ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 







清和寮。文京区本郷4-21。1989(平成1)年4月9日

現在「本郷四丁目アパート2」という都営アパートが建っている場所に、清和寮という古い都営アパートが建っていた。清和寮は東京市が右京山周辺を住宅地として開発した際に、その一環として建設したRC4階建てのアパート。独身男性用だった。1930(昭和5)年の完成で、設計=東京市、施工=鹿島組である。ほぼ三角形の敷地で、その底辺に当たる南側に東西方向を軸にした南棟(ここだけの仮称)が、南棟の中心より少し西に寄ったところから北棟が突き出しているというT字型の平面である。上の写真は清和寮の向かいの清和公園から撮ったもので、北棟の西側と、写真右に南棟と両者の付け根に階段室が写っている。
6畳一間だったという部屋数144室の他に、浴室、社交室があり、ダストシュート、ガス暖房、水洗便所の設備を有したという( 『Japan Geographic>文京 炭団坂』)。写真左の3階建て部分が共有スペースだったのかもしれない。
『新聞記事文庫・中外商業新報1931(昭和6)年2月19日』に、「・・・この程本郷区真砂町に東京市社会局が新らしい試みとして建設した清和寮独身者アパートの如きも、申込開始とともに千余名の申込者が押しかけ、部屋数百四十一の割当に苦心されたものであるが、・・・」という記事が載っている。



門柱と玄関。1988(昭和63)年2月21日

清和寮竣工時の門が残っていた。街灯はなくなっていたが、東京市のマークと「本郷区/真砂町/三十六」の文字を掘り込んだ表札が付いていた。玄関は建物の規模からすると簡素なものだが、両脇のモンドリアン風のステンドグラスが見所である。 『廃景録>清和寮』には、内側から透過光で撮った写真が載っている。このステンドグラスは左右でデザインが異なっている。



1988(昭和63)年1月30日

上の2枚は清和寮南の、撮影時では「大蔵省関東財務局真砂住宅」の敷地から撮った南棟の南面。東の端に半円形に丸めた階段室が突き出ていた。
財務省の寮は現在では4階建てアパートが2棟建っているが、それに建て替わる前までは、本郷連隊区指令部として建てられた建物が残っていて、それを使っていたようだ。連隊区司令部とは陸軍の一組織で、連隊区内の徴兵事務などをする機関。本郷連隊区は東京府の一部と埼玉県の一部を担当した。1941(昭和16)年に一府県一連隊区に変更された時点で廃止された。司令官は大佐である。その建物(古い航空写真を見ると、昔の木造校舎のようなものだったように見える。4棟あった)が、たぶん昭和45年頃までは存在したらしい。



清和寮裏の石垣。1988(昭和63)年1月30日

菊坂下の低地から見上げた清和寮の北棟の東側。清和寮の裏(東側)は急な崖で、大谷石の石垣になっている。この石垣は清和寮を建てる際に整備されたものという(『本郷の回覧板>「東大下水」をたどる』)。

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東京市営真砂町住宅。文京区本郷4-20。2007(平成17)年2月17日

本郷台地が菊坂の谷で削られて、岬状に北へ延びている部分を通称「右京山」という。東京市は1923(大正12)年から1925年にかけて、その辺りを一戸建て住宅地として開発した。中心に清和公園の緑地を設けて、その公園を囲むかたちで46棟75戸の住宅が建てられた。また1930(昭和5)年には「清和寮」というRC4階建ての独身男性用のアパートを、清和公園向かいに建築した。
この地区は空襲での焼失を免れて、昭和50年頃までは大正時代に形成された住宅地が、住宅そのものも保持されてきたのではないかと思う。goo地図の古い航空写真でも、その一戸一戸が確認できる。うっかりすると空襲で焼き払われた地区に建てられた仮設住宅に見えてしまう。現在では、ぼくは3棟が残っているのを確認しただけだが、改修されて戦後の建築に見えるものもあるかもしれない。
写真の建物は今も残っている1軒で、第3期の大正14年3月に建てられたもの。わりと大きい住居だから2戸分の住宅だろう。大正期の建物とは思わなかったので最近の写真しかない。


