和63)年1月15日

日本医科大第一病院(現・東京区政会館)の裏側(北)、中央線の高架沿いにあったJRの変電所。中央線から分岐する短い線路(飯田町貨物駅のものとは別)があって、保線作業用車両などを置いておく場所だったのではないかと思う。今はその支線を撤去した場所に変電所を移した。現在の地図では「東日本旅客鉄道㈱飯田町変電所」で、写真の建物と比べるとだいぶコンパクトになった。
撮影時の1986年の住宅地図では「東京西鉄道管理局飯田町変電所」、1969年の地図では「新宿変電区飯田町変電支区」という記載である。
撮影したときは変電所とは知らなかった。倉庫かなにかだと思っていた。上写真のネットの左、下写真の右奥に写っている「宝紙業第二ビル」が現存する。
写真の変電所があったところには「住友不動産飯田橋駅前ビル」(2008年5月竣工、13階建)と「辰巳ビル」が建った。



飯田町変電所。1988(昭和63)年1月15日

飯田町(いいだまち)とは旧町名で、旧飯田町1・2丁目は、だいたい現在の飯田橋1~4丁目にあたる。1966年の改変である。飯田町のままでよさそうなものだが変える理由があったのだろうか。橋の名称は飯田町に由来するが、その橋の名前を町名にするというのはなんだかまどろっこしい感じがする。飯田町は他県にもあり飯田市もあるからすぐ区別がつくことを考えたのだろうか。結局は、国鉄の飯田橋駅がある町、ということが大きかったのかもしれない。

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白光堂。千代田区飯田橋3-1。左:1989(平成1)年5月4日、右:2004(平成16)年1月3日

目白通りの一角で、写っている建物はみな今もそのままだ。看板建築の白光堂は「飯田橋商店街振興組合」のサイトを見ると、「白光堂写真機店」の名称で「写植印画紙、薬品、材料、DPEの専門店」となっている。建物は特に特色があるとも思えないが、『日本近代建築総覧』に掲載されていて「白光堂カメラ店、飯田橋3-1、建築年=昭和3年、木造、設計=白土吉之助」となっている。



明治印刷。飯田橋3-4。左:2006(平成18)年3月31日、右:1988(昭和63)年1月15日

目白通りから横丁を入った東京区政会館の向かいに現存する建物。角の玄関の造りが目を惹く。三階の窓はただの飾りかと思う。なんの為なのかドアが二つ並んでいて、右のドアに「明治印刷株式会社」の文字がある。ネット検索では出てこないで今は廃業したのだろう。ストリートビューで見ると、今は右の柱が切り取られてドアは一つに造りかえられている。建物を支えていた柱ではないにしても、アーチが浮いてしまってなんとなく不安定な感じだ。

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日本医科大学第一病院。千代田区飯田橋3-5
上:1988(昭和63)年1月15日
左:1986(昭和61)年9月23日

目白通りの、JR飯田橋駅のそば(地下鉄東西線飯田橋駅の上)にあった大きな病院。建物は、『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和6年(1931年1月)、設計=和田順顕、施工=清水組、地下室付き」である。和田順顕をネット検索したら当ブログの『 日本医師会館(神田駿河台2)』があって、そこですでに説明してあった。すっかり忘れていた。手抜きだがそこの記述をそのまま書き写しておく。「和田順顕は、ぼくは初めて聞く名前だったが、横浜郵船ビル(昭和11年)の設計者だった。ネット検索すると、銀座にあった足立ビル、品川区上大崎のタイ王国大使公邸(昭和9年)、飯田橋にあった日本医科大学第一病院(昭和6年)、新宿区信濃町にある慶応大学の信濃町メディアセンター(昭和12年)が和田順顕の設計した建物として拾えた」。

日本医科大学第一病院は、1924(大正13)年7月に、当時は「日本医学専門学校」だったが、「付属飯田町医院」として開院した。1926年、日本医科大学に昇格するとともに「第一医院」に改称した。「付属第一病院」の名称は昭和38年かららしい。
外観はスパニッシュの系統だろう。平面は中庭があるV字形。竣工時は左右対称だったようだが、すぐに東側の翼を倍に伸ばしている。昭和50年には中庭の周囲はビルで囲まれてしまっていた。
1997(平成9)年9月30日で閉院した。取り壊しは1・2年後に始まったと思われるが、ぼくは1階だけの姿になっていたのを目にしている。あれはなんだったのだろう? 現在は東京区政会館が建つ。


1989(平成1)年5月4日

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長屋の間の路地。墨田区京島3-62。2004(平成16)年1月24日

当ブログ前回の「長屋群」の家並みの裏側にも古い長屋や民家が残っている。写真はその裏の長屋へ入っていく路地で、通りに面した家は、左が大熊硝子の二軒長屋、右が四軒長屋。大熊硝子は横の壁がまだ和風の下見板だ。



