ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




平和楼。墨田区京島3-1。2004(平成16)年1月24日

四ツ目通りと曳舟たから通りとが交わるのが京島二交差点。その近くの曳舟たから通り沿いの店舗。左から、光陽(時計眼鏡)、平和楼(中華料理)、旧スズヤ(洋品)、稲毛屋(鶏肉、やきとり、うなぎ)、福寿し。
現在も建物、店とも変化はない。スズヤだった店にはSaraGara(Hair Cut)という店が入った。



児玉書店。京島3-1。2004(平成16)年1月24日

1枚目写真から1、2軒おいて右(南)へ続く家並み。左端は1枚目写真の平和楼と同じ造りの看板建築の二軒長屋。八百屋(店名不明)が入った建物なのだが、今は取り壊された。幅の狭い3階建てのビルが三善屋豆腐店、その右へ、児玉書店、やまや割引店、児玉書店、山口牛肉店。
古い航空写真を見ると、左の児玉書店から三善屋とその隣の二軒長屋が1棟の四軒長屋だったようだ。

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2階建て二軒長屋。墨田区京島3-34。2013(平成25)年2月10日(5枚とも)

当ブログ前回では路地の東側を見たが、今回はその向かい側にある長屋群。上の写真の家は2階建て1戸建ての住宅のように見えて、長屋とは言えないかもしれないが、2戸分の集合住宅。正面は玄関が左右両端にあり、左右対称の間取りなのかもしれない。
下写真は上の2階建ての長屋と向かい合っている平屋の四軒長屋。


四軒長屋。京島3-35



四軒長屋。京島3-35

2枚目写真の長屋と背中合わせに建っている、やはり四軒長屋で、その路地に沿った側面。2枚目の長屋の側面もこれとほぼ同じである。写真奥にも同じような形の長屋が見えている。その正面が下の写真。3棟の平屋の長屋が並んで平行に置かれている。各長屋の寸法は微妙に異なるようだが、ほぼ同じ大きさで、水色に塗ったトタンの波板で壁と屋根を葺いているのが共通している。家主が同じなのかと思わせる。
大震災後、農村だったこの辺りにも各種、大小の工場が進出してきて、そこで働く工員の住居となる長屋が大量に造られた。水色トタンの長屋はそういった工場労働者向けの長屋として建てられたのだろう。造りが一般的な木造長屋よりも簡単で、よく今まで持っていると思う。


四軒長屋。京島3-35



路地に正面を向けている三軒長屋。京島3-35

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平屋の二軒長屋。墨田区京島3-36。2013(平成25)年2月10日(6枚とも)

曳舟たから通りの裏手に、古い平屋の民家がまだ多数かたまって残っているところがある。右上の写真は、前に割と広い道路がある。以前は写っている長屋の前にも長屋があり、それを取り壊して、その部分だけ道路を拡張したもので、左右にいくとすぐ狭くなってしまう。
左写真の家は、右写真の右の家。二軒長屋で、右写真の向かい合った長屋の間の路地を奥(北)へいくと両側に古い長屋が左右にあるのが見られる。



1枚目写真の長屋のとなりの長屋で、両者はほぼ同じ造りのものと思われる。京島3-36



右半分が3階建てアパートに建て替わっている元長屋。京島3-36



梯子や屋根瓦が外に置いてあるので屋根の葺き替えなどをやるような仕事をしている人の家かと思う。この家も元は二軒長屋で、右側の部分が取り壊されたもの。京島3-36

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左:吉野製作所。墨田区京島3-28。2013(平成25)年5月5日
右:旧岡村牛乳店。京島3-28。2008(平成20)年12月6日

左写真の右の道路は、少し手前で用水路のあった通りから分れてきた道で、奥へ(南)いくとやがて橘銀座商店街へ出る。 吉野製作所は主に金型の製作をしているようだ。
右写真は吉野製作所の並び。左が旧岡村牛乳店、自販機を置いているのが旧長島商店。



平屋の四軒長屋。京島3-28。2013(平成25)年2月10日

2枚目の写真の右へ続く家並み。長屋の左端の1戸は2階を増築している。1階を作業場にしたので住む場所を造ったのだろうか。車庫にしている1戸は店だったらしく1985年の地図には斉藤商店とある。

