ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:洋館。神奈川県鎌倉市大町1-13。2004(平成16)年4月7日(右も)
右:大町会館。大町1-11。

左写真の洋館は妙本寺の山門のそばにある。妙本寺は比企谷(ひきがやつ)という谷の奥にあり、夷橋を渡って山門に着いても、そこからまだかなり歩く。山門の右に建つ八角形のお堂のような建物は比企谷幼児園で、昭和12年の完成。
妙本寺山門から南へいく細い道路が、散策コースに向いている。常栄寺や八雲神社に立ち寄りながら歩いていくとやがて県道311号に出るが、その手前に大町会館がある。観光客用の施設ではないから、普通は無視される建物だろう。1999年にも写真を撮っていて、そのときは壁を塗り直す前で、かなりレトロな雰囲気だったと思うのだが、その写真が行方不明である。出てきたら写真を差し替えようと思う。

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スピードクイーン雪の下。神奈川県鎌倉市雪ノ下3-1。2001(平成13)年11月4日

金沢街道が北へ曲がるところ。道路の角はなにかの店が建っていたと思うが取り壊されて駐車場にしている。日本家屋の2階正面に大きな看板を立てているのは「スピードクイーン雪の下」というクリーニング店。隣は看板建築風の長屋式の店舗。片流れ屋根の簡単な造りだ。
現在も写真の景観は、写っている建物がそのままで、ほとんど変化がない。




上:LE Chat猫
左:蔵造りの民家
雪ノ下3-1。2001(平成13)年11月4日

上の写真は1枚目写真の看板建築の左に写っている建物。ちょうど星野写真館の向かいである。「LE Chat猫」という看板が残っていて、喫茶店だかブティックだったようだが、たぶん廃業している。現在はベランダがなくなったが1階の造りはそのまま残っている。
左写真の民家は「猫」の少し西の横丁を北に入ったところ。道路の向かい側は鶴岡八幡宮の境内で、低い石垣が続いている。古い蔵を住居に改装した家ではないかと思う。

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星野写真館。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-14。2011(平成23)年11月29日

神奈川県道204号(金沢街道)は八幡宮前交差点から始まり、東へ走ってすぐ北へ転じる。その交差点(三叉路)の角に若林酒店、交差点の手前に星野写真館がある。
星野写真館はレトロな写真館としてけっこう有名なようだ。前面のキュービックな造りが目を引く。後ろに和風な住居がくっついているが、看板建築ではなく、仕事場を別棟として建てたようである。隣の駐車場から裏側を拝見しておけばよかった。特に決め手があるわけではないが、戦後すぐの建築ではないかという気がする。
そろそろ壁の塗り替え、看板の書き替えなどの時期にきていると思うが……。


星野写真館。2011(平成23)年11月29日



若林酒店。雪ノ下1-14。2001(平成13)年11月4日

現在は住宅に建て替えられている。家の角はたばこ売場だろうが、裾のタイル張りの造りは規格品なのだろうか。

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淡路町画廊。千代田区神田淡路町2-11
左:1985(昭和60)年7月7日、右:2006(平成18)年10月25日

外堀通りの昌平橋の南、神田郵便局の向かい側の横丁を入ってすぐの三叉路。現在はワテラスとして再開発されて、「アネックス」のビルが建つ。蔵は移築保管が考えられて、再開発工事が進んでいる間も残っていたが、どうなっただろうか。
淡路町画廊・蔵の響きコンサート』には、会場に関して「本の街神田の書籍商により大正6年に建設されて以来、神田の歴史と共にあった建造物です」と説明されている。昭和30年頃の火保図では「大京堂」の倉庫。
内部の様子がYouTubeの『淡路町画廊「蔵の画廊、残そう!」取り壊し直前、移築検討』(2010.01.27)で見ることができる。

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田村信物産。千代田区神田淡路町2-27。2006(平成18)年10月25日

写真左の家が当ブログ前回の二軒長屋。その北側、幽霊坂の道路との角に建っていた家。1986年の住宅地図では「田村信物産㈱」、その右の看板建築は「日栄」(写真では「Vintage Strings」の看板)、右後ろのビルは「四谷大塚進学教室」。左後ろのビルは「小野電業社」。写っている建物は全てワテラスの再開発によって消滅した。
田村信物産は昭和30年頃の火保図に「田村油脂商店」とあり、食用油脂を扱う会社らしい。建物は寄棟屋根とモルタル壁の家に陸屋根の別棟がくっついている。いつ頃に建てられたものかよく分からないのだが、昭和22年の航空写真に写っている家と思われる。



田村信物産。2006(平成18)年10月25日



1枚目写真の左、長屋との間にあった田村商店の倉庫。1985(昭和60)年7月7日

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二軒長屋。千代田区神田淡路町2-27。1985(昭和60)年頃

淡路町2丁目の 淡路町小学校の跡地を核にした「WATERRAS(ワテラス)」の再開発はこの3月に完成する。写真の家は 淡路公園の北側にあったが、再開発で取り壊しになった。一戸建ての貸家のようにも見えるが住宅地図では2世帯の名前が記載されているので二軒長屋になるのだろう。裏にも同じ造りの長屋がある。写真左の路地の奥にも古い家が写っているが、路地の左側も3棟の二軒長屋があったようである。『 ニッポン懐景録>神田淡路町』では、路地の左側の道路に面した家が看板建築風に改装していたことが分かる。



左:2008(平成19)年3月18日、右:2006(平成18)年10月25日



二軒長屋。神田淡路町2-27。2006(平成18)年10月25日

高畠家のはす向かいだが、1-3枚目写真の裏手になる。写真では2棟の平屋の貸家に見えるが、1棟の家で、前だけに屋根までの切り込みが入っている。『 ニッポン懐景録>神田淡路町』の写真をみてもらうのが早い。

