ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




田中食堂。台東区東上野3-5。2013(平成25)年7月14日

清洲橋通りの西の裏通りで、南北に通っている両側には今も戦前築の木造の商店や長屋がけっこう残っている。それでも、当然といっていいのだろうが、品田商店、田丸肉店稲乃湯、高橋医院、といった大物がビルに建て替わった。
ネットの情報によると、田中食堂は『東京・横浜百年食堂』という本に載っていて、創業100年以上にはなるという定食屋。ぼくのような年配者が食事をするには格好の店のようだ。
建物は入母屋屋根の和風建築だが壁はモルタルで戦後の建築のようでもある。後ろの、煙突がある別棟のように見えるのが厨房らしい。こちらは戦前からのものに見える。客の入る部分だけ、戦後に改築したのかもしれない。
田中食堂の後ろには戦前築の三軒長屋と民家が残っている。それぞれが別個に改修されているが、瓦屋根は残っている。



三軒長屋。東上野3-5。2013(平成25)年7月14日

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江川石材店。台東区東上野3-2。1989(平成1)年2月12日

清洲橋通りの西の裏通り。右手前の路地は後ろのビルへの通路で、そのビルのテナントの看板が通りに出ている。出桁造りの日本家屋の右側の家はしもた屋のようだが左の家は「江川石材店」、その左が「浜野酒店」。後ろに煙突が見えるが「稲乃湯」で、写真左端に入り口が写っている。
写真の家並みは現在も意外と変わっていない。出桁造りの家の半分、江川石材店がビルに建て替わった



富士多たばこ店、旭荘。東上野3-4。2013(平成25)年7月14日

左上写真は1枚目写真の向かい側の富士多たばこ店と魚正という魚屋。角のたばこ店は出桁造りの商家、隣の魚も古い商家を改装した家かもしれない。ストリートビューでたばこ店を見ると、2階の前面にほぼ間口いっぱいに看板をたてている(半分はコカコーラのもの)。それに「生菓子・たばこ/富士多」とあり、元は和菓子屋だったらしい。
右写真は富士多たばこ店の横の路地。古そうな長屋とアパートが残っている。その向かいは「プラチナ万年筆株式会社」のビルがある。1970年頃の地図では「プラチナ産業株式会社工場」とあるので、ここで万年筆の製造をしていたのだと思う。

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大山米店。台東区東上野2-25。1985(昭和60)年10月27日

清洲橋通りの西の裏通り。写真右奥が浅草通りで稲荷町駅の辺りに出る。大雑把に言って、東上野3丁目は空襲でも焼け残ったがその南の2丁目からは焼失した。それでも3丁目のすぐ向かいで焼失を免れた場所もある。昭和22年の航空写真から、2丁目24・25・5番といったところだ。
丸山米店の後ろのビルは「区立東上野幼稚園」と「区立老人福祉センター」で、このビルは今もそのまま。写真中央、黄色い日よけの店は「ビガールハトヤ」というパン屋で、今でも同じ建物で商売を続けている。奥に見えている銅板貼りの家は「 田丸屋肉店」(東上野3-3)。
現在、大山米店は「大山ビル」、田丸屋は「新プラチナビル」に替わった。


昭和製本所、保険堂薬局。東上野2-24
2013(平成25)年7月14日

1枚目の写真で田丸屋の角を左(西)に行くと永住総合病院(それ以前は区立西町小学校)であるが、その手前に残っている戦前からのものと思われる古い家。保険堂はタバコ屋のようで、薬とは相性がよくないものを売っているなと思って通ったのだが、どうも薬局は廃業したのかもしれない。それにしては二階の看板は新しそうだし……。

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田端屋。中央区日本橋堀留町2-5
1987(昭和62)年頃

大門通りの日本橋税務署の並び。写真左端にわずかに写っている黒いビルが日本橋税務署。3棟のビルが並んでいるように見えるが、撮影時の住宅地図ではまとめて「田端屋㈱」。田端屋は昭和30年頃の火保図にも「田端屋商店」で記載されている。現在は廃業したのか、ネット上ではさがせなかった。3棟の建物は「クレストフォルム日本橋(2000年9月築、13階建60戸)」というマンションに建て替わった。
写真中央のクラシックな外観のビルは昭和16年の火保図に「青木五兵衛商店(コンクリート造四階建)」とある建物だろう。『大正元年日本橋地区地籍地図』にこのビルと同じ位置、当時の田所町に「青木商店」があり、そこから北へ横丁をひとつ越えれば通旅籠町(とおりはたごちょう)で、本町通りとの角に大丸呉服店があった。
『織物問屋群生の史的背景と特徴―明治・大正の人形町通り界隈―』(白石孝「三田商学研究2003年6月」)をざっと眺めた印象では、青木五兵衛(という人あるいは店)は、堀留町界隈の織門問屋街のリーダー、あるいはまとめ役の一人だったようだ。