当記事の4枚の写真の奥に大きな木が写っている。28番地の中心を占める家の庭木である。その家はこの辺りが農村だった昔からの旧家ではないかと思う。用水路のあった通りは、この家を遠巻きにするように曲がっている。微高地になっているように見えるのだが、盛土して家を建てたのだろうか。

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三井住友銀行呉服橋出張所(旧日本相互銀行本店)
中央区八重洲1-3。2005(平成17)年12月17日

前川國男が戦後のオフィスビルの先駆けとして設計したことで有名なビルだ。「日本相互銀行本店」という竣工時の名称で言われることが多い。今写真を見ると、意外に小さい。『清水建設二百年史』で竣工時の写真を見ると、外観はほとんど変化がないようだ。1952(昭和27)年7月竣工、施工は清水建設。清水建設は同年、近くの日本橋や丸の内に、ブリヂストンビルヂング(1月、松田平田設計事務所)、新丸ノ内ビルヂング(11月、三菱地所)、丸善本店(12月、清水建設)などを建設している。この年あたりからビル建設に関しては、本格的な戦後の復興が始まったのかもしれない。
ビルの特徴や意義を『 旧・日本相互銀行本店の保存に関する要望書』から引用する。2006年6月にDOCOMOMO Jpanから三井住友銀行に出された文書である。
当ビルは1952年度の日本建築学会賞を受賞した前川國男の代表作で、歴史的にも重要な建物だとして、「戦後の復興期に、日本の新建築の進むべき方向を示そうという、前川の高い志に支えられてつくられたもの」であり、「近代技術を積極的に活用した新しい建築をめざし、率先してその方法を開発しようとした」。つまり、「軽量化を図るために、2 階までを鉄骨鉄筋コンクリート造、3 階から9 階までを全溶接の鉄骨造にし、外壁にはアルミサッシュと軽量のコンクリートパネルを採用」。それによって「1 階の大スパンの大きな営業室や、軽快でモダンな外観をつくりだした」ということである。
隣の「八重洲龍名館」は前川と吉江憲吉の設計で、今はこれも建て替えられた。清水建設の施工、1963(昭和38)年6月の竣工。
永代通り沿いにあった住友海上ビルと井田ビルが解体されている。それ以前に撮影しとくのだった。



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左:こぐま。墨田区東向島1-23。2013(平成25)年3月17日
右:ヘアーサロンみゆき。2009(平成21)年3月29日

鳩の街商店街のカフェ「こぐま」とその並び。銅板張りの看板建築が並んでるような景観が見られる。古い航空写真を見ると長細い家が写っているので、食料品のスズキストアまでの五軒長屋だったらしい。こぐまによると、建物は昭和2年に建ったという。その3戸が残っているわけだ。
「ヘアーサロンみゆき」と隣の家は商売はやめたようだ。1970年頃では「みゆき」は「みゆき履物店」で、隣は「オリオン電気」という店だった。


こぐま。2013(平成25)年3月17日

「こぐま」は2006年11月に開店した「古民家カフェ」。建物は「金子薬品」という薬屋だったもの。横丁との角にあって、トタン波板が貼られた建物の横側が見えているが、そこに掲示板だか黒板だかが架かっている。内容はこぐまの案内板だが「㈱カネコ薬品」の表札がある。薬屋だったときから同じ位置にあったものだ。その表札をこぐまのものに替えずに、そのままにしているとは見識が高い。

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則武荘
墨田区東向島1-10。2009(平成21)年3月29日

