ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




民家。足立区千住元町20。2012(平成24)年7月14日

タカラ湯のすぐ西の向かい側に、千住桜花苑という老人ホームがある。区立第三中学校があった跡地に2006(平成18)年7月に開設したもの。第三中は2003(平成15)年に第一五中と統合されて千寿青葉中学校(千住元宮町)になって移転した。
第三中は、 『東京知ったかぶり!>足立区』には、「昭和9年千寿高等小学校として開校し、同16年東京市足立第一国民学校、同18年東京都足立第一国民学校と改称し、同22年3月31日に閉校した同校の跡地に、翌4月1日に開校した。」とされている。
第三中の体育館とプールがあった場所は「元宿さくら公園」になった。上の写真は、その公園の向かい側に残っていた古い民家。

下の写真はタカラ湯のはす向かいの路地を入ったところ。たぶん、平屋の長屋の端の一軒が残っていると思われる民家。写真右の真新しい民家のところは、以前「一久」という魚屋があった。


民家。足立区千住元町18。2012(平成24)年7月14日

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田上タイル倉庫。足立区千住大川町42。2012(平成24)年7月14日

荒川土手から見下ろした千住大川町の一画。蔵は2012年の住宅地図に「㈲田上タイルソーコ」となっている建物。戦後まもなく建てたものらしい。その後ろに水色の屋根の倉庫があり、2階建ての白い壁はアパートだろうか。アパートの後ろに見える入母屋屋根の家はY邸。倉庫やアパートはY邸の敷地に建っているような気がする。
Y邸の右の繁みは庭の木々である。ひときわ大きい木が「足立区指定第778号保存樹林すだじい」らしい。「すだじい」とはぼくは初めて聞く名前だが、シイの木と理解しておいていいようだ。その案内板がブロック塀に張ってあった。それに以下の文章があるので採録しておく。「昭和20年2月28日大雪の夜、B29からの爆弾が我が家の庭近くに落ち、家は崩壊し、その中で母が亡くなった。一瞬にして変わり果てた風景に、スダジイとクロガネミチだけが残り、戦争の悲しみを今も伝え続けている。」
Y邸のご主人が書いたものらしい。Y邸は、昭和22年の航空写真に写っていて、戦前からある屋敷の母屋のように思えるが、あるいは戦後の建築なのだろうか。




上:Y邸。2012(平成24)年7月24日
左:Y邸の門。2012(平成24)年7月14日

1枚目の写真を撮って10日後には取り壊しの最中だった。今は8戸の建売住宅が建って売出し中である。

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左:旧星野雑貨店。足立区千住大川町30
右:足立屋秋間酒店。千住大川町28。2012(平成24)年7月14日(5枚とも)

前の道路は、ここから5・600m西(写真左)へ行った墨堤通りの帝京科学大学入口交差点からタカラ湯の前を通って氷川神社の東の荒川土手下の五叉路に出る通りである。昔は半ば商店街だったような感じだが、今は住宅地の中にパラパラと商店が見受けられる狭い通りだ。たぶん昔からある、荒川放水路の開削前は、小菅方面につながるけっこう主要な道だったのではないかと思う。




上左:平屋の民家。千住大川町36
上右:片岡測器製作所

1枚目の写真、旧星野雑貨店の向かい側は区立千住公園で、その西側の横丁に古い家が残っていた。
千住公園は1937(昭和12)年1月に開園した。東京府南足立郡だった時代に郡立の伝染病防疫隔離病院があった跡地だそうだ。病院が置かれた頃は、周りは田圃か畑が広がっていたのだろう。
以前はプールがあったようだが、現在、それをつぶして再整備をしている。

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武揚堂ビル。中央区日本橋3-8
1992(平成4)年7月26日

株式会社武揚堂とその販売店は日本橋高島屋の1本南の通りにある。写真はその武揚堂の旧ビル。武揚堂は一般には地図とそれと関連する書籍の出版社で、当ブログをご覧いただいている方なら、ご存じの方も多いのではないかと思う。地図の作成から印刷までするらしい。
武揚堂によると、明治30年(1897年)に「武揚堂書店」として創業した。1937(昭和12)年10月に「社屋改築」とあり、それが写真のビルなのかもしれない。昭和22年の航空写真には、それらしいビルが写っている。
現在の建て替わったビルは1995(平成7)年8月に完成したもの。

