ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鳴子庵。台東区日本堤1-36。2005(平成17)年7月23日

土手通りの日本堤1丁目交差店から山谷通りへ向かう通りがあるが、鳴子庵はその通り沿いにあった。今はマンションに建て替わっている。
建物は建築時からほとんど変わっていないように見える。細い格子の窓はいかにもそば屋という造りである。二階は全部が宴会場のような客室らしく、道路沿いの二面に巡らしたガラス戸と手すりは、料理屋の造りの一典型なのかもしれない。戦前の、新吉原が賑った頃にはこの店も客が引きも切らずという有様だったか、と想像できる。


菅原クリーニング店
2011(平成23)年9月10日

鳴子庵の横を入ったところで、写真左の白いビルが鳴子庵があったところに建ったマンション。菅原クリーニング店の入っている建物は、聖川福音教会の前面が他と違っているが、看板建築の四軒長屋である。柱の上部に環にリボンを下げたような紋章風のレリーフが付いている。

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平屋の長屋。台東区日本堤1-34。2011(平成23)年9月10日

廿世紀浴場(今は住宅)の隣に、平屋の二軒長屋が2棟並んでいる。空襲では焼失を免れた場所なので、戦前からある長屋らしいのだが、終戦直後に建てられた仮住宅かな、とも考えていた。 『Kai-Wai散策>日本堤の平長屋(2006.11.14)』では、こちらにお住まいのご婦人から「戦災で焼けなかった建物」と聞き出している。
最近撮った上の写真では各長屋の1軒は空き家のようである。当ブログ前回の「廿世紀浴場」の写真では右端の家に「熊木○○病院」の古い看板(当の家が出している看板である)が物干しの支柱に付いていたが、今ではそれも外され家の前の鉢植えもなくなっている。
2棟の長屋の間には路地が奥へ通じている。用もないのに入るわけにもいかないような気がして、いまだに入り込めないでいる。前記の『Kai-Wai散策』によると、路地を入ると、やはり平屋の長屋(たぶん六軒長屋)が向かい合って建っていて、路地はあたかも中庭のようだという。「こんな感じ」の写真を見ると、敷石が1列に並び、鉢植えの草木があふれるように置かれていて、魅惑的な空間のようだ。


青ちゃん。日本堤1-34
2011(平成23)年9月10日

平屋の長屋と同ブロックだが、土手通りの1本東の裏通り。古い家が並んでいるが、戦前からの建物かどうか決めかねる感じである。いずれも住居になっているような中で、居酒屋の「青ちゃん」は夜になれば店を開くのだろう。客はみんなご主人を青ちゃんと呼ぶような顔見知りなのに違いない。

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廿世紀浴場。台東区日本堤1-34
1989(平成1)年2月19日

東京ではあまり例のない洋風の外観の銭湯として有名だった。1929(昭和4)年の建築である。土手通りから横丁を入ったところ、あるいは「いろは会」商店街の裏手、といった立地だった。「山谷」といってもいい所かもしれない。2007年12月31日で廃業し、建物は1年間くらいはそのままになっていたようだが、今は住宅が建っている。
内部の設備の配置は、一般的な和風の外観の銭湯と同じなのだという。正面中央に前に出した入口を置いて、その両側に小さい庭を囲む塀を設置するというパターンは、戦前の銭湯に共通したものだ。問題はなぜ洋風デザインの外観を採用したかだが、創業者の嗜好や経営戦略に係わるのだろうとしか想像はいかない。銭湯とはこういうもの、という固定観念はもっていない人だったのだろう。
スクラッチタイル貼り、縦長アーチの窓と丸窓、雷文を入れたスペイン瓦の塀、アールデコ風の塔屋状のもの、といったところが特徴。入口の引き戸は洋風から外れる。ここはもう少しなんとかならなかったか、と思ってしまう。


2005(平成17)年7月31日

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カネヤ。台東区日本堤1-33。1989(平成1)年2月19日

土手通りの日本堤1丁目交差点のすぐ南にあった家並み。写真左端のビルがウスイビルで、交差点の角にある。このビルの先代が『総覧』に「臼井商店、S10年頃、いわゆる看板建築」として載っている建物だったのだろう。ビルの右の家は、シャッターに「有限会社カネヤ」の社名と取扱商品などが書かれている。「ホンコンフラワー」とは耳にしなくなって久しい。2月だというのに2階の窓の手すりにクリスマスの飾り付けが取り付けられている。建物上部には「柴田製作所」の文字が読める。
写真右の看板建築の長屋は、4軒長屋らしい。1986年の住宅地図では「YOU&I;、アサヒ不動産、まるへい、斉藤」であるが、写真では左の家が看板屋(店名が読めない)に替わっている。アサヒ不動産の前に古いタイプのバス停が写っているが、「日本堤」停留所。
現在は、カネヤは取り壊されて駐車場に、長屋は裏通りまでのマンション(センチュリー三ノ輪)に替わった。