鳩の街通り商店街に「こぐま」というカフェ(カフェーではない)があるが、その角を東へ入った横丁にある建物。住宅地図では則武荘というアパートらしいが、平屋・陸屋根の部分は町工場だろう。この建物の裏に回ると、2階建て瓦屋根・モルタル壁・外階段の普通のアパートの外観である。古い地図に「則武撚糸工場」とあった。
撚糸(ねんし)とは糸に撚り(より)をかけることで、布に織り上げる前の工程である。向島に紡織産業もあったのかと少し意外な気がした。いつ頃まで工場は稼働していたのだろうか? 戦後も昭和20年代だったら操業していたかもしれない。実際に線引きがあったということはなさそうだが、この工場も赤線地帯に含まれていたと思える。工場にすれば、なんだかわからないうちに回りの家がカフェーに変わってしまった、というところだろうか。
中古建築愛好会>木造系>旧則武撚糸工場』というサイトに内部の写真が載っている。「向島博覧会2000」というイベントで会場になったときのものである。それを見ると、驚いたことに工場の機械はそのままで残っている。立派な産業遺産で、「近代化遺産」に登録してもいいくらだ。少なくとも街の観光資源と活用できると思う。

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中石荘。墨田区東向島1-10
1989(平成1)年6月25日

「鳩の街」というと吉行淳之介の『原色の街』と木の実ナナである。写真の木造の家が木の実ナナが生まれ育った家だという(『東京紅團>原色の街を歩く』)。鳩の街通り商店街の松の湯のすぐ南で、現在は3階建てのビルに建て替わって、1階には「病児保育を作る会」というNPO法人と「はとのまち整骨院」が入っている。磯貝米店との間の路地の角にあるのだが、『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)には、ちゃんとその角だと判る写真が載っていて、やはりプロの仕事は違う。
この写真を写した時は、赤線の街という意識で商店街を歩いたのだが、知識がなかったからカエーだった家が並ぶ裏の路地まで入ることはしていない。そこに足を踏み入れたのは15年も経ってからだ。

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路地奥の四軒長屋。墨田区東向島1-10。2013(平成25)年3月17日

鳩の街通りの松の湯の隣がかつて「大黒鮨」だった家で、そこと旧いの字との間の路地を入った突き当りにある四軒長屋。その手前、路地の左右の家も長屋らしいが、戸別に改修されていてそれとは分かりにくい。袋小路の路地には入りづらいが、記録のためにはしかたない。

下の写真の家は上の四軒長屋の裏手にある元カフェーと思われる家。赤線で女性のサービスを受けられる店を「カフェー」という。戦前からあった言葉だとは思うが、戦前の場合は「銘酒屋」を使うことにする。最近、喫茶店の代わりに使うようになったのは「カフェ」である。
カフェーの建物には特徴があって、カフェー建築などとも言うくらいだ。東京下町の場合、円柱状の飾り柱、豆タイル、複数の狭い入口、角を丸くした庇、などといったもの。写真の家は改装されて雰囲気はかなり薄れてはいるが、たいていのサイトでカフェーと認定している。カフェーだったときの店名は分からないので、かってに「白い家」と命名した。
下左写真の右前方には「旅館白鳥」があった。その写真が『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に載っている。


白い家。東向島1-10
2013(平成25)年3月17日


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左:赤松化粧品店。墨田区東向島1-10。2009(平成21)年3月29日
右:旧いの字。東向島1-10。2013(平成25)年3月17日

左写真は鳩の街通り商店街の北(墨堤通り側)の入り口の角にある廃業した店舗。鳩の街通りは、その西側は向島5丁目、東側は東向島1丁目と町境になっている。
赤松商店は看板の「ラモナー化粧品」が注目されている。ラモナー化粧品を製造販売していたのは今も盛業中の 石田香粧株式会社で、そのHPによると、「昭和6年、ラモナーの商標取得。ラモナー固練白粉発売」し、昭和25年には「ラモナーオリーブレモン」を発売。昭和35年には「ロータス化粧品の訪問販売を開始」し、主力商品をロータスに移していったらしい。したがって赤松商店の看板は昭和30年以前のものかと思う。
建物の横にコンドームの販売機が取り付けてあり、稼働しているように見える。赤松商店を廃業した店と決めつけたのは早計だったかもしれない。

右写真のしもた屋は赤松商店から商店街を数軒先にいった並び。玄関が2か所あるのは店だったときの名残りだろう。1985年の地図には「いの字」となっている家で、その店名と1階の和風の造りから、おそらく居酒屋だったと思われる。2階正面の看板建築のような造りが風変りだ。

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