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東急百貨店日本橋店。中央区日本橋1-4。1986(昭和61)年1月

東急デパート日本橋店の写真はこの1枚しか撮っていない。閉店したのは1999(平成11)年1月31日で、その間、いくらでも機会はあったと思うが「すでに撮り終えた」という意識だったのかもしれない。間抜けな話である。写真そのものも、撮影位置や時間が悪い。
建物は、設計=石本喜久治、施工=清水組で1928(昭和3)年11月に完成した白木屋日本橋本店のビルが元になっている。朝日新聞社を設計した石本が一転してインターナショナルに挑んだ重要な作品とされている。1931(昭和6)年には東側の第2期工事が完成して、永代通りに沿って長く伸びた姿を見せる。当時の写真を見ると実にすばらしい。
写真の外観は1957(昭和32)年の大改装によるもので、この時の設計者は板倉準三だという。
白木屋というと、1932(昭和7)12月16日の「日本初の高層建築火災」と、横井英樹の「白木屋乗っ取り事件」。事件になったのは1953・4(昭和28・9)年のことで、ぼくなんかは知らなかったはずである。ホテルニュージャパンの火災で横井の前歴が報道されるようになって、ぼくもそれで知ったのかと思う。

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浅野ビル。中央区日本橋1-3。2010(平成22)年5月8日

中央通りと永代通りが交わる日本橋交差点から北の方向を撮った最近の写真だが、角のビルから左へ、永代通り沿いの3棟のビルがすでに解体された。今は新築工事に入っているものと思う。
角のビルは、伊予銀行東京支店が入っている「浅野ビルディング」。1960(昭和35)年10月に竣工した。その左は「東京建物日本橋ビル」で、解体工事の準備に入ったのか、足場が組まれていて、ビルの看板も「大成建設」だけだ。
さらに隣は「日本橋中央ビル」というが、看板が見当たらないのでテナントは大方が出てしまったらしい。1986年の地図では北海道拓殖銀行が入った「東京たくぎんビル」であり、1969年の地図では「北海ビル」の名称になっている。1955(昭和30)年7月の竣工、9階建て地下2階。


東京建物日本橋ビル
2007(平成19)年6月7日

不動産のサイトによれば、1959(昭和34)年11月の竣工、10階建て地下2階、というビルである。1986と1969年の地図では「大和ビル」となっている。
昭和30年頃の火保図に「ヤシマホテル」となっている場所である。The world of HOTEL LABEL>ヤシマホテルによれば、軽井沢万平ホテルは昭和6年に東京進出して「麹町万平ホテル」を開業するが、その翌年、昭和7年7月に日本橋にも「八洲ホテル(やしまホテル)」を開業した。終戦後は進駐軍に接収されたが、昭和23年には解除され、「政府の貿易庁直営ホテルとしてバイヤーズホテル」として使用され、昭和27年には「ホテルヤシマ」として元に戻る。しかし、早くも昭和31年に閉鎖された。
当サイトには「今日この地に立ってみると、建物自体は取り壊されてはいないようで、当時の面影が感じられます」とあり、他にも写真の建物が戦前のホテルだという話を聞く。縦長の窓2個を1つにまとめて横長の窓に改修したとみれば、外観は当てはまるようである。竣工年の1959年は、建物の後ろに増改築したことを言っているのかもしれない。

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勝造商事。台東区寿3-19
上:1986(昭和61)年10月26日
左:1988(昭和63)年5月1日

国際通りの寿2丁目交差点のすぐ南にあったビル。『日本近代建築総覧』に「勝造商事K.K.、建築年=昭和2年、構造=RC3、旧片倉工業K.K.所有の建物」となっているビル。正面をアールデコのデザインで飾ったしゃれたオフィスビルといった感じだ。
「勝造商事株式会社」はネット検索しても出てこないので、今は廃業したかと思う。唯一の情報は「散歩用おもちゃ」の新案特許の申請書が出されていることだ。玩具メーカーだったのだろうか。
昭和30・40年代の地図では、この建物は「同和信用組合」である。「在日朝鮮人のために設立された朝銀東京信用組合の前身」ということだが、1952(昭和27)年6月の設立で、1972(昭和47)年9月に「朝銀東京信用組合」に改称したのだか合併したのだかした。現在は破綻したかどこかに吸収されたのだろうが、ぼくの興味の範囲を超えている。
勝造商事の左は「新栄産業別館」だが、現在はこのビルと勝造商事のビルとで「パークキューブ浅草田原町」(2006年3月竣工、15階建、76戸)というマンションに建て替わっている。