鐙坂上へ通じる路地の階段
本郷4-12。1988(昭和63)年3月13日

鐙坂の上に「財務省関東財務局真砂住宅」という4階建てのアパートが2棟建っている。昭和50年頃の建築ではないかと思う。その南側の屋敷はかつては「会計検査院長公邸」だったようだが、その間の路地を入ると清和公園東側の道を見下ろす階段の上に出る。その階段の途中に枝道があって横の家へ通じていた。写真はその脇道とその端から清和公園東側の道へ降りる階段である。現在はここにマンションが建って写真の脇道と階段は消滅した。また、上の路地への階段は現在では昔の倍くらいの幅に広げられて、面白みがなくなった。階段の上に出てしまうと昔のままの狭い路地なので、階段だけ広げても意味がないと思うのだが。


追記(2022.01.05)
ねこ氏から寄せられたコメントで、「路地の階段」が1982年にNHKで放送された向田邦子原作のドラマ『胡桃の部屋』に出てくることを指摘していただいた。そのスチール写真もいただいたのでアップする。


手すりの柱は尖頭アーチで、他ではあまり見ないものだ。折り返した階段の下の道は意外とちゃんとした道だったと分る。右下写真の階段は炭団坂。改修前の姿だ。炭団坂の下の木の門が登場人物たちの家で、今は家はなくなっているが写真の門は残っている。

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左:鐙坂下の民家。文京区本郷4-30。1988(昭和63)年10月16日
右:菊水湯。本郷4-30。2007(平成19)年2月16日

左写真は鐙坂(あぶみざか)を下りてきた坂下の正面で、わりと大きい民家ある。現在ではこの家は建替えられている。後ろ中央に菊水湯の煙突が立っているが、その正面は右手に行った民家の隣である。菊水湯は開業して100年以上になるという。建物は昭和37年に改築したものだが、伝統的な古い銭湯の外観だ。鬼瓦や懸魚は旧建物のものだったのかもしれない。
菊水湯の向かいに皆川理容室がある。建物は戦前からあるものに見える。右下の写真が菊坂通りから下道の側を見たもの。

いつ頃まであったのか知らないが、菊坂下道には「東大下水」という川が流れていた。菊水湯の前を通るように曲がって、またすぐ右京山の麓に沿って曲がり白山通りへ向かっていた。水源は東京大学構内というから、「とうだいげすい」と読んでいたら「ひがしおおげすい」だった。川があった頃の東京大学の略称は帝大だ。谷端川―小石川の東の支流という意味だろうか。右京山の崖下に沿った道には路面から暗渠があることが見て取れる。


皆川理容室。本郷4-30。左:1988(昭和63)年1月30日、右:2007(平成19)年2月17日

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炭団坂下の路地。文京区本郷4-32
左:1989(平成1)年5月5日、右:2007(平成19)年2月17日

春日通りの真砂坂上から北へ入って菊坂へ降りる階段の坂道が炭団坂である。菊坂下道に出るので、菊坂へ出るにはどこかの階段を上がらなければならない。炭団坂の下に写真の路地がある。この旧真砂町が乗る台地と下道との間の谷底には、戦前から建っていたと思われる民家が、まだかなり残っている。



2007(平成19)年2月17

路地の奥に平屋の家があり、その向かいの家の前には井戸が。ポンプのコンクリートの台になにか注意書きが貼られている。その文字は読めないが、『東京路上再見1(林順信著、平凡社、1987年、1900円)』に載っている昭和62年撮影の写真には、「一、大きくしずかに/くんでください/二、子供さんはえんりょ/してください/井戸睦会」というボードが台に立てかけてある。

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樋口一葉旧居跡の路地。文京区本郷4-31
上:2007(平成19)年2月17日
左:1989(平成1)年5月5日

「樋口一葉の菊坂旧居跡」の有名な路地である。ちょっと判りにくい場所にあって、ぼくが最初に訪れたのは1988年頃だったが、あらかじめ調べた上でのことだったと思う。今では要所に案内板が出ている。
菊坂下道から路地を抜けて突き当たりの階段とその両脇に建つ古い民家を見ると、本やネットでおなじみの景観なのだが、やはり感動する。ほとんど芝居の背景かセットのような感じがするし、ちょっとした異空間といった思いすらしてくる。
一葉が住んだ場所は下道からの路地の入口に近い左右の2軒であるらしい。奥の井戸があるところまで来てしまうと、かえって旧居跡から遠くなるような気もするが、井戸と階段を見なければ意味がない。20年前と変わりない景観といってもいいが、細かいことをいうと、文京区教育委員会が設置した説明板が新しくなっているのと階段に手すりがついた、といった変化がある。路地に面した家で、建て替わった家もあるに違いない。