田端屋と日本橋税務署の間の通りを「織物中央通り」という。その通りの人形通りのほうに、金巾(かなきん)の薩摩治兵衛の店があったようだ。二代治兵衛の長男治八郎という人がとんでもない人で、パリで芸術家のパトロンになり、店の資産をすっかり散じてしまった。「バロン薩摩」の名前で有名だ。

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市田(いちだ)株式会社。中央区日本橋堀留町2-7。1987(昭和62)年頃

左写真が人形町通りからHARIO(旧ハリオグラス)の方へ入ってすぐのところで、 英松苑の向かいにあったビル(現・ファミール日本橋グランスイートプラザ)。写真左が「藤井毛織ビル(現・人形町デューブレックスR’s)」というが、その右のファサードが異なる3棟にみえるビルは地図ではまとめて「市田㈱」である。「本館、倉庫、新館」という区分けだろうか。新館は長く伸びてHARIOの角、大門通りまである。右写真は裏側。
本館の建物は昭和22年の航空写真にぼんやり写っているビルらしいが、震災復興がなった後の昭和10年代の建築のように思える。

いちだ」によると、創業は1987(明治7)年。市田商店といったかと思う。『大正元年日本橋地籍地図』に、田所町(堀留町2丁目の旧町名)の大門通りに面して「市田洋服モスリン店」がある。堀留町・富沢町・大伝馬町の界隈は明治中期からの織物問屋の大集積地だったが、市田はそのなかでは最大手の問屋だったらしい( 『織物問屋群生の史的背景と特徴―明治・大正の人形町通り界隈―』(白石孝「三田商学研究2003年6月」))。
どういう事情か判らないが、2008(平成20)年に「ツカモトコーポレーション」という会社に統合されて、その子会社になっている。

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英松苑。中央区日本橋堀留町2-8
1986(昭和61)年10月

人形町通りからHARIO(旧ハリオグラス)の方へ入ってすぐのところにあったビル。「英松苑」については不明だ。建物は戦前の小さなビルの典型のような外観である。昭和8年の火保図にはないのでそれ以降の建築らしいが、昭和16年の火保図では「小久保製作所」である。
英松苑の左の黒っぽいビルは、そのチラッと見えている側面を見るとテラコッタと思われる軒の縁が見えていて戦前のビルだと判る。「株式会社吉野藤」のビルである。このビルも昭和8年にはまだ建っていない。 吉野藤が建てたビルらしい。1991(平成3)年に、英松苑なども含めて「日本橋コアビル」に建て替わった。

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常陽銀行堀留支店。中央区日本橋富沢町9。1985(昭和60)年10月20日

人形町通りから東日本橋の方へ入って、大門通りとの角にある銀行建築。現在「HARIO株式会社」の本社になっている。HARIOは2012年9月に「ハリオグラス株式会社」が社名変更したもので、一般には旧社名のほうで知られている。写真のビルを本社にしたのは2000年12月である。
『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では「ハリオグラスビル(旧常磐銀行富沢町支店)、竣工年=1932(昭和7)年、設計/施工=曾根中條建築事務所か/不詳」であるが、『 Citta’Materia>ハリオグラス本社ビル』というサイトでは、川崎貯蓄銀行富沢町支店として建てられたもので「竣工=1932年、設計=川崎貯蓄銀行建築課、施工=竹中工務店」としている。
30年前ならこのくらいの銀行建築はそう珍しいものでもなかったが、今や貴重である。3階は増築と思われるが、なんとか下の重厚なデザインに合わせようと頑張っている外観だ。

川崎貯蓄銀行は1936(昭和11)年に川崎第百銀行に合併され、1943(昭和18)年には三菱銀行に吸収された。一方、常陽銀行は茨城県水戸市に本店がある地方銀行である。「旧東京川崎財閥系列」だという。1935(昭和10)年に常磐銀行と五十銀行が合併して設立された。その過程で写真の建物がどう変わっていったのかは分からない。昭和16年の火保図では「常陽銀行東京支店」なので、常磐銀行だった期間があった可能性はありそうだ。