看板建築。台東区日本堤1-33。1989(平成1)年2月19日

1枚目の4軒長屋に続く家並み。カネヤから笹目建具店まで看板建築が並んでいる。土手通り沿いで、空襲で焼失を免れたわずかばかりの地域に、これだけの看板建築が建ち並んでいたわけだ。写真右手の横丁を入ると、5年くらい前なら廿世紀浴場があった。



近影。2011(平成23)年9月11日

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三ツ和。台東区日本堤1-10。1989(平成1)年2月19日

アーケードのいろは会商店街の北側、および土手通りの東側にかけて空襲での焼失を免れた地区がある。狭い範囲だが、そこで今でも見られる古い木造家屋は戦前の建築と見てもよさそうだ。土手通りの伊勢屋や、廿世紀浴場がそれに当たる。当記事の写真の家は、焼失地区に隣接した位置にあるが、たぶん焼失を免れた家になるのではないかと思われる。ストリートビューで見る限るではいずれの家も現存している。
上の写真は伊勢屋のすぐ裏の通りで、昔は山谷掘りだったのを埋めて道路にしたところだ。写真左奥で土手通りに合流し、そこが「いろは会」商店街の入口である。



左:民家、日本堤1-10。右:加藤風呂店、日本堤1-8。2005(平成17)年7月23日

『昭和16年の台東区>山谷』の地図を見ると、現行住所の日本堤1丁目の土手通り側が「地方今戸町」となっている。埋められて公園に替わった山谷掘りには地方橋が架かっていて、その親柱が残っている。橋の名前は地方今戸町からのものかと分かり、親柱のひらがな表記の表札は「ぢかたはし」だから「地方」は「ぢかた」と読むと知れた。「町」の読みが分からないが、『青空文庫>里の今昔(永井荷風)』では「ぢかたいまどまち」とルビが振ってあるから、それに従うことにする。
地方今戸町は1889(明治22)年に北豊島郡から浅草区に編入された。土手通りの東側沿いに長く伸びて、南端は山谷通りと接する吉野橋の辺りまであったらしい。そこなら今でも「今戸」だ。既出の「昭和16年の地図」だが、ウィキペディアを参照すると、昭和16年に「浅草日本堤3丁目」が成立していているから、その直前の地図なのだろう。
明治10年頃の「内務省地理局東京五千分の一」を見ると、山谷掘りの東側(新吉原の周囲も)は田畑が広がっているが、「地方山谷町」の町名がある。地方今戸町には「字見帰リ耕地」と「字日本堤外耕地」を含んでいる。「地方(ぢかた)」の意味は『ウィキペディア>台東区の町名』に記されていた。「「町方」に対する言葉で、市街地に対する農村部、町奉行支配地に対する代官支配地を意味する。橋場町の場合を例にとれば、元の橋場村の一部が町地化して町奉行支配地に組み入れられた部分を「橋場町」と称し、残余を「橋場町地方」または「地方橋場町」と称した」とある。

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桜鍋中江。台東区日本堤1-9。1989(平成1)年2月19日

土手通りの吉原大門交差点の北の家並みで、古い日本家屋の料理屋が3軒並んでいる有名な景観だ。20年以上も前の写真だが、今もまったく変わっていない。桜鍋の中江と天丼の伊勢屋は有名で大繁盛店である。来るにはちょっと不便な場所で、今では吉原で遊ぶついでに、というわけではないと思うし、みんなタクシーでも飛ばしてくるのだろうか。
『桜なべ中江』によると、中江の創業は1905(明治38)年で、今の建物は関東大震災の翌年に再建されたもの。内部は改装されているが外観ほぼ建築時のままという。吉原土手(日本堤、土手八町)が削られて平らな土手通りになったのも関東大震災後のことで、それまでは吉原からは土手をあがった向こうにあったわけだ。土手の外側には山谷掘りがあって、その間に狭い町家が土手下に続いていた。山谷掘りは中江のすぐ北で土手と接するので、この辺りは片側町(道の片側にだけ家がある町)の北端になる。




伊勢屋、大村そば店
上:1989(平成1)年2月19日
左:2005(平成17)年7月23日

天丼が有名な伊勢屋は明治22年の創業で、建物は昭和2年に建った。昼時になると店の外に行列ができる。外で立って待つくらいなら向かいの大村そば店でもいいではないか、などというと食通からはばかにされるかも。
『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)には昭和56年撮影の店の内外の写真とともに店内に飾られている時計や額が載っている。家の建築にかかわった職人たちが贈った「大入」の額で施工者名が分かるのが面白い。つまり「大工鈴木、石工渡辺、左官山崎、鳶深谷、羽住建具店、銅松、タイルヤ益田、ペンキヤ西藤」。