左:階段上の路地。1989(平成1)年5月5日
右:鐙坂の路地への入口。2007(平成19)年2月17日

階段を上ると崖の石垣の下に路地が左右に通っている。左は行き止まりだが、右へ行くと鐙坂(あぶみざか)の途中に出られる。鐙坂からの路地への入口には門がある。知らなければ人の家に入ってしまうようで、関係者以外は立入り禁止という無言のメッセージになっている。

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神奈川新聞社。神奈川県横浜市中区太田町2-23。1988(昭和63)年8月6日(2枚とも)

現在、同じ場所に「横浜メディア・ビジネスセンター」が建っていて、神奈川新聞社の本社もそこに入っている。2004(平成16)年3月に完成した。その先代に当たるビルで、『日本近代建築総覧』に「神奈川新聞社(旧十五銀行ビル)、中区太田町2-23、建築年=1922(大正11)年、構造=RC4、施工=清水組」と記載されている。



『かながわの近代建築(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円』に、このビルの経歴がわりと詳しく出ているので以下に内容を書き写してみる。

1919(大正8)年、茂木合名(生糸貿易商で横浜財界の雄)の本店として起工された。ところが茂木合名は大正9年5月に倒産、工事は中止される。その土地を十五銀行が大正10年12月に取得して、11年2月に清水組の設計で工事を再開、11月に完成した。大正12年9月の関東大震災で被災したが倒壊まではいかず、渡辺仁の設計によって補強・改築して14年3月に復旧した。
昭和2年4月、金融恐慌の影響で十五銀行は休業。以後、建物の所有権は転々、昭和18年3月に漸く十五銀行に戻る。19年帝国銀行(後の三井銀行)と合併、帝国銀行太田町支店になる。
敗戦後の21年1月、占領軍に接収され、解除後の29年、三井銀行の所有となる。
31年12月に印刷工場の火災で焼け出されていた神奈川新聞が、32年3月に移ってきた。当然、輪転機など入れるための改装補強が行われている。

『神奈川新聞社』の沿革によると、「1957(昭和32)年8月、横浜市中区太田町2-23の社屋(旧「十五銀行」ビルを改修)に移転」である。3月に神奈川新聞社が買収してビルを改装し、8月から操業を始めた、ということかもしれない。

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国際親善総合病院。神奈川県横浜市中区相生町3-55。1988(昭和63)年8月6日

現在、太田町3丁目に建っている「ライオンズステージ関内メダリオン」という大きいマンションは国際親善総合病院が移転した跡地に建てられたものだ。マンションの竣工は2001(平成13)年9月だが、病院は1990(平成2)年5月には現在地(泉区西が岡)に新築した建物で診療を再開している。
Enjoy! YOKOHAMA 国際親善総合病院(2011.01.23)』というブログで知ったのだが、マンションの玄関の横の壁に、旧病院を飾っていた窓のアーチとメダリオンが記念としてはめ込まれている。その説明版に、「旧国際親善総合病院の建物は、1926(昭和2)年に関東病院として外科医渡辺房吉氏を中心として設立され橋本勉氏の設計により」とあるそうだ。

以下、『 国際親善総合病院>沿革』と『 倶進会(横浜市立大学医学部医学科同窓会)>横浜医史跡めぐり 山手病院』を参照して、病院の沿革を再構成してみた。「かもしれない」「と思われる」などの言葉は省略した。