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左:オクノギビル。中央区日本橋久松町12。1986(昭和61)年7月6日
右:糸重東京支店。日本橋久松町6。1987(昭和62)年4月26日

左写真の古いビルは清洲橋通りの東日本橋交差点の近くにあった。空襲で付近が焼き払われたが、コンクリートのビルだったので内部は焼けても建物は残ったのである。昭和11年の火保図に「小川商店(コンクリート3階)」、昭和30年頃の火保図に「奥野木靴下」となっている。
右写真は、ハリオグラス(旧川崎銀行富沢町支店)の前の通りに問屋橋交番があるが、その辺りの裏通り。問屋橋は浜町川に架かっていた橋。糸重東京支店とその右のビルが建て替わったが、他のビルは今も残っている。



バーバー・フジタ。日本橋久松町13。1987(昭和62)年4月26日

2枚目写真と同じ裏通りで、清洲橋通りに近い辺り。戦後の焼け跡から最初に建った木造の商店かもしれない。今は右に写っているビルも含めて残っている建物はない。角の、ガラスドアに「BARBERフジタ」と書かれた床屋は、戦前の火保図にも「床ヤ」となっている。

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中央区立久松幼稚園。中央区日本橋久松町1。1987(昭和62)年4月26日

久松町はごく小さな区域で、外から人がやってくるような施設も店もないのであまり知られている町ではない。久松警察署がある場所だといえば、分かった気になってくれるかもしれない。写真の簡素な建物は区立久松幼稚園。浜町川を埋め立てた跡に建てたものだ。区立の幼稚園はほとんどが小学校に併設しているものだが、久松幼稚園はどういう理由からか別棟である。区立久松小学校は幼稚園のすぐ向かい(写真左)にあり、幼稚園も現在はそこに併設されている。
浜町川が流れていたときには写真右の道路には高砂橋(川の対岸は現在は富沢町だが震災前は高砂町といった)が架かっていた。川の埋め立てで廃橋になったのが昭和25年3月という。下流の有馬小学校の辺りは昭和47年の埋め立てで、だいぶ時代がずれる。『 久松幼稚園』の沿革に「昭和29年9月9日、独立園舎落成」とあるから、その「独立園舎」が写真の建物だろう。
現在は「区立久松町区民館」に建て替わり、写真右の「太呉商事」のビルも建て替わっている。



春美本店。日本橋久松町2。1987(昭和62)年4月26日

浜町川を埋め立てたところは川の中心だったところが町境で、その境は狭い路地で、その両側は、久松町区民館の向かいから東日本橋三丁目の辺りまで、ほとんどバラックのような小さな家が密集して並んでいた。写真の前の道路はかつての浜町川の河岸の通りで、久松町側は「西通り」、反対側の富沢町の側は「みどり通り」という名称になっている。
写真の建物は今でもそのまま残っているが、いつ取り壊されても不思議ではない。「カワマタ」の看板の家が、今は「酒喰洲(しゅくず)」という立飲み屋になっていて、なぎら健壱が雑誌なんかに書いている。

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王さん、さち。墨田区市東向島1-24。1989(平成1)年6月25日

当ブログにアップした鳩の街周辺の写真は最近のものばかりだが、これは珍しく年号が変わった年の写真。鳩の街商店街の崎山質店の辺りから北の方向を見ている。「王さん」の看板の後ろの緑は「華やかなタイルの家」とした家で、その後ろに「旅館」の看板がなんとか読める。旅館桜井が営業していたかどうか判らないが看板は残っていた。王さんの向かいは鈴木荘という1階が店舗のアパート。秀寿司が入っている。
王さんから手前の3軒は三軒長屋の形の家で、赤線廃止までは裏はカフェーを営業していたらしい。1985年の地図では「竹内アパート」とあり、商店街側の店は「王さん、さち、たつみ」。たつみは居酒屋だろうか。
2009年8月に火事に遭って、取り壊された。今は真ん中の1軒が住宅に建て替えられた。



竹内アパート。2008(平成20)年12月3日

写真右の柵は造園石置場だったところが駐車場に変わったもの。写真正面の家が1枚目の家の横側である。右に写っている似たような家は若井荘。この家も最初はカフェーとして貸すために建てられたアパートではないかと思う。竹内アパートと若井荘の間の路地が、昔、カフェー街としてにぎわった裏通りである。

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