近影。2011(平成23)年9月11日

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梅の湯。足立区千住5-5。1990(平成2)年4月30日

旧日光街道の商店街は今では街灯に「宿場通り」の看板が付けられた。その商店街の北のはずれ辺りからちょっと引っ込んだところに梅の湯はある。写真の駐車場のところに、現在は三階建てのビルが建ったので、路地の奥に見えるような感じになった。
昭和5年築( 『風呂屋の煙突>梅の湯』)という。残念ながら2011年2月末で廃業した。「お客様にお知らせ」の張り紙では、ご主人が目を患ってのことという。建物は今もそのままになっていて、時間がくれば「お待たせしました」と入口があくような感じがまだ残っている。



中川屋。千住5-5。1990(平成2)年4月30日

梅の湯がある辺りの宿場通り(旧日光街道)。写真左の中川屋(そば)の左に車庫があって、その左が梅の湯への路地。平屋の日本家屋は、街道沿いでは珍しいかもしれないが、千住では街道から外れればけっこう目にしたものだった。なにかの商家だったと思われるこの建物は、現在は取り壊されて駐車場になっている。中川屋は商売建物とも健在だ。

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鈴木たばこ店。足立区千住5-6。1990(平成2)年4月30日

写真左端は当ブログ前回の板垣家住宅。その並びにあった商店で、この裏には銭湯の梅の湯があって、その煙突が見えている。左から鈴木たばこ店、やはり鈴木たばこ店が使っている家、中川園(茶)倉庫。中川園は宿場町通り(サンロード商店街、旧日光街道)に同名の店があるから、それではないかと思う。右へいった千住本町住区センターの向かいにも、通りに向いて小さな「中川園本店倉庫」があった。そこの看板には「(店舗は)長崎屋手前」と書いてあった。現在、「コンサート・ホール」というパチンコ屋のところは「長崎屋北千住店」だった。
現在は、鈴木たばこ店は住宅に建て替わり、その右の2軒が中嶋ビルという4階建てのビルになった。



まるせん。千住5-6。1999(平成11)年5月1日

1枚目写真の右端に写っている建物。建物の右で格安焼き鳥の「まるせん」が営業中だ。建物は長屋を改造したものだろうか。2階の広くて平板な壁のせいか、蔵造りのようにも見える。
現在は建て替わっているが、2階建てのアパート風の建物なのであまり代わり映えがしないような・・・。

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板垣家住宅。足立区千住5-6。1999(平成11)年5月1日(2枚とも)

旧日光街道の千住5丁目交差点(旧水戸街道との分岐点、ここだけの名称)の西南角にある立派な住宅。この交差点から千住新橋方向へかなり広い道路が通っている。通称「板垣道路」、あるいは「板垣通り」という。板垣家の先代春信氏は市会議員のときに道路整備に熱心で、足立区道路第21号線として計画された道路の一部が実現したものである。1942(昭和17)年5月に300mが出来上がって、後は中止されてしまったようだ。交差点北側の大きな隅切りに見える箇所は、道路を荒川土手へつなごうとしたカーブの跡らしい。
『東京都の近代和風建築―東京都近代和風建築総合調査報告書―』(東京都教育庁地域教育支援部管理課編集、2009年)によると、板垣家は大正2年に、「荒川放水路開削に当たり荒物屋(中嶋屋)開業のために転居」してきた。現在の建物は「昭和13年竣工。木造2階建の入母屋造・平入り、桟瓦葺」で、「昭和40年に瓦葺直し」をし、平成17年には土台の修理と内部の改修もして大事に使っているという。



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西岡本家。足立区千住5-18。1988(昭和63)年12月11日

旧日光街道と板垣道路(千住新橋南、高架の国道4号の下に出る)との交差点は大きく隅切りがされていて、ほとんど広場のようになっている。写真の家並みはその交差点の北の隅切り部分で、現在では2棟の古い出桁造りの家はビルに建て替わっている。
写真左の出桁造りの家は現在、「溜屋(たまりや)近藤葬祭株式会社」の事務所ビルに替わった。その右の家は撮影時の住宅地図では「西岡本家」。なんの商売だかは分からない。



安田精肉店。千住5-15。1988(昭和63)年12月11日

前の通りは通称板垣道路という1942(昭和17)年に完成した通り。安田精肉店はその道路に正面を向けているから、建物もその時期のものなのだろうか。普通に見れば昭和初期の建築と見える。現在は改装されて瓦屋根ではなくなってしまったので、見た感じも変わってしまった。1階右側の木の枠のガラス戸は残っている。

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