国際親善総合病院は1946(昭和21)年7月の設立だが、その前身は「横浜一般病院」で、さらにその大元は、1867(慶応3)年7月に欧米人を中核とする委員会によって設立された「The Yokohama General Hospital」である。場所は山手町88番地。山手本通りの元町公園交差点の角で、エリスマン邸の向かい。そこには現在「the Bluff Medical and Dental Clinic」という医院がある。
各国との通商条約は1858(安政5)年に調印され、翌年から横浜は開港して貿易が始まっている。関内の居留地が出来上がり、さらに山手が居留地に編入されたのが1867(慶応3)年である。その同じ年に病院が設置されたわけだ。
時代は飛んで戦時体制に入っていた1942(昭和17)年6月、病院は敵国の資産とされる。1943(昭和18)年9月、日本人を委員に迎えて、改めて「財団法人 横浜一般病院」の設立を申請し、1944(昭和19)年1月認可される。「一般病院」の名前は日本人の間では以前から使われていたらしい。『 昭和調査番地入横浜市全図(大正2年発行、昭和3年訂正、有隣堂本店発行)』に、「一般病院」の記載がある。
すぐ海軍から、山手地区は外人立入禁止区域にしたから立ち退くようにと命じられる。病院は「横須賀海軍病院横浜分院」になり、屋上には高射砲が据えられた。一般病院は相生町の「関東病院」を買収して3月23日に移転し、7月1日から診療を開始した。1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では周囲は焦土と化したが、病院は職員の奮闘で一部の病室を焼いただけで済んだ。
戦後は、「山手病舎(分院)」は進駐軍に接収されて、病院は欧米人の運営に戻った。1946(昭和21)年7月1日、The Yokohama General Hospitalの名称に戻る。なおこの病院は1950(昭和25)年「The Bluff Hospital」と改称した。相生町の病院は1946(昭和21)年7月3日、「財団法人 国際親善病院」として改めて設立された。

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明治屋本店。 神奈川県中区尾上町(おのえちょう)5。 1988(昭和63)年8月6日(3枚とも)

上の写真手前の大通りは国道16号線で、左手にすぐ馬車道交差点がある。写真左のビルは「リッチライフビル」で現存している。写真右のビルは三菱信託銀行が入っているようだ。現在は「キリン横浜ビル」に建替えられた。
明治屋のビルは解体工事に入ったところで、足場が組まれているが外観はなんとか見ることができる。ビルの後ろは足場がなかった。今思えばそんな状態でもきちんと撮っておけばよかった。とにかく建物全体をおさめた1枚が重要なのである。建て替わったビルは「明治屋尾上町ビル」で、1990年2月の竣工。
『日本近代建築総覧』では「明治屋本店、中区尾上町5-76、建築年=1930(昭和5)年、構造=RC4、設計=曽祢中条建築事務所、施工=清水組」である。



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相生ビル。神奈川県中区相生町(あいおいちょう)5。1988(昭和63)年8月6日

馬車道通りと相生通りの交差点角にある古いビル。周富輝の店「生香園本館」が入っているビルである。『日本近代建築総覧』に「相生ビル、中区相生町5-84、建築年=昭和初期」となっている建物だと思う。現在の地図では住所は相生町5-80だ。『総覧』では、詳細は判らない、あるいは未調査だが一応登録しておく、ということらしい。
1988年の写真からは、生香園、エメラダ(コーヒー・スナック)、梅○?(鱧料理)、すみかわ(スナック?)、チェリー(スナック)、大内法律事務所、などが読み取れる。


近影。2009(平成21)年7月26日

タイル貼りだった壁が改修されている。窓枠が替えられた箇所もある。

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佐藤眼科医院。神奈川県中区尾上町(おのえちょう)6。1988(昭和63)年8月6日

建物の前は国道16号線で右手にすぐ、大岡川に架かる大江橋である。個人医院としては近代建築の典型のような立派な建物だ。『日本近代建築総覧』に「佐藤眼科病院、中区尾上町6-90、建築年=1931(昭和6)年、構造=RC3、設計者=平林金吾、施工=大林組」で載っている。
「ウィキペディア」によると、平林金吾は大阪府庁舎(1926年)と名古屋市役所(1933年)および朝鮮貯蓄銀行(1935年)の設計者だった。いずれも設計コンペに応募して採用されたものだ。大阪府庁舎は平林の図面に岡林馨が手を入れたものといい共同設計である。平林は1924年に東京市の臨時建築局技師になり、多くの関東大震災復興小学校の工事管理をしている。1927年から「復興建築助成株式会社」の技師になって、耐火住宅やビルを設計した。佐藤眼科もその関連で設計することになったということだろうか。



左:1988(昭和63)年8月6日
上:2002(平成14)年1月14日

1995年頃かと思うが、上の写真のように大幅に改修されてしまった。知らなければけっこうしゃれたデザインなのだが、やはりもったいないと思ってしまう。しかし建物が古いと設備も、と疑ってしまうのも確かで、難しい問題だ。

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