六軒長屋と平屋の民家。2013(平成25)年5月5日

意を決して1枚目写真の路地に踏み込んでみた。Google地図の航空写真だとよく判るが、大熊硝子の裏の家は六軒長屋で、だとすると京島に残る多数の長屋の中では最大級の大きさのものだ。割ときれいに使われているようだ。
右写真は六軒長屋の向かい側。奥のブロック塀で行き止まりである。写真右端は通りに面した四軒長屋の裏側。手前の平屋の奥は三軒長屋。

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長屋群。墨田区京島3-62。2013(平成25)年5月5日

関東大震災後に建てられたと思われる古い長屋が一列に連続する景観は今の東京では他にはまず見られないだろう。専用住居になった家が玄関を改修したり側面をトタンで貼ったりという改修は見られるが、瓦屋根や幅広の下見板の壁が残り、建築時の状態がかなり残されている。四軒長屋、1戸建民家、二軒長屋、四軒長屋と並んでいるが、1970年頃まで通りの両側には、このような長屋や商家民家が立ち並んでいたと思われる。



四軒長屋。2004(平成16)年1月24日

1枚目写真の右の長屋。長屋の右の家は、外にドラム缶や一斗缶が積まれて置かれていて家内工業所だと判る。表面加工でもしている感じだ。1枚目の写真では容器がきれいに片付いている。どこからか注意されたのだろうか。



大熊硝子の二軒長屋。2009(平成21)年1月19日

長屋群の建っている道路は橘銀座商店街の南をほぼ並行して通っている割と広い通りである。ほぼ直線なのでわりと新しい道路に見える。明治末の地図にはこの辺りにわりとまっすぐな用水路があり、どうやらその水路沿いの道を、水路を埋めて広げた道路と思われる。用水路は中井掘から引き込んだものだろう。



2009(平成21)年1月19日

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二軒長屋。墨田区京島3-47。2013(平成25)年5月5日

橘銀座商店街の京島郵便局辺りの裏手の住宅地。古い平屋の二軒長屋が1棟残っていた。その左の二階建ての民家は、左に二軒長屋と同じ造りの平屋がくっついている。二軒長屋だった1戸を二階建ての家に改築したのだろう。昔の航空写真を見ると、同じような長屋が2列3行6棟が建ち並んでいたようである。写真手前の駐車場には写真の長屋と向かい合って五軒長屋があったようだ。
駐車場の手前には「多満利湯」という銭湯があった。出入り口は橘銀座商店街に向いていた。丸富洋品店の左の路地がその跡で、石畳が残っている。路地といっても多満利湯の地所だったようで、鉄柵の門で閉められている。


半分改築された長屋と青い屋根の二軒長屋。2013(平成25)年5月5日

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上左:わたなべ金物店。墨田区京島3-43
上右:イケウチ商店。京島3-39
左:上野青果店。京島3-47
2013(平成25)年5月5日(3枚とも)

写真はいずれもキラキラ橘銀座商店街のたから通り寄りの商店。
わたなべ金物店は1970年代頃は「北山米店」と地図にある。そこから左へ「おやすみ処橘館」(トイレもある休憩所。ストリートビューでは花屋に見えるが、以前の店。1970年頃はヒロヤ菓子店)、「勉強屋呉服店」(普通の洋服屋に見える)、おでん種の「大黒屋」といった店が並ぶ。イケウチは池内酒店だったが自販機を置くだけになっているようだ。右隣りは1960年頃の創業というハヤミ鮮魚店。
いずれも戦前からの家が残っているようではなく、戦後に建て替えたり、近年、ビルになったりしているようだ。
上野青果店の隣は青木鮮魚店で、だいぶ年季の入った家で同居している。古い航空写真を見たところでは、建物は戦後に建てたもののように思える。上野商店の屋号は「八百耕」。

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キク薬局。墨田区京島3-42。2004(平成16)年1月24日

曳舟たから通りに建つ看板建築の四軒長屋。橘銀座商店街との交差点の近くである。長屋の商店はキク薬局だけで、他の3軒は商売をやめて住居のようだが、地図では薬局の隣が「高津製本所」。この2軒は古くからあるらしく1968年の地図では左から「‥コーヒー、富田ゴム、高津、キク薬局」。



ハッピー美容室。京島3-41。2004(平成16)年1月24日

キク薬局の長屋と並んでいる看板建築の五軒長屋。ハッピー美容室とゆたか(看板の「おにぎり」の文字が読める)の2軒が営業しているが、現在ではゆたかは廃業した。1986年の地図では左端は「タカサキ食品」。
この長屋が建っている敷地は三角形で、下の写真で、建物が薄くみえるのはそのため。



ハッピー美容室。京島3-41。2013(平成25)年2月10日

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