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高畠家住宅。千代田区神田駿河台4-2。1985(昭和60)年7月7日

名倉病院(現・お茶の水NKビル)の裏にあるお屋敷。「高畠宅」として、平成15年6月に「千代田区景観まちづくり重要物件」に指定された。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁地域教育支援部管理課編集、2009年)によると、震災直後に伊勢丹の初代社長である小菅丹治の隠居処として建てられた。建物の特徴は、「屋根は入母屋造で、その下に下屋がまわっている。外壁は、簓子下見板張りと漆喰仕上げ」で、内部は「欄間の意匠や天井の細工、建築材料など、各所に細かい気配りをもって建設されている」としている。
とにかく、駿河台は高台であり、明治以降は高級住宅地として開発されたのかと、この家を見ると思い至る。当書も「保存状態もよく、建設当時の姿をよく残しているなど、大正末期の住宅として貴重」と述べている。
社名雑学>伊勢丹』というサイトによると、小菅丹治は12歳で湯島にあった「伊勢庄呉服店」に奉公に出たが、やがて得意先の旅籠町の米殻問屋「伊勢又」の主人の小菅又右衛門に見込まれ、婿養子に入る。養父の援助で独立し、「伊勢屋丹治呉服店」を創業する。1986(明治19)年11月のことで、場所は神田旅籠町(現・秋葉原駅前)。当初から伊勢丹と呼ばれていたらしいが、1907(明治40)年に「伊勢丹呉服店」と改称した。



1987(昭和62)年頃



川島家の門。神田駿河台4-4。1985(昭和60)年7月7日

写真左奥に高畠家が見えている。前の道路は幽霊坂。住居は取り壊されて駐車場になっている。ツタが絡まっているビルは丸中ビル(東海光機)、右端のビルはヘンミー第一ビル。表札は撮影時にメモしたが、「川島敏雄」と「神田区駿河臺四丁目四番地三」。
門を石垣で閉鎖しているが、実に念がいった造りで、石もすっかり古びて、もしかして戦前の造作だろうか。

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名倉病院
千代田区神田駿河台4-2
上:1990(平成2)年5月6日
左:1985(昭和60)年7月7日

駿河台の名倉病院は、足立区千住の名倉医院の第5代名倉謙蔵が昭和6年に写真の病院を建てて設立した。いきなりこれだけの建物を建ててしまうのだから、当時の「名倉」の名前は世間に知れ渡り、幾つかあったと思われる名倉医院も盛況だったのだろう。
設計・施工=大倉土木で1931(昭和6)年に建ったRC3階建ての建物。東側の横から見ると4階建てに見えるが、1層目は地下室なのだろう。スクラッチタイルと水平線の強調からライトを連想させるところがある。
廃景録>名倉病院』によると、解体されたのは2003(平成15)年12月。翌年からビルの建替え工事が始まり、「お茶の水NKビル」の完成は2006(平成18)年2月。病院は4月から「名倉クリニック」として整形外科およびリハビリテーションの医院ととして再出発したということだ。ビルの玄関は旧ビルのものが再現されている。


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会計検査院。千代田区霞ヶ関3-2。1986(昭和61)年7月27日

設計=大蔵省営繕管財局、施工=竹中工務店で1935(昭和10)年に竣工した中央官庁庁舎。中央官庁の建物としてはわりと後期に建ったせいか、壁はもはやスクラッチタイルではなく、小さな白いタイルを張っているので、外観はかなりモダンに見える。玄関上部の付柱が文部省や旧自治省などにも共通する飾だが、それもあっさりしたものだ。上の写真ではそれがよく、というよりさっぱり判らないが、『近代建築散策>会計検査院』にすばらしい写真が掲載されている。
霞が関3丁目南地区の再開発により、2004年に解体された。会計検査院は現在、中央合同庁舎第7号館(霞が関コモンゲート)東館にある。



会計検査院の正面玄関。この玄関部分は霞が関コモンゲート東館に移築されているという。1986(昭和61)年7月27日


2004(平成16)年2月11日
すでに玄関は封鎖されていた。

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文部省。千代田区霞が関3-2。1986(昭和61)年7月27日

国土交通省>官庁営繕によると、設計=大蔵省営繕管財局、施工=大林組により、1931(昭和6)年に着工、1933(昭和8)年7月に竣工した中央官庁庁舎。大きな窓、スクラッチタイルの外壁、玄関上部のゴシック風の飾りなどが特徴。1階の石張りは伊豆長岡産の横根沢石という。平面は中庭のある五角形。
現在は再開発されて「旧文部省」のビルは桜田通りと三年坂側の部分が保存されたので、上の写真はそう大きくは変化していない。写真中央の白い建物は虎ノ門交差点の島にあった虎ノ門派出所。写真左端の第一銀行の入るビルは「虎ノ門第一ビル」。現在は「虎ノ門清和ビル」に建て替わって「みずほ銀行」が入っている。



1987(昭和62)年1月1日

上の写真には左に国立教育会館(虎ノ門ホール)が写っている。1964(昭和39)年に竣工した9階建てのビル。 文化庁月報平成24年7号によると、「国立教育会館は、全国の教職員の研修の場で、館内には虎ノ門ホールがあり、クラシック音楽の演奏会が数多く開かれていた」ということで、現在は解散し、建物は再開発により2005年に解体された。



西南に向いた後ろ側の5階建ての部分は取り壊された。1986(昭和61)年7月27日



三年坂側は保存された。奥の白いビルは会計検査院。1987(昭和62)年1月1日

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