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東京厚生信用組合浅草支店。台東区駒形1-1。1987(昭和62)年10月4日

江戸通りの厩橋交差点のすぐ北にある、古い小さなビルだ。地図でみると奥行きはけっこうある。ファサードは西洋の様式建築の要素を現代風にアレンジして配置したような具合だが、アールデコの要素までありそうに思える。ネットでは昭和5年築としたのがあった。
東京厚生信用組合は昭和28年の創立で、そうすると元はどんな会社が建てたものか気になってくる。現在の看板に引きずられて、元々金融関係のビルに見えてしまうが、はたしてどうなのか。『goo古地図』の明治の地図に厩橋交差点の角に「東京貯蔵銀行支店」とあり、あるいは関係があるのだろうか。
王子運送浅草営業所は荷物の集配をするための倉庫かガレージのような建物らしい。現在はマンション(プリムローズ浅草駒形弐番館、2003年12月築)に建て替わった。その右隣、下左の写真にわずかに写っているのは「第一金庫ビル」で、だいぶ古くなった姿で残っている。



左:1987(昭和62)年10月4日、右:2008(平成20)年3月1日

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銭谷自動車工業。千代田区神田淡路町2-7。2006(平成18)年10月25日

外堀通りの昌平橋の南の1本西の裏通りで、現在はワテラス・アネックスのビルが建っている辺りになる。コンクリートの柱が並んでいるのが銭谷自動車工業の整備工場。写真は裏側で、表側は外堀通りに面している。左写真は南方向を見ていて、切妻屋根の3階建ては銭谷自動車の倉庫だろうか。その隣のビルは「淡路町安田ビル」、次の3階建てのビルが「丸善淡路町ビル」。その向かいに、かつて区立淡路小学校があった。
右写真は逆方向を見たもので、奥の4階建てのビルは1986年の地図では月極駐車場だから、わりと最近建ったものだ。そこは「神田シネマパレス」という映画館があった場所で、ぼくは目にしたことがあるのかもしれないが、まったく憶えがない。昭和30年代後半には閉鎖されたされたらしい。
銭谷自動車工業の工場は相当古い建物に見える。昭和22年と38年の航空写真を比べると、写っているのは当然屋根だけだが、どうも同じ建物のように見える。戦前に建てられたものかもしれない。


神鈴荘。神田淡路町2-13
2006(平成18)年10月25日

上の写真の向かい側。手前は民家で、瓦屋根の2階建ては、1986年の地図では「神鈴荘」となっている。緑に覆われているのは淡路町画廊

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タイガービル。台東区蔵前4-30.1987(昭和62)年10月4日

国際通りに面して建つ、戦前のアパート。2008年3月に、文化庁が指定する登録有形文化財になった。『 文化遺産オンライン>タイガービルヂング』によると、「建築年=昭和前期(ネットではもっぱら昭和9年)、1955年改修、RC5階地下付」で、「スクラッチタイル(こういう薄い色もありか?)貼の外壁で、当初はエレベーター付の高級賃貸集合住宅として建てられた」。
3-5階にベランダがあってアパートらしい外観だ。建物両側の丸窓は階段室のものかと思っていたが、よく見るとそうではない。階段室は後ろの両側にあるようだ。



左:2008(平成20)年3月1日、右:2005(平成17)年7月16日

この辺りの旧町名は「浅草桂町(あさくさかつらちょう)」といった。昭和16年3月1日の起立だから、そう歴史がある町名でもない。地元の名士で、逓信大臣にもなり、東京市長を在任中に亡くなった頼母木桂吉(たのもぎけいきち)の功績をしのんで付けられた町名という。春日通りを走っていた都電に、「桂町」電停があった。昭和39年1月1日には今の蔵前3・4丁目に